理趣経

「大楽金剛不空三摩耶経(大いなる楽は金剛のごとく不変で空しからずして真実なりとの仏の思いを示せる経)」と言い、または「般若波羅蜜多理趣品(真実なる智慧の道理)」とも言う。
 唐の都長安の大興善寺の三蔵沙門なる大広智の不空が代宗皇帝の詔を奉じて訳す。

 はじめに(序説)
第一段 欲望は浄らかなり(大楽の法門)金剛さったの章
第二段 さとりはすべてにあまねし(証悟の法門)大日如来の章
第三段 悪にその性なし(降伏の法門)釈迦牟尼如来の章
第四段 ものすべて浄らかなり(観照の法門)観自在菩薩の章
第五段 すべてに富めり(富の法門)虚空蔵菩薩の章
第六段 真実なる活動(実働の法門)金剛拳菩薩の章
第七段 言葉に相なし(字輪の法門)文珠師利菩薩の章
第八段 輪の如く欠くる処なし(入大輪の法門)纔発心転法輪菩薩の章
第九段 供養とは何ぞ(供養の法門)虚空庫菩薩の章
第十段 大いなる忿り(忿怒の法門)摧一切魔菩薩の章
第十一段 平等にして差別なし(普集の法門)普賢菩薩の章
第十二段 有情みな加持す(有情加持の法門)外金剛部の諸天の章
第十三段 この理趣をたたえて(諸母天の法門)七天母の章
第十四段 ふたたび理趣をたたえて(三兄弟の法門)三高神の章
第十五段 みたび理趣をたたえて(四姉妹の法門)四天女の章
第十六段 究極の真理とは何ぞ(各具の法門)四波羅蜜の大曼荼羅の章
第十七段 真実なる智慧の理趣(深秘の法門)五種秘密三摩地の章
 おわりに(流通分)

はじめに(序説)

 このように私は聞いた。
 ある時、お釈迦様は、すべての如来が持っている金剛のように不変不壊な力によって、極めて勝れた境地に到達された。
 そして、すべての如来の智慧を象徴する宝冠によって、頭を浄められ、三界の主となられたのである。
 このように、お釈迦様は、すべての如来の一切のものを知る最上の智慧を得られ、心と体の完全な自由を得られた。
 その上、お釈迦様は、すべての如来の一切の行為が平等な慈愛によることを示す種々様々な事業を遂行された。

 かくて、お釈迦様は、あますかたなく、すべての人々の世界における、すべての人々の願いを、みなことごとく完成させて、過去と現在と未来との三世のすべての時において、御自分の身(からだ)と口(ことば)と意(おもい)との三つの働きは、いささかも停滞するところがなくなった。
 こうして、お釈迦様は「あまねくすべてを照らすもの(大日如来)」と一体になられたのである。

 この大日如来は、この世界の果てにある他化自在天(他を救うことが自在な所)の王宮に居られる。
 ここはすべての如来が常にゆきかい、その優れた様が褒め賛えられている大宝殿である。
 くさぐさの宝が錯綜し、吊りおろされた鈴や鐸そして絹旗が微風に揺れ動き、宝珠のついた髪飾りや装身具、半月や満月の形をした宝石などが、いとも美しく飾られている。

 この美しい宮殿の中に、大日如来は八十億もの多くの菩薩と共に居られた。
 その菩薩の中でも、

 金剛手菩薩大士(金剛のように堅固な菩提心の体現者)、
 観自在菩薩大士(大いなる慈悲の実現者)、
 虚空蔵菩薩大士(一切の事物を包容して凡存在を妨げない福徳者)、
 金剛拳菩薩大士(大いなる三密の行者)、
 文珠師利菩薩大士(最上なる智慧の完成者)、
 纔発心転法輪菩薩大士(素早くそして巧妙な説法者)、
 虚空庫菩薩大士(無尽にして無余なる供養者)、
 摧一切魔菩薩大士(外に憤怒を内に悲憂を懷いて悪を摧く奉仕者)

の八大菩薩は座の中心であり、これらの大菩薩たちに尊敬されて、取り囲まれて、大日如来は正しい法(おしえ)を説かれたのである。

 その法は、始めに善く、中に善く、終りに善く、表現の内容も巧妙で、いささかの誤りもなく円満であり、清らかで澄みわたったものである。

第一段 欲望は浄らかなり(大楽の法門)
    金剛さったの章

 その最初の教えは「一切の存在(法)は清浄である」という教えである。
 このことについて、大日如来は十七の清浄なる菩薩の境地をあげて次のように説かれた。

 男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である。
 欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも、清浄なる菩薩の境地である。
 男女の触れ合いも、清浄なる菩薩の境地である。
 異性を愛し、かたく抱き合うのも、清浄なる菩薩の境地である。
 男女が抱き合って満足し、すべてに自由、すべての主、天にも登るような心持ちになるのも、清浄なる菩薩の境地である。
 欲心を持って異性を見ることも、清浄なる菩薩の境地である。
 男女交合して、悦なる快感を味わうことも、清浄なる菩薩の境地である。
 男女の愛も、清浄なる菩薩の境地である。
 自慢の心も、清浄なる菩薩の境地である。
 ものを飾って喜ぶのも、清浄なる菩薩の境地である。
 思うにまかせて、心が喜ぶことも、清浄なる菩薩の境地である。
 満ち足りて、心が輝くことも、清浄なる菩薩の境地である。
 身体の楽も、清浄なる菩薩の境地である。
 目の当たりにする色も、清浄なる菩薩の境地である。
 耳にするもの音も、清浄なる菩薩の境地である。
 この世の香りも、清浄なる菩薩の境地である。
 口にする味も、清浄なる菩薩の境地である。

 なにがゆえに、これらの欲望のすべてが清浄なる菩薩の境地となるのであろうか。
 これらの欲望をはじめ、世のすべてのものは、その本性は清浄なものだからである。
 ゆえに、もし真実を見る智慧の眼である般若を開いて、これら一切をあるがままに眺めるならば、あなたたちは真実の智慧の境地に到達し、すべてみな清浄でないものがないという境地になるであろう。

 金剛手菩薩よ。
 この清浄なる境地を生み出す真実なる知慧の理趣(みち)を聞かされたならば、すべての障りは速やかに消え去り、光り輝く菩提(さとり)の道場(にわ)に入ることであろう。
 すべての障りとは、貧りや瞋りなどの煩悩の障り、法(教え)を聞きえない障り、悪業のみをなす障り等で、これらすべての障りを積み重ねても、地獄の境涯に落ち入るようなこともなく、重い罪を作ったとしても、それを消滅することは難しいことではない。

 この正しい法門をただ聞くだけでなく、よく身に受持し、日に日に読誦し、よく心に思惟すれば、この世において、父母によって生まれたこの身体のままで、すべてのものの片寄らぬ本質を見極め、金剛のごとく不壊で安らかな境地になるであろう。
 こうして、あなたたちは、なにものにおいても、拘束を受けることなく自由となり、はかり知れぬ快楽と歓喜に満ち満ちることになるであろう。
 そして、十六の大菩薩によって象徴される十六の生の段階(禅定)を進んで、金剛のごとく不壊なるもの(金剛さった)を本質とする私「あまねくすべてを照らすもの(大日如来)」の境地を獲得することであろう。

 このような大日如来の説法を拝聴した金剛手菩薩は、すべての如来の大乗(こよなき)現証(さとり)の三摩耶(思い)を示し表わす曼荼羅に住している持金剛者の中にあって、殊に勝れた者となり、この世の悪を調伏して余すところがない一切義成就菩薩となられた(一切の道理にかなったことを成し遂げた)。

 かくて、金剛手菩薩は、この「欲望はすべて浄らかなり」という教えを表わすために、顔を和らげ、微笑まれ、左手に教えを象徴する金剛慢の印を結び、右手で菩提心(自分をよく知ろうとする心)を象徴する五股の金剛杵(五股杵)を揺り動かして、勇み進みゆく勢いを示された。
 そして、大いなる楽が金剛のごとく不壊で空しからずという境地を示すために、この教えを一字で表わす聖音「フーン」を唱えたのであった。

第二段 さとりはすべてにあまねし(証悟の法門)
    大日如来の章

 続いて、大日如来は、すべての如来の現等覚(さとり)を生み出す教えを説かれた。
 それはすなわち、あらゆるものの本性は、悩みを離れ、寂静であるという教えである。
 これこそが真実なる智慧の理趣(みち)である。

 一つには、金剛のような現等覚である。
 これは、すべてに普遍で平等なることを知る悟りであり、金剛のように堅固で不壊な大菩提である。
 これは金剛平等(大円鏡智:澄んだ水の表面に喩えられる阿しゅく如来の智慧)と言われる。

 二つには、すべての利益が等しいことを知る現等覚である。
 この大いなる菩提は、すべての利益に基づき、慈悲によるがゆえに差別がない。
 これは義平等(平等性智:澄んだ水の水面が同じ高さであることに喩えられる宝生如来の智慧)と言われる。

 三つには、法(教え)が平等であるという現等覚である。
 この大菩提は、ものの自性が清浄であり、すべてのものにあまねくゆきわたり、その教えはすべての人々を教化するからである。
 これは法平等(妙観察智:澄んだ水の水面にすべてを映し出すことに喩えられる阿弥陀如来の智慧)と言われる。

 四つには、すべての業が平等であることを知る現等覚である。
 この大いなる菩提は、私欲にとらわれず、すべての分別動作をそのままに、如来の種別を超えた平等の境地に通ずるからである。
 これは一切業平等(成所作智:澄んだ水がすべてのものの成長を育むことに喩えられる不空成就如来の智慧)と言われる。

 この「さとりはすべてにあまねし」という教えを四段に分けて説き終り、大日如来は金剛手菩薩に呼びかけられた。

 金剛手菩薩よ。
 もしあなたたちがこの四つの悟りを生み出す法を聞いて、これを読み誦え、身に保ち持っていたならば、たとえ今ここで数えきれない重い罪をなしたとしても、必ず一切の地獄に墮ちるという報いを超えて、そのままで無上正等覚(さとり)を証することであろう。

 かくて、大日如来は、第一段で、すべてが大楽であることを示したのに続いて、第二段では、それを実現する方法を説き終り、これらの四つの現等覚を、より一層に明かにしようと考えて、顔を和らげ、微笑まれ、手に智拳の印を結び、「一切の法は自性平等(法界体性智:澄んだ水がいたるところにゆきわたることに喩えられる大日如来の智慧)」という教えを一字で表わす聖音「アーハ」を唱えたのであった。

 すでに、大日如来は、御自分の智慧を主客の両面から説き終られて、この理想の世界を八大菩薩によって象徴される八つの法門として、もっと具体的に説明しようとされた。

第三段 悪にその性なし(降伏の法門)
    釈迦牟尼如来の章

 大日如来は、従い難いものどもを、心身を制御することによって、煩悩や悪行に打ち勝つという調伏の修行に励む釈迦牟尼如来(お釈迦様)の姿になり、すべての法は平等で、善悪を離れているという最も勝れた境地をもたらす教えを説かれた。
 これは真実の智慧の理趣(みち)である。

 貧り(むさぼり=貪欲:自己の欲するものに執着して飽くことを知らないこと)は、その本質からすれば、善悪の分別も、それに執らわれた表現も超えたものであり、人によっていかなる善にも活かすことができる。
 貧りがかかるものである以上、瞋り(いかり=瞋恚:自分の心に逆らうものを怒り恨むこと)も同様で、善悪の分別も表現も超えたものである。
 したがって、もし自我に執着することなく、それを善に活かしきれば、邪悪に打ち勝つための大きな瞋りが生み出される。
 このように、瞋りが善悪の分別を超えたものであるとすれば、痴しさ(おろかしさ=痴愚:根本の真理を知らないこと)も同様で、善悪の分別を超えたものである。
 ゆえに、小さな自我に執らわれず、それを善に活かす時は、これが愚かとか、あれが賢いなど、物事の理非をあれこれと言いたてるような、小さな痴しさを超越して、大きな痴しさの境地に至るであろう。

 このような三毒と呼ばれる貧りと瞋りと痴しさの悪しき心の働きは、すべて相対的な区別にたった認識に過ぎず、すべてのものは善悪の区別や表現を超えたものなのである。
 したがって、すべてのものが、その本質において、現象の上に見られる相対的な区別や表現を超えたものである以上、この本質を知るための真実の智慧の理趣も同様に、かかる区別や表現を超えたものでなくてはならない。

 こうして「悪はもともと悪ならず」という善悪を超えた法門を説き終わり、大日如来は金剛手菩薩に呼びかけられた。

 金剛手菩薩よ。
 もしあなたたちがこの「悪にその性なし」という理趣を聞いて、これを読み誦え、身に保ち持っていたならば、たとえ三界の一切の生き物を殺したとしても、決して悪の報いを受けて地獄に墮ちることはない。
 それどころか悪しきものを調伏(うちなび)かしたことの果報を得て、速やかに無上正等覚(さとり)を証することであろう。

 かくて、金剛手菩薩は、この悪を調伏する教えを、より一層に明らかにしようと考えて、手に降三世の印を結び、蓮華の花のような美しい微笑みをうかべながら、一方では、はげしい忿怒の表情で、眉をひそめて睨みつけ、鋭い牙を出しながら、法力を以て仏敵や怨敵や魔障などのすべての悪を降伏する(討ち倒す)姿に変身された。
 そして、この教えを一字で表わす聖音「フーン」を唱えたのであった。

第四段 ものすべて浄らかなり(観照の法門)
    観自在菩薩の章

 さらに、大日如来は、善悪が共にその本性において平等にして清浄であることを示すために、「ものすべて浄らかなり」という真理を自由に観る智慧を生み出す理趣(みち)を説かれた。
 この境地は観自在菩薩の境地である。
 これは「四種の不染」の教えと呼ばれる。

 この世間における一切の貪欲は清浄である。
 何となれば、すべてのものの本性は清浄であって、善や悪の貪欲などという区別は現象の上にあらわれたものに過ぎず、決してその本質にまでさかのぼって汚すことができるものではない。
 このように貪欲が清浄であるとすれば、この貪欲の不足によって起こる瞋恚も痴愚も、その心に根拠がなく、すべて清浄である。(金剛法菩薩)

 このように、貪欲も瞋恚も痴愚も、この世のすべての垢(けがれ)が清浄であるがゆえに、これらの垢から生じる一切の罪の業(おこない)も、その本性は悪ではなく、極めて清浄である。(金剛利菩薩)

 また、この世における一切の構成要素も、その本性は善悪の区別なく清浄であるから、これらの構成要素が一時の存在を保つために、仮に組み合わさったもので、すべての生き物は清浄である。(金剛因菩薩)

 さらに、この世の中で働いている理性も、宇宙の本性そのものであり、大日如来の最高智のあらわれなのだから、とても浄らかで、現象の上の区別や表現で汚されるものではない。(金剛語菩薩)

 このように、貪欲の本質が清浄であり、諸々の貪欲から起こる瞋恚も痴愚も清浄であるならば、これらの三毒から生じる悪業も、本質は清浄であると観なければならない。
 世界を構成する一切は清浄であり、それを自覚する智も清浄である。
 この本質の清浄性を証明する四つの見方(四種の不染)を説き終わり、大日如来は金剛手菩薩に呼びかけられた。

 金剛手菩薩よ。
 今ここで私が説いてきた真理の理趣を、身に受持し、読んで唱え、よく心の中に考えたならば、たとえこの現実世界の中に生活し、様々な欲望の中にあっても、その本性までが汚染されることはない。
 それはちょうど、濁った池の中に根を沈め、泥で自らを養いながら、そこから咲きい出る白や赤の蓮華の花が、決して泥に汚されないのと同じである。垢は美しいものにかぶさる仮染めの塵にみたてることができ、その本来の清浄を観ぬく時には、無上正等覚(さとり)を証することであろう。

 かくて、すべてのものの真実を観ぬくことがまったく自由な観自在菩薩の姿をとられる大日如来は、この「ものすべて浄らかなり」という真理の意味を、より一層に明らかにしようと考えて、顔を和らげ、微笑まれ、左手に持つ蓮華を、右手で開花させるような、開敷蓮華の姿勢(泥中にあって清浄を保つ蓮華の法門)を示めされた。
 そして、諸々の欲望がものの本性まで汚染できないことを観察し、すべての生き物が汚されることがないという真理を一字で表わす聖音「フリーヒ」を唱えたのであった。

第五段 すべてに富めり(富の法門)
    虚空蔵菩薩の章

 ついで、大日如来は、三界のすべてのものの主であり、そのすべての福を集める一切三界主如来の姿となられ、すべての如来がすべての人々に灌頂(めぐみ)する真実なる智慧の理趣(みち)を説かれた。
 これは灌頂の智慧をみきわめる「四種の施行」である。

 まず、自ら智慧の水をすべてのものに灌ぐものとなり、これによって真理を悟って成仏する。
 最上の宝を他人にも自分にも施し、三界のすべての心に願うところとなり、三界の法王の境地に到る。(灌頂施)

 また、あらゆる人々に義利(よきもの)を施し、世の生活に不如意なものを取り除く。
 そうすれば、この世の一切の願いは満ち足らされるであろう。(義利施)

 次に、如来の法(おしえ)を人々に施すことにより、一切のものが法性(普遍の真理)を獲得することであろう。(法施)

 最後に、生(いのち)の資(もと)となる種々様々なものを施す。
 この行ないによって、世のすべての飢えたるものは、ことごとく苦しみから救われ、身口意(しんくい)も安らかで楽しいものとなるであろう。(資生施)

 かくて、一切の如来の灌頂智蔵という真理の体現者であり、虚空(おおぞら)のように無限の福徳を身に持つところの虚空蔵菩薩は、この「四種の施行」の真理を、より一層に明らかにしようと考えて、顔を和らげ、微笑まれ、金剛と宝珠とを連ねて作った冠を頭に頂いて、「すべてのものに智慧の水を灌ぐ」という教えを一字で表わす聖音「トゥラーン」を唱えたのであった。

第六段 真実なる活動(実働の法門)
    金剛拳菩薩の章

 次に、大日如来は、一切の如来の活動が完全無欠であることを見まもる智慧を備えた得一切如来智印如来の姿となられ、すべての如来の身口意(しんくい)の活動が、そのまま私たちの上に加持される(およぶ)ことを知る真実なる智慧の理趣(みち)を説かれた。
 これは私たちに真実なる働きをもたらす「四種の智印」の教えである。

 まず、あなたたちの小さな我に執らわれることを止め、何ものにも執着しない自由な活動を行なうようにすれば、あなたたちの活動が、そのまま一切の如来の身(活動)と同じものになり、あなたたちの身体の上に、諸々の如来の活動(宇宙の活動)を実現することになろう。(身印)

 また、真実なる智慧の教えを聞いて、邪悪な見解を排斥すれば、一切の如来の語(言葉)が、あなたたちの言葉と同じになり、如来の法(宇宙の音声)を体現することになろう。(語印)

 さらに、真実なる智慧の真義を悟り、一切の如来の智慧の働きを知ったならば、あなたたちの身体のままで、諸々の如来の心の活動(宇宙の真理)を実現できる三摩地(境地)に到達することになろう。(心印)

 最後に、これらの活動のすべてが、如来の心のままに働くことになれば、あなたたちの業(おこない)が、一切の如来の金剛のごとく不動な業と等しくなり、諸々の如来の最も勝れた完成の境地(宇宙そのもの)に到達することになろう。(金剛拳印)

 この「身口意の全活動の完全性」の法門を説き終わられて、大日如来は金剛手菩薩に呼びかけられた。

 金剛手菩薩よ。
 もしこの三つの活動の完全性という真実なる智慧の理趣を聞いて、これを読み誦え、身に保ち持っていたならば、一切の自由を獲得することであろう。
 また、一切の智慧の自由を得て、自分の知能活動が、如来とまったく同等になるであろう。
 さらに、小さな我を離れる時に、あなたたちの身口意の活動は、如来の身口意の活動と等しくなり、すべての行動の完成成就を得ることができるであろう。
 すなわち、身と口と意とのすべての活動が、金剛のごとく堅固で不動なる完成の境地に到達するのである。
 そうして、あなたたちは、ただこの身のままで、無上正等覚(さとり)を得るのであろう。(即身成仏)
 かくて、大日如来は、この真実なる活動の理趣である「四種の智印」を教えるために、金剛拳菩薩の境地に立たれ、この「四種の智印」の教えを、より一層に明らかにしようと考えて、顔を和らげ、微笑まれ、この自由の境地を表わす金剛拳の印を結び、金剛のごとく堅固で不動なる全活動の完成を一字で表わす聖音「アハ」を唱えたのであった。

第七段 言葉に相なし(字輪の法門)
    文珠師利菩薩の章

 続いて、大日如来は、すべての分別と戯れの議論を離れた智慧の完成の境地に立たれ、この境地を象徴する一切無戯論如来になられて、アの音から始まる一切の語音を自由自在に操って、言語活動の上に現われた「言葉に相(すがた)なし」という真実なる智慧の理趣(みち)を説かれた。
 これは「四種の解脱」と言われる教えで、文珠師利菩薩の智慧である。

 すべての諸法は、その本質において、いかなる実体をも持たないのであるから、空である。宇宙に存在するあらゆる事物は、もろもろの事物が縁起によって成り立ったもので、固定的実体がないのである。
 これを諸法の空と呼ぶ。

 すべての諸法は、その本質において、定まった形相がないのであるから、無相である。
 だから前述の諸法の空というのは、表現上の仮の相(すがた)なのだから、もし諸法の空に固執したならば、逆に空から遠ざかってしまう。
 これを諸法の無相と呼ぶ。

 すべての諸法は、その本質において、特定の方向や目的を持たないのであるから、無願である。
 だから前述の諸法の無相について、その相から離れたいという願いに執着することは、逆に空から遠ざかってしまう。
 これを諸法の無願と呼ぶ。

 このように、すべての諸法は本質において空であり、固定した相も、目的も方向も願いもないのであるから、すべての諸法は自由で光り輝いている。
 真実なる智慧の理趣に照らしてみれば、ものはみな清浄なのである。これを諸法の光明と呼ぶ。

 かくて、清浄で邪気のない文珠師利菩薩の姿に変身した大日如来は、この「ものも言葉もすがたなし」という教えを、より一層に明らかにしようと考えて、顔を和らげ、微笑まれ、自らの智慧を象徴する鋭い剣を振るって、一切の如来を切る姿勢をとられ、この教えを一字で表わす聖音「アム」を唱えたのであった。

第八段 輪のごとく欠くるところなし(入大輪の法門)
    纔発心転法輪菩薩の章

 ついで、大日如来は、世の一切の如来の悟りを示す輪のごとく円満なる境地に立たれ、この境地をそのまま名とする一切如来入大輪如来(人々のために慈悲の心を起こして真実なる法輪を回転させる纔発心転法輪菩薩の如来)になられ、完全にして円満なること大いなる輪のごとき境地に入るための真実の智慧の理趣(みち)を説かれた。
 これは「四種の輪円」と呼ばれる教えで、宇宙の秩序を表現する曼荼羅(シェーマ)の一つである。

 まず、あなたたちが、自分自身の心も、世のすべてのものも、堅固不動にして、連なる輪のごとく完全無欠であることを悟れば、たちどころに一切の如来の環のごとく完全なる智慧の境地に到達することができる。
 (如来の法輪)

 次に、世の義利(利益)の偏在はありえず、それはすべてに平等円満であり、あたかも虚空(空間)のごとく尽きることなく、宝を取り出すことができるという虚空蔵菩薩のような円満なる境地に入ることとなろう。
 (大菩薩輪)

 さらに、すべてのものの円満で平等なることを悟れば、たちどころに大乗の妙なる完全なる真理の境地に入ることであろう。(妙法輪)

 最後に、すべての事業の円満で平等なることを悟れば、たちどころに一切のものの働きが円満で安全なる境地に到達するであろう。(事業輪)

 かくて、この「輪のごとく欠くるところなし」という真実の智慧の理趣を説かれた大日如来は、纔発心転法輪菩薩の姿に変身されて、より一層にこの教えを明らかにしようと考えて、顔を和らげ、微笑まれ、この教えを象徴する金剛輪を右手の中指に乗せて、左手で一つ股の金剛杵(独股杵)を持って、この杵で右の輪をクルクルと回転させて、この輪に喩えられる真理の働く様子(曼荼羅)を示された。
 そして、この完全無欠な輪のごとき境地を一字で表わす聖音「フーム」を唱えたのであった。

第九段 供養とは何ぞ(供養の法門)
    虚空庫菩薩の章

 それから、大日如来は、世の一切の如来を種々に供養するための広大無辺なる儀式の蔵という名前を持つ一切如来種種供養蔵広大儀式如来(虚空を庫にしてすべてのものに惜しみなく円満にものを与えて欠けることがない虚空庫菩薩の如来)となられ、一切の如来を供養する非常に勝れた境地を生み出す真実なる智慧の理趣(みち)を説かれた。
 これは「四種の供養」と呼ばれ、すべてのものを利して養う四つのすぐれた行ないの実践である。

 まず、菩提(さとり)を願う心を発すれば、それがそのまま諸々の如来の最も喜ばれるところとなり、広大な供養になる。
 なぜならば、真理の具現者である一切の如来と菩薩は、真理を知り、悟るものが一人でも多いことを願っているからである。(発菩提心供養)

 次に、この世のすべてのものを救済することは、それがそのまま諸々の如来を供養することになる。
 なぜならば、すべてのものを苦海から救い出して涅槃に度(わた)らせることが、如来の本願だからである。(救度供養)

 さらに、妙なる真理を記した経典を身に受持することが、そのまま諸々の如来への供養になる。
 なぜならば、経典に書かれた内容は、如来の悟りであり、それを人に知られることを欲するからである。(妙経供養)

 このように、般若波羅蜜多(最高の真理)を記した経典を、身に受持し、読誦して、自分で書き写し、他人にも書き写させ、よく心に考え、十種の修行を実践したならば、それがそのまま諸々の如来の供養になるであろう。(般若供養)

 かくて、この「真実の供養」の教えを説き終わった虚空庫菩薩は、より一層にこの教えを明かにしようと考えて、顔を和らげ、微笑まれ、一切の事業が空しからずという境地を一字で表わす聖音「オーム」を唱えたのであった。

第十段 大いなる忿り(忿怒の法門)
    摧一切魔菩薩の章

 続いて、大日如来は、すべての障害を克服するための悪に対する強い忿怒を内に潜めた智慧の境地に立たれ、その境地を象徴するために、拳を強く握り、その境地をそのまま名とする能調持智拳如来(外に憤怒を内に悲憂を懷いて一切の悪を摧く摧一切魔菩薩の如来)となられて、「世の一切の悪を調伏する智慧の蔵」という真実なる智慧の理趣(みち)を説かれた。
 これは「四種の忿怒」と言われる教えである。

 まず、一切の有情(生きとし生けるもの)は、その本質において平等であり、自他の差別は現象の上だけのものだから、すべて自他の差別によって起こる忿怒も、その平等性の発露そのものであり、対立的な忿怒ではない。
 これは忿怒の平等と呼ばれる。

 また、一切の有情は、現象の上からみれば、惑と業と苦の三つのあり方の中にあって、苦しむ存在であり、これは調伏しなければならない存在である。
 一切の有情は平等なのであるから、忿怒は調伏の働きがある。
 これは忿怒の調伏と呼ばれる。

 世の一切の有情は、その背後に潜む法性(不変の本質)の現象界における差別と展開に他ならないのであるから、この法性を強く自覚することが、そのまま大いなる忿怒である。
 これは忿怒の法性と呼ばれる。

 世の一切の有情は、その本質においては、いかなる行為も行動も完全で不変な金剛のごときものなのだから、現象の差別を離れ、この本来の金剛性を強く自覚すれば、我執にとらわれ束縛された行動を調伏できる。
 なぜならば、すべての生きとし生けるものを調伏することは、さとりのためだからである。
 これは忿怒の金剛と呼ばれる。

 ではいかなる理由によって、世の一切の有情を調伏することができ、菩提を開くことができるのであろうか。
 それは、現象の差別を撤廃させることによって、その背後の清浄な菩提を見成する時に、大いなる忿りを離れるのである。

 かくて、摧一切魔菩薩は、この「大いなる忿り法門」を、より一層に明らかにしようと考えて、顔を和らげ、微笑まれ、手に金剛牙の印を結び、身体全体を金剛夜叉の姿に変身させて、すべてのものを恐怖させ、仏道に引き寄せようとされた。
 大いなる忿怒は、そのままで大いなる歓喜となり、この教えを一字で表わす聖音「ハハ」を唱えたのであった。

 以上、大日如来は、第三段から第十段までの八章において、第一段で示された大日如来の心の理念と、第二段で示された大日如来の心の発現とが、八大菩薩によって表現される様々な徳目を通して、いかに我々の現象世界に実際に現われるのかを説き終られた。
 かくて、大日如来は、再び八つの徳目を一つに普集(まとめ)て説かれる。

第十一段 平等にして差別なし(普集の法門)
     普賢菩薩の章

 ついで、大日如来は、はかり知れぬものの動きと、その根底にある平等な静けさを表わす境地に立たれ、その境地をそのまま名とする一切平等建立如来(すべてのものの心の中の理想である如来蔵を人格化した普賢菩薩の如来)となられ、実在の世界にあっても、現象の世界にあっても、すべてのものが最も勝れた形で現われるという真実の智慧の理趣(みち)を説かれた。
 これは普賢菩薩の徳として表現される「四種の出生」である。

 まず、すべてのものは、その本質において平等であり、現象界で見られる区別は仮のものに過ぎない。
 したがって、ものの本質を観る根本の理性(真実なる智慧の理趣)は、万物の平等性に他ならない。(阿しゅく如来:第三段と第七段の統合)

 また、自他の執着を離れて、すべてのものの平等を自覚すれば、この世の一切の義と利は、自他の追及の対象ではなく、あらゆるものの義と利になるからである。
 したがって、ものの本質を観る根本の理性(真実なる智慧の理趣)は、万物に普遍している共通の利益に他ならない。
 (宝生如来:第五段と第九段の統合)

 次に、すべてのものは、共通する清浄なる法性があるのであるから、ものの本質を観る根本の理性(真実なる智慧の理趣)は、万物に普遍している共通の法性それ自体に他ならない。(阿弥陀如来:第四段と第八段の統合)

 最後に、すべてのものの事業(三業:働き)は、実在界の本質に根ざす事業そのものなのだから、ものの本質を観る根本の理性(真実なる智慧の理趣)は、万物の事業それ自体に他ならない。
 (不空成就如来:第六段と第十段の統合)

 かくて、この「平等にして差別なし」という実在界および現象界の普遍的原理を説き終わり、普賢菩薩と等しい金剛手菩薩の姿に変身した大日如来は、一切の如来と菩薩が相互に関連して集会した三摩耶(実在と現象の差別がなくなった曼荼羅)に入られて、「世の一切は空しからず」という境地を一字で表わす聖音「フーム」を唱えたのであった。

第十二段 有情みな加持す(有情加持の法門)
     外金剛部の諸天の章

 ここで、大日如来は自らの姿に戻られて、「世の一切の有情(生きとし生けるもの)は互いに加持し合う」という真実なる智慧の理趣(みち)を説かれた。
 これは現象界にある諸々の低い次元の神々(外金剛部の諸天)に力を与えて悟りを獲得させるための「四種の蔵性」と呼ばれる。

 まず、一切の有情は、その本質において、如来となりうる清浄な可能性を内に蔵している。
 これは如来蔵と呼ばれる。
 なぜならば、大日如来のあまねくゆきわたる光明は、一人一人を離れて、全一なる一切我として、広くあちらこちらにゆきわたっているからである。
 これは普賢菩薩の徳として人格的に表現されている。(大円鏡智)

 また、一切の有情は、その本質において、平等の堅固にして不変なる智を蔵すること金剛のようである。
 なぜならば、虚空蔵菩薩の智慧の水によって灌ぎ浄められているからである。(平等性智)

 さらに、一切の有情は、その本質において、妙なる法を内に蔵する。
 なぜならば、すべてのものは、この正しき理を覚える時、自己と他者のために、誰でもが理解できる言語を活用して、その真理を再現して伝達できる。
 これは観自在菩薩のごとくである。(妙観察智)

 そして、一切の有情は、その本質において、羯磨(はたらき)が本来清浄にして純粋なる活動を内に蔵する。
 なぜならば、すべてのものの働きは、宇宙本然の活動の発現であり、あなたたちの身口意の三密の活動が、そのまま如来の三密の活動となるからである。
 これは金剛拳菩薩の徳目である。(成所作智)

 かくて、如来や菩薩のはるか外にある仏法の守護神である外金剛部の諸天も、自己の本質において、宇宙そのものである大日如来の化身であることを悟り、大日如来自身の境地に入り、歓喜の声をあげ、より一層に「有情みな加持す」という真理を明かにしようと考えて、「金剛のごとく不壊にして自由なる真理」を一字で表わす聖音「トウリー」を唱えたのであった。

 この段において、現象界にあるものすべてに、その本質が清浄な仏性の存在であることが説かれた。
 この現象界に普遍な実在の理(俗諦の総説)を説かれ、以下、十三、十四、十五の各々の段において、これらの真理を享受する天部の神々が、その真理を称賛する。

第十三段 この理趣をたたえて(諸母天の法門)
     七天母の章

 まず、天母(めがみ)である七人(炎魔天母、童子天母、毘しゅぬ天母、倶吠羅天母、帝釈天母、暴悪天母、梵天母)が、この教えを聞いて、大いなる歓びに充ちて、大日如来に礼拝し、七人の天母たちの願いである四摂を述べた。

 すなわち、四摂とは、

「未だに仏道に近づかないものを近づけること(徴召)」、
「近づいたものを仏道に導き入れること(摂入)」、
「仏道を破壊したり有情(生きとし生けるもの)を殺すような不善な心を滅ぼすこと(能殺)」、
「仏道に住した修行者を大悟させること(能成)」であり、

これらの四つの願いを異口同音に述べ、これらの願いを一字で表わす聖音「ビヨー」を唱えたのであった。

第十四段 ふたたび理趣をたたえて(三兄弟の法門)
     三高神の章

 ついで、「力はすべてにあまねし」という有情加持の法門を聞いて、歓喜の心を抑えることができない三人の高神たち(梵天:ブラフマン、大自在天:シヴァ、那羅延天:ヴィシュヌ)が、大日如来に礼拝し、自らの心に生じたさとりを一字で表わす聖音「スヴァー」を唱えたのであった。

第十五段 みたび理趣をたたえて(四姉妹の法門)
     四天女の章

 ついで、「力はすべてにあまねし」という有情加持(生きとし生けるものの加護)の法門を聞き終って、この法門の四つの部門を、それぞれ受けた四人の天女たち(適悦:ラテイ、死天妃:マラニー、猪美妃:ヴアーラヒー、成就美妃:シッデイカーシー)は、自らの心中のさとりを一字で表わす聖音「ハム」を唱えたのであった。

第十六段 究極の真理とは何ぞ(各具の法門)
     四波羅蜜の大曼荼羅の章

 ここで、大日如来は、限りなくはかり知れない究極の真理を表わす境地に立たれ、その境地をそのまま名とする無量無辺究竟如来となられて、ここまで説いてこられた教えが、平等で円満で金剛のごとく不変な真実なる智慧の理趣(みち)であることを重ねて明かし説かれた。

 まず、究極の真理(般若波羅蜜多)は量に限りがない。
 したがって、それは一切の如来に及んで欠けるところがない。(無量)

 また、究極の真理(般若波羅蜜多)は辺に限りがない。
 したがって、それは一切の如来に及んで例外がない。(無辺)

 次に、すべてのものの構成要素は清浄で同一な性に基づいているのだから、究極の真理(般若波羅蜜多)は一性である。(一性)

 また、すべてのものは、それ自体が絶対究極なのであるから、究極の真理(般若波羅蜜多)は究竟である。(究竟)

 かくて、この「究極の真理(般若波羅蜜多)」を説き明かされた大日如来は、その教えを聞き終えられた金剛手菩薩に呼びかけられた。

 金剛手菩薩よ。
 究極の真理(般若波羅蜜多)を聞いて、身に受持し、読誦し、心に思い考えるならば、そのものは、この世における自分と他人のためのすべての行為が、そのまま自他の区別を超越して、如来や菩薩の行為と等しくなるであろう。

第十七段 真実なる智慧の理趣(深秘の法門)
     五種秘密三摩地の章

 かくて、大日如来は、宇宙の秘密の法性に得て、戯れの議論と分別を超えた境地に立たれ、その境地をそのまま名とする得一切秘密法性無戯論如来となられ、比べるものが何もない無始無終の法門を説かれた。
 これは「大いなる楽は金剛のごとく不変で空しからずして真実なり」という真理(この経の題)を知る真実なる智慧の理趣(みち)である。

 菩薩は小さい我を離れ、自らの欲望そのものを、普遍的な大きい我とするがゆえに、いついかなるところでも、大いなる楽を得る最勝の境地に到達する。

 菩薩は最勝の大楽の境地に到達するがゆえに、一切の如来の最勝の大いなる菩提(さとり)を完成成就することができる。

 菩薩は一切の如来の最勝の大いなる菩提を完成するがゆえに、強力な悪を摧く一切の如来の最も勝れた徳を得ることができる。

 菩薩は強力な悪を摧く一切の如来の最も勝れた徳を持っているがゆえに、三界のいかなるところにあっても自由な境地に到達できる。

 菩薩は三界のいかなるところにあっても自由な境地に到達するがゆえに、世のすべての生きとし生けるものが生死にさ迷うを止める。

 このように、菩薩は大きなる精進の心をもって、世のすべてを救い、利益し(たすけて)、安楽ならしめ、そのすべてを最勝で絶対で究極の境地(涅槃)へ度(わた)らしめるのである。

 それはなぜかを偈(うた)によって示そう。

  菩薩は勝れし智慧を持ち、
  なべて生死の尽きるまで、
  つねに衆生の利をはかり、
  たえて涅槃におもむかず。

  世にあるものもその性も、
  智慧の及ばぬものはなし。
  ものの有姿もその本性も、
  一切のものはみな清浄し。

  欲がこの世をととのえて、
  よく浄らかになすゆえに、
  すぐれしものもまた悪も、
  みな残らずにうちなびく。

  蓮華が泥から咲きいでて、
  花はよごれによごされず、
  すべての欲もまたおなじ。
  そのままにして人を利す。

  大いなる欲はきよらかで、
  大いなる楽に富みさかう。
  三界の自由を身につけて、
  堅くゆるがぬ利を得たり。

 金剛手菩薩よ。
 すべてのものの本初である「真実なる智慧の理趣(みち)」を聞いて、日々の朝に読み誦え、あるいは聞くだけで、一切の安楽と快適を得ることができ、「大いなる楽は金剛のごとく不変で空しからずして真実なり」という境地に到達できるであろう。
 この世のこの身のままで、すべてのものの自由と快適を得て、十六の大菩薩が表わす十六の生の段階(禅定)を通って、如来の金剛のごとく究極普遍の境地に達することができるのである。
 これを一字で表わす聖音で唱えよう「フーム」。

おわりに(流通分)

 かくて、一切の如来と持金剛菩薩たちは、みなこの座に来て集まり、この教えを空しくせずに、滞らせずに、速やかに完成させようと欲して、みな共に法を説いた大日如来の智慧の姿である金剛手菩薩(=普賢菩薩=金剛さった)を称賛して言う。

  善いかな善いかな大いなる行者、
  善いかな善いかな大きな楽、
  善いかな善いかな大乗の法、
  善いかな善いかな大いなる智慧。

  善くこの教えを説く時は、
  理趣の経に金剛の力あり。

  この勝れた経を身に持てば、
  すべての悪魔に害されない。

  如来と菩薩の境地を得て、
  あらゆる悟りを成就する。

  すべての如来と菩薩たちは、
  共に教えを説き終わり、
  聞く者すべて成就させようと、
  心歓ばぬものはなし。

 ここに般若理趣経を終わる。
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