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 蘇州夜曲 

西安旅行記(1)

 古代中国の王様には個性の強い人が多い。権力も絶大であった為に、暴虐な振る舞いをした人も居た。だが、古代の大事業はそのような人達でなければ成し遂げられなかったのである。中国を最初に統一した秦始皇帝もその一人である。koutei-2t.jpg
 だが、そういう人は意外に評判が悪い。 始皇帝が築いた陵墓を見学したとき、 案内の宗麗さんという三十代のご婦人は、説明の後に必ず「始皇帝は悪い人でした」というのである。
 「どうして? 中国を統一した立派なご先祖様でしょう」と言うと「彼は人民を七十万人も使って大きな陵墓を作りました。労働が過酷で亡くなった方も多いのですよ」と嫌悪感を込めて答える。
 「そうか、でも、貨幣や度量衡を統一した。それから法治国にしたし水利や交通の発達の為に努力されたじゃないですか」と言うと「はい、でも、始皇帝は残酷だったので困るのです」と宗さんはつぶやいた。
 「漢書」には「秦朝の労役は昔の三十倍、税金は二十倍」だったと書かれている。あまりの厳しさに民心は離別し、始皇帝は二度も暗殺されかけている。kufut.jpg

 始皇帝陵に対比されるのは古代エジプトのピラミッドである。クフ王のものは右の写真のような二トン半の石が二百万個以上積まれている。
 こちらは奴隷ではなくて、四千人の自由市民が二十三年かけて建設したそうだ。これが紀元前二千六百年のことだった。建設作業はハードだったが、作業員は王様の為に喜んで働いたと記録されている。「作業員は上機嫌で帰宅し、まるで祭礼のようにパンを腹一杯食べ、ビールを飲んだ」そうである。
 司馬遷は「史記」の中で始皇帝のことを「鼻は高く蜂のような格好、切れ長の目、猛禽のような胸、山犬のような声、恩愛少なく虎狼のような心、困って居るときは人の下にいるが、志を得れば人を残酷に扱うだろう。にも関わらず、引きずり込まれるほどのカリスマ性がある」と書いている。


西安旅行記(2)

 宗さんは「始皇帝は13歳で即位し、22歳で政務を執り、39歳で天下を平定し、50歳で亡くなりました。陵墓建設は、即位直後から36年間もかかっていたのです」と言う。
 「なるほど、自分の在位期間中は陵墓建設をしていたのですね、これはスケールが大きな話だなあ」と感心していると、「はい、始皇帝は自分は不老不死と信じており、永遠の帝国を地下に築いてそこに君臨する考えだったのです」と話してくれた。niwa2t.jpg
 「そうか、でも可笑しいなあ。不老不死なら地下に宮殿なぞいらない筈だよ。地上の宮殿にいればいいのだから」と言うと、宗さんは不機嫌な顔で「不老不死が無理な事は、分かっていたのです」とキンキンした声を出した。キレたのだ。
 「いや、ごめん、ごめん。悪意はなかったのだよ」と慌ててご機嫌をとる。純粋な人を怒らせてはまずい。
 宗さんは機嫌を取り直し「始皇帝は地下で百官に傅かれて軍隊も指揮しようと考えていたのです。指揮所、部隊、外出用の車馬一式迄そろえました」
 「そうか、兵馬俑は地下軍団と言われているね」
 「そうです。おまけに陵墓の中は地上に似せて山、揚子江、黄河、海まで作りました」と言うのだ。
 史記によれば「水銀を以て百川江河大海を為しーー」と言う。

heiba-1t.jpg 地下軍団たる兵馬俑は、始皇帝の陵墓の東方1.5kmにある。地下5mの深さで、東西230m、南北62mの範囲に11列のトンネルを掘り、等身大の兵士や馬の俑が6800体並んでいるのだ。
 その姿は、まるで部隊が出撃に備えて整列しているようである。兵馬俑は赤土を900度で素焼きにしたもの(テラコッタ)である。
 兵士の一人一人の人相が全く違うものが丹念に細工されているのがわかる。表情が豊かで、その人相から現在でも兵士の出身地方が弁別できるという。
 宗さんは「紀元前に良くもこれほど生き生きした大きな彫刻ができたと思います。今の中国は万事お金のことばかり考えていますから、こんなに良いものは出来ません」と寂しげに言う。


西安旅行記(3)

 ところで、兵馬俑の隊列は四列縦隊ではないか。
 「あれっ、宗さん、古代中国の軍隊には伍と言う言葉がありましたね。軍隊では五人単位で隊伍を組むと言います。兵馬俑も五列縦隊かと思ったのにどうして四列縦隊なのでしょうか」heiba2t.jpg
 「さあ、わかりません。ガイドを何年もしていますが、そんな質問は初めてです」と、ニベもない返事が帰ってきた。知らないところは突つかない方がよい。
 話題を変えて、楽しく旅をする事とした。「宗さん、1.9mもある兵馬俑はさぞ大きな窯で焼いたのでしょうね」 「俑は組立式なのです。頭部、胴体、手、足に分けてパーツごとに作っています。頭と胴は空洞ですが、足は重くして安定させるため空洞はありません」と言うのだ。
 「兵馬俑は始皇帝陵を背にして東をにらんで居ます。秦は元々西方からきて東方の六ケ国に勝ったのですが、やはり、その後も東方の国々を恐れていたのです」と、宗さんは説明してくれた。

banri-2t.jpg さて、始皇帝が築いた万里の長城に着いた。 高さ6.5m、 幅6mの長城が山の尾根伝いに延々と6,000kmに渡って続いている雄大な光景を見渡すと暫く言葉がでてこない。
 「大変な土木工事だな」
 「でも、これは始皇帝が全部作ったものではありません。戦国七ヶ国は元々、北方の匈奴の侵略を防ぐために長城を築いて居たのです。始皇帝はそれに手を加えて、繋いだのです」
 「そうですか」と言う話をしながら売店で一休みをする事にした。 その時であるーーー。

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このページは山岡靖義氏の作品(URL http://www.hi-ho.ne.jp/stag/)を印刷用に編集したものです。


西安旅行記(4)

 「お客さん、日本人ですか」と八十歳位の男性が話しかけてきた。 「はい、東京からです」
 「そうですか、実は、私は日本の学校を出ました。東京は懐かしいですよ。中国の印象はどうですか」と聞いてくる。daiwat.jpg
 「落ち着いていますね。国が広すぎて、近代化が遅れている処もありますが、文化遺産は立派に維持されていてすばらしいですよ」と当たり障りのない返事をしたところ「実は、最近の中国は力も無いくせにふんぞり返って居るから気にくわないのですよ」と、意外に硬派の話題を出して来たのだった。
 その老人は周りを気にして小声で話を続けた。
 「いいですか、中国の通貨は元だけれども、紙幣には円と書かれている。中国語の発音は元も円も同じだ。ところが、両方の紙幣を並べると、一元は日本の十七円だ。つまり、日本の一万円札は中国の六百円の価値しかないと言ってほくそ笑んでいるのだ」
 「なるほど、なにが目的でそんなことを考えるのですか」 「日本円の価値を下げようとしているのだ。わかりますか?日本の経済援助を受けながら、日本の上に立とうとしているのだ」ten2t.jpg
 「なるほど」 「まだ、ありますよ。お話しましょうか」 「どうぞ」
 「クリントン大統領がこられた時、西安城で盛大な古式による歓迎をした。大統領もお喜びになった。ところが、それは昔、周辺の小国が中国皇帝に恭順の意を表明するために訪れた時の儀式と同じだった。だから、クリントン大統領は中国に臣下の礼を執ったと言うのだよ。なあに、今の中国にそんな力があるものか」と、腹立たしげに言う。
 彼は、まだ、中国元について話したい事があるようだった。
 そこに、ガイドの宗さんが出発を告げに来た。
 彼は、暫く沈黙した後、縋るような目つきで短く言った「お客さん、頑張れよ」

(おわり)