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ヨルダン旅行記(1)

 ヨルダンのクイーン・アリア国際空港の税関には自動小銃で武装した若い兵士がずらりと配置されていた。フセイン国王がお亡くなりになられて三週間後のことであり、頻発していた「テロ事件」への警戒もかねて、警備は、厳重を極めているのであった。
 「何だか怖そうだね」という日本人旅行客に「いいえ、こうやって護っていただくと安心なのですよ。だって我々は丸腰でしょう。事が起こればお手上げですからね」とさりげなく話していると、案内の係員が「日本の皆さんはどうぞこちらの出口においで下さい」と言う。nebot.jpg
 そして、なんとフリーパスで税関を通してくれたのには驚いた。ガイドのガブリー氏は日本語が堪能な四十歳台の男、我々の気持ちを察して「兵士が銃を持って警備をしていますが、中東諸国では日常のことです。場所によってはバスの前後にパトロールが付きます。では行きましょう」と説明してくれた。

 やがてバスはアンマン南方のネボ山に着いた。モーゼの墓があるところである。見晴らしの良い台地であり、見渡す限り荒涼とした砂漠の丘陵が続いている。mozet.jpg


 深い谷を遙かに隔てた向いの斜面には、所々に風化した岩が砂地から突き出ており、その周りには乾燥に強い雑草や小さな茂みが黄ばんでいる地面に僅かな緑を添えている。
 乾いて埃っぽい景色だ。丘陵の麓まで遙かに視線を伸ばすと、薄く霞が掛かっている中にヨルダン川と死海が横たわっている。
 死海は海抜マイナス400メートルに有るそうだが、確かに遠く深いところに見える。その対岸はイスラエルである。ヨルダン川の両岸には青々とした茂みが繋がっており、肥沃な地帯のようである。遙か彼方にエルサレムが有るそうだが、はっきりとは見えなかった。
 音のない、枯れた、広く、遠くまで見渡せる悠然たる大自然の姿を眺めていると、まさに天上から地上をゆったりと眺めているような荘厳な気分になってくる。
 モーゼは此の地に立って霊感を得たと言うが、この壮大なスケールの景観を眺めていると何となくそれが分かる感じがするのだ。ここには旧約聖書にゆかりのある地名が多い。まさしくユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地なのだ。


ヨルダン旅行記(2)

 此の地に六人の予言者が出た。人類の祖アダム、アブラハム、ノア、モーゼ、イエスそしてマホメットである。
moze-spt.jpg ガブリー氏は言う「マホメットは一番後から出てきた予言者なのです。新しい予言者によるイスラム教が人々に信仰されるためには他の宗教にはない魅力が必要です。
 つまり、それは神と信者が直結している処にあります。ですから信仰の仲介をする牧師や僧侶はおりません。又、人種、階級等の差別をしません。ですから六億の人々に広まったのです」と言う。
 「成る程、本当の信仰とはそう言う物でしょうね。但し、申し訳ないけれどもイスラムの方々は、何となく後進性というのか、コーランに余りにも忠実すぎて、社会の進歩が後れているような気がするのですが」と話すと、とたんにガブリー氏は雄弁になった。
moze-bt.jpg 「いいえ、違います。元々イスラム教の諸国は西欧よりも遙かに文化的に進んでいたのです。630年にマホメットがメッカを占領、711年にはイベリア半島(スペイン)を征服した後、751年に唐を破って印度付近まで版図を広げていたのですよ。その当時の西欧は戦争や略奪で混乱していたのですよ」
 確かにそうだ。当時のアラビアの文化は進んでいた。その証拠に初代カリフの妻マイスーンが632年に作った、次のような瑞々しい情感に溢れた詩を読めば、その文化のレベルが分かる。
 その当時、ヨーロッパは中世以前であり、まだキリスト教の権威も確立されていなかった。我が国では奈良時代以前のことである。

荘重な広間よりは 微風に揺らぐテントの方が
又、美しいベールよりは 砂漠の衣の方が私は好き
天幕の陰で食べるには パンの皮がいい
ふっくらしたパンは要らない。
見守って呉れるのは 吠える犬。
笑う猫ではいけない。
眠るときは風の調べを耳にしたい。
タンバリンの音などいや。
夫の手管よりは若者の激しい剣が、
肥えた男よりは粗野でほっそりした部族の男が私は好き。

ヨルダン旅行記(3)

 その後、929年コルドバに蔵書四十万冊の大図書館を造り、全欧の学者が集まったと言われている。そこでは古代ギリシャの科学、哲学がアラビア語に翻訳され、学問が大いに興った。
elkazunet.jpg 西欧は後に大航海時代を経てルネッサンスを迎え、フランス革命の後に素晴らしく発展をした。個人の自由、民主主義、法の支配、人権重視、文化の発展と科学技術の著しい進歩等を成し遂げたが、その折々に参考にされたのがアラビア語に翻訳されていた古代ギリシャの科学・哲学の文献だったーーーという事はあまり知られていない。
 ペトラの遺跡に着くと岩に彫られている神像の首から上が削り落とされていた。「これは十字軍の仕業です。彼らが偶像破壊をしたのです」と言う。
 十字軍は1096年から1270年にかけて七回も西欧から派遣された。目的はイスラム教徒からのエルサレムの奪回である。wajit.jpgだが、初回は編成装備がはっきりしていない烏合の衆の為失敗。
 二回目に成功してエルサレムでは四万人の老若男女が犠牲になったという。多分、その時頭部が傷付けられたのであろう。
 その後の十字軍の遠征成果はパッとしない。内部分裂、財宝奪取、商人に荷担したり、指揮官のルイ九世が捕らえられたり、病死したりしてろくな事はない。
 「十字軍は此処に遠征してきて初めてお風呂に入ったのですよ。西欧にそんな習慣は無かったのです。お尻を洗ったのも初めてだったのです。アラビアの生活はとても衛生的で進んでいたのです。分かりますか」


ヨルダン旅行記(4)

 このように進んだ文化を持っていたイスラムの世界は、1492年スペインのレコンキスタの成就以来、進歩が見られなくなってしまった。
 「コーランか剣か」と言う武断的なスタンスで版図を拡大していた時代に感じられたエネルギーは、一体何処に消えてしまったのだろうか。
 文明は誕生した後、栄え、やがて衰えて行くものだとは言うがーーー。
kitet.jpg イスラム教は何故停滞してしまったのか。一つは偏った党派の独裁による慢心である。九世紀にイスラムの進歩派を排斥して以来、コーランを絶対視して総ての改革に反対する保守派が地位を得て小さな安定の中での惰眠をむさぼって来たのである。
 もう一つは教育の歪みである。小学校から大学までイスラム教徒以外の思想は取るに足りないと教え続けてきたのだ。
 その間に、ヴァスコ・ダガマがアフリカ経由の航路を発見し、中東は世界の中継貿易地としての価値を失ってしまった。国際的な取引の中心地であった時代には新しい思想や学問、文化の交流が頻繁に行われていた。アラビアン・ナイトのページにはその全盛期の出来事が書かれている。
sevent.jpg 「ガブリーさん、これからのイスラムは大変だね。観光だけでは厳しいでしょう。何か大きい事業を考えないと先細りになりますよ。コンピューターなぞ良いのではないですか」
 「いや、コンピューターと医療はイスラエルには敵いません。戦争をする度に力を付けていますよ。我々には巨大な富を持つ市民も大勢いますからね。そういう人と共に外地に行って大商人になるのが良いでしょうね」
 「そうですか、やはりキャラバンの伝統ですね。イスラムの連帯意識をもって、もう一度アラビアン・ナイトを残して下さいよ」

(おわり)