三者三様の想い紹介

日本の著名人
 辻元清美は、「かつて、太平洋の島パラオで、おばあさんから次のような話を聞きました。」と言っています。
「日本の兵隊さんは、島を守るために武器を持って来たといっていたが、武器を持った兵隊さんが島に来たから、攻撃の対象になって、攻められ、民間人がたくさん死んでしまった。」
 中国に「南京虐殺記念館」を造り、総連など日本側がそろえた資料を展示し、30万人虐殺など「政治的数字」を挙げている同党の田辺誠と同じように、政敵憎しと自己主張の為には何でも誘導して造る人です。

ニミッツ提督 ペリリュー神社の碑
 昭和57年5月創建。御祭神は天照大神と戦死者一万余名の「護国の英霊」です。神社前の左の掲示板には、ペリリュー島のイサオ・シゲオ尊長そんちょうによってこの趣旨が書かれています。右の掲示板には、戦闘の経過が要約され、次の碑が建てられています。

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大東亜戦時、4万2千の兵でこの島を攻略し戦闘損害比率約40%を出した敵将ニミッツ提督の原文
Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.
「この島を訪れる総ての国からの旅人達よ、この島を守り全員が散った日本軍人がいかに勇敢で愛国心に満ちていたかを伝えられよ」
英文は元航空幕僚長浦茂氏が昭和59年に渡米し、ニミッツの資料を求めてアナポリス海軍兵学校を訪れた時、教官からニミッツの詩として伝えられたもの

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パラオ共和国国旗 やや左に寄った丸は満月、
周囲は青い海の色
 資料3参照

パラオ共和国ペリリュー島の人々 ペ島の桜を讃える歌
 昭和56年1月、パラオ共和国が誕生した時、日の丸をデザイン化した国旗を制定しました。それと共に、独立を記念して、ペリリュー島守備隊を讃える歌も作りました。作詩者はペリリュー島のオキヤマ・トヨミ、ショージ・シゲオの両氏。題は「ペ島の桜を讃える歌」です。

1
激しく弾雨たまが降り注ぎ
オレンジ浜を血で染めた
強兵つわものたちはみな散って
ペ島ペじまは総て墓地はかとなる
2
小さな異国のこの島を
死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち
弾射ち尽くし食糧しょくもない
3
将兵ヘいしは"桜"を叫ぴつつ
これが最期の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ
別れの"桜"に意味深し
4
日本の"桜"は春いちど
見事に咲いて明日は散る
ペ島ペじまの"桜"は散り散りに
玉砕れども勲功いさおは永久とこしえ
5
今 守備勇士もののふの姿なく
残りし洞窟じんちの夢の跡
古いペ島ペじまの習慣で
我等勇士の霊魂たま守る
6
平和と自由の尊さを
身を鴻こうにしてこの島に
教えて散りし"桜花"
今では平和が甦る
7
どうぞ再びペリリューヘ
時なし桜花さくらの花びらは
椰子の木陰で待ちわびし
あつい涙がこみあげる
8
戦友遺族の皆さまに
永遠いついつまでもかわりなく
必ず我等は待ち望む
桜とともに皆さまを

 ペリリュー島の守備戦を、日本の国花・桜に託し、謳いあげた歌詞です。
 守備隊員は、サクラ・サクラという最後の電文を打って、散っていきました。
 一万二千の英霊は島民からこのように讃えられています。

 桜を見たことのない島民が、日本語を使って、よくぞここまで作れたものだ。船坂さんの答は次のようなものでした。

「たしかに、ペリリュー島には桜はない。島民は殆んど桜を見たことがない。しかし、彼らは戦前日本の教育を受けている。
 それだけに、日本人よりも美しい桜ヘのイメージがある。
 それに彼らは、戦争直後、倒れた多数の軍人の遺体を葬り、今でも毎日一万の英霊と共に生活しているのだ。
 歌詞にあるように、ペ島はすべて墓地なのだ。それだけに、日本人以上の気持がこの歌詞となって結晶したと思うのだ。」

 作曲者は同島小学校副校長、ウィンティ氏。彼らは今もこの歌を愛唱しているそうです。

 船坂弘著『血風ペリリュー島』 原典参照