仏教通史
お釈迦様
年代
 お釈迦様について正確な年代は解っていません。では、当時は歴史に残せないような無名な人だったのか?
 そうではありません。古代インドはたくさんの哲人や思想家を輩出しましたが、年代がサッパリ判らないそうです。
 そのなかで、お釈迦様ほど年代のハッキリしている方はいないそうです。
 不思議なことですが、古代のインド人は歴史の年代を残さなかったのです。
 生没年の説は紀元前463〜383年頃、紀元前566〜486年頃、紀元前624〜544年頃といろいろです。
 ただ、引き算をしてみれば80歳の生涯であったことは共通しています。
 ともかく、約2500年前にインドで実在された方だと理解すればよいでしょう。

時代背景
 お釈迦様が誕生された時代とその地域というのは、思想的に自由な空気があり、同時に思想が混迷した時代です。
 お釈迦様の時代とほぼ同じくして、6人の自由思想家がいました。

 道徳否定論者…プーラナ・カッサパ Purana Kassapa 不蘭迦葉
 宿命論的自然論者…マッカリ・ゴーサーラ Makkhali Gosala 末迦梨瞿舎利
 唯物論者・快楽論者…アジタ・ケーサカンバラ Ajita Kesakambala 阿耆多翅舎欽婆羅
 無因論的感覚論者・七要素説…パクダ・カッチャーヤナ Pakudha Kaccayana 婆浮提伽旃那
 懐疑論者・不可知論者…サンジャヤ・ベーラッティプッタ Sanjaya Belatthiputta 散若夷毘羅梨沸
 自己制御説…(ジャイナ教)ニガンタ・ナータプッタ Nigantha Nataputta 尼乾子

 そのなかで生まれたのがお釈迦様の仏教です。
 なお、お釈迦様の十大弟子の舎利弗、目連は懐疑論者・不可知論者のサンジャヤ・ベーラッティプッタの弟子でした。

生誕
 お釈迦様が生まれ活動された地域は東北インドで、ヒマラヤ山脈の南方です。
 生まれた場所は現在のネパール領のルンビニー(Lumbini)という場所です。
 母マーヤ(摩耶)が里に帰る途中、産気づいてこのルンビニーにて生誕されたそうです。

釈迦族の王子として
 お釈迦様の国は、カピラバスト(Kapilavastu)といって、インドとネパールの国境あたりに位置します。ネパール中南部のティラウラーコート、あるいは北インドのネパール国境近くウッタル・プラデーシュ州バスティ県のピプラーワーの両遺跡がカピラバストと推定されてきましたが、最近では発掘された舎利容器の銘文などによって、後者ピプラーワーが有力視されているそうです。

成道
 お釈迦様は王子として何不自由のない生活をされていた。しかし、その生活を捨てて29歳で出家されます。
 仙人のもとで修行したり、苦行をされたりしましたが悟りは得られませんでした。
 そのような修行を捨てて、35歳の12月8日ブッダガヤ(Buddhagaya 仏陀伽耶)で悟りを開かれました。

初転法輪
 お釈迦様はその悟りの内容を、かつて一緒に修行した5人の比丘(僧侶)に説きます。
 この最初の説法(初転法輪)はベナレス(Benares)郊外にある鹿野苑(Mrgadava 現在のサルナート )にてなされました。

活動地域
 先述のとおり、お釈迦様は東北インドで活躍されました。
 なかでもマガダ国で迦葉、舎利弗、目連など多数を弟子にし、更にはマガダ国のビンビサーラ王の帰依を受けました。
 古代インドで強大だったマカダ国の国王の帰依を受けたことは、その後の仏教が確固たる地位を築き発展する大きな礎となります。
 マカダ国の首都は王舎城(ラージャグリハ)といい、現在のインドのビハール州首府パトナから約100kmの地にあるラージギールです。
 霊鷲山など五山に囲まれたカルデラ地帯で温泉もあります。
 お釈迦様の当時は、マガダ最大の都として文化的・経済的に栄えていました。
 お釈迦様が最も長く居住した場所であり、そこにある竹林精舎(ちくりんしようじや)や霊鷲山などで多く説法をされました。
 多くの仏教経典の冒頭をみればここで説かれたということになっています。なお、『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で有名な祇園精舎ですが、古代インドのコーサラ国の都の舎衛城(シラーヴァスティー)にありました。

最後の旅
 人は晩年、故郷を思い故郷を目指すものなのでしょうか。お釈迦様もマカダ国から故郷を目指して旅をされます。
 その旅の進路は、『マハー・パリニッバーナ・スッタンタ』(南伝 大般涅槃経)というパーリー語の経典によると、マカダ国の霊鷲山や王舎城を起点に、ガンジス川を渡り、ヴァッジ国を経て、マッラ国のクシナーラーに至ります。
 このクシナーラーの沙羅林でお釈迦様は最期を迎えられました。

呼称
 お釈迦様にはいろいろな呼び名があります。

釈迦牟尼仏
 お釈迦様のことを釈迦牟尼仏といいますが、釈迦牟尼(Sakyamuni)は釈迦族の聖者ということです。
 お釈迦様の名前もそこから来ています。仏はブッダ(buddha)の音写語で、目覚めた人、真理を悟った人の意味です。

釈尊
 釈尊は釈迦牟尼世尊を略したものといわれます。
 世尊とは bhagavat という言葉の漢訳で、幸運・繁栄(bhaga)を有するもの(vat)という意味で、仏の尊称です。

ゴータマブッダ
 ゴータマ(Gotama,Gautama)は釈迦族の全体の姓、あるいは家柄です。
 ゴータマはインドの若干の聖者につけられた姓でもあるそうです。
 go とは雌牛のことで英語の cow (雌牛)と語源が一緒だそうです。tama は最も優れたという意味です。
 インド人は牛を大切にするので、ゴータマ(最も優れた雌牛)はインドで素晴らしい名前なのだそうです。
 ブッダ(buddha)は前述の通り、目覚めた人、真理を悟った人の意味です。

悉達多
 ゴータマが姓なら、悉達多(Siddhartha)は名に相当します。

生まれ
 お釈迦様は御承知の如く王様の長男として生まれました。
 ただ、王国といっても大きさは日本の都府県と同じくらいの小さな国であった。
 また、合議して貴族の中から王位継承者を決める共和制の王位であった。

出家の動機
 お釈迦様は、王家の御曹司として何不自由ない生活をどうして捨てて出家しなくてはならなかったのでしょう。
 物質文明の直中にいる現代人には理解できない行動かも知れません。
 大きな要因として考えられることは、自身の出生から7日の後に実母の摩耶(Maya)が亡くなったことでしょう。
 父親の浄飯王(Suddhodana)は後妻に、実母摩耶の実妹たる摩訶波闍波提(Mahaprajapati)という叔母を迎えました。
 ただ、叔母でもありますし、継母根性がどうのこうのということを仏典にみたことはありません。
 お釈迦様出家の伝統的には動機については「四門出遊(しもんしゅつゆう)」というものがあります。
 出家する前の太子であったころ、東南西北にある四つの城門から郊外に出かけたところ、それぞれ老人・病人・死人・出家者を見かけ、心に深く感じるところあって、出家することに心ひかれたとする伝説です。
 ともかく、生まれた限りにおいては、いつか老い、いつか病気し、いつか死ぬことからは逃れられない。
 いつまでも若くいたくとも、病気をしたくなくとも、死にたくなくとも思い通りにはならない。
 この思い通りにならない苦(duhkha)を超克するための智慧を求めて出家し修行されたのでしょう。

修行の方法
 お釈迦様は伝統的なバラモンの修行をせず、自由な修行者(沙門)となりました。
 アーラーダ・カーラーマ、ウドラカ・ラーマプトラという仙人について瞑想の修行をし、それを体得しましたが満足できませんでした。
 その後はマガダ国の山林に籠って、食事もとらずに難行苦行にあけくれ肋骨が見えるほどに修行しました。
 しかし、それでも悟りを得られなかったので苦行を捨てました。その後、菩提樹の下で瞑想し悟りを得られたのです。

説法の方法
 お釈迦様の教えは対機説法というものです。
 「さとり」に基づいて、折にふれ相手の状況や能力にあわせて、そのひとに相応しいことを説かれました。
 歴史上のお釈迦様が、仏教教義を体系的に説かれたということはなかったというのがインド仏教学としての考えです。
 ではお釈迦様は何を説かれたのでしょう。
 これは宗派や学派によって見解の相違するところで、どれが本当なのだろうということは古来問題とされてきました。
 中国を経由してきた漢文資料や宗派学派の伝承のみによらざるをえなかった時代と違い、現在はインド仏教学により学術的な研究が進んできております。お釈迦様の入滅後500〜1000年以上も後に、距離的にも文化的にも遠い中国で翻訳された漢文経典だけをもとにお釈迦様の説かれた真相を考察することには無理があります。
 ただでさえ、漢訳は直訳ではなく意訳で、もとのサンスクリットを同定することは困難です。
 そもそも、翻訳の底本にしたサンスクリット原典を残さなかった。漢文よりもインドの言語で説かれたもの。
 そのインドの原典の中でも最古層に属する経典から、お釈迦様の本来の姿を推測する必要がある。

 ここではお釈迦様の仏教について概略を用語をもとに箇条書きにして説明します。

四苦(四苦八苦)
 「」は duhkha (ドゥフカ)というサンスクリットを漢訳したものです。原義は「思いどおりにならない」ということです。

 四苦は「生老病死」の思いどおりにならないことです。
 生まれた限りは、老いたくなくともいつかは老い、病気になりたくなくともいつかは病気になり、死にたく無くともいつかは死なねばならない。そんな「思いどおりにならない(duhkha)」苦を四苦といいます。

 四苦八苦の「八苦」は四苦(生老病死)に、怨憎会苦(憎い者と会う苦しみ)、愛別離苦(愛する者と別れる苦しみ)、求不得苦(求めても得られない苦しみ)・五取蘊苦(五盛陰苦・五陰盛苦=迷いの世界として存在する一切は苦しみ)を指します。
 このような思いどおりにならないことに対して教えたのが次の四諦です。

四諦・八正道
 四諦はお釈迦様が菩提樹の下で悟りを開かれたときに悟られた内容だといわれます。「」は真理のことです。
 四諦は「苦集滅道」という4つの真理をあらわします。

 「苦諦」 私たちの生存は生老病死などの思いどおりにならないことに満ちているという真理
 「集諦」 思いどおりにならない原因は煩悩にあるという真理
 「滅諦」 煩悩を原因とする思いどおりにならないことを滅した境地が理想だという真理
 「道諦」 そのためには八正道を実践しなければならないという真理

 滅諦の原語は nirodha-satya です。nirodha は滅と漢訳されますが、元の意味は「止める」「制する」の意味です。
 思いどおりにならないことの原因の煩悩を滅することというより、制するというニュアンスです。

 八正道とは思いどおりにならないことを滅するための八つの正しい実践徳目を言います。
 「正」の意味は正悪の正ではなく、完全なという意味です。

 「正見」 完全な見解
 「正命」 完全な生活
 「正思」 完全な思惟
 「正精進」 完全な努力
 「正語」 完全な言葉
 「正念」 完全な心の落着き
 「正業」 完全な行い
 「正定」 完全な精神統一

 これらはお釈迦様の最初の説法(初転法輪)において説かれたと伝えられます。
 苦行でも快楽主義でもない中道の具体的実践方法でもあります。

三法印
 仏教の特徴をあらわす三つのしるし。

(1)諸行無常 あらゆるものは変化してやまない
(2)諸法無我 いかなる存在も不変の本質を有しない
(3)涅槃寂静 迷妄の消えた悟りの境地は静やかな安らぎである

 諸行無常は、あらゆるものは絶えず変化してやまないことをいいます。

 諸法無我は、因縁によって生じたもので実体がないという意味であって、有我説のバラモン教に対して仏教は無我説を主張しました。常に同一の状態を保ち、自らを統制できる力をもつ「我 atman」は存在しないと仏教では考えます。
 また、無我は非我(我にあらず)というニュアンスがあります。自分の命も、自分の財産も、すべて自分のもののようであって自分のものでない、因縁に翻弄され思うようにならない苦しみがつきまといます。

 涅槃寂静は、仏教の理想の境地をいいます。
 無常であり、無我であるのが、ものの真実の姿で、それを認めないところに苦が生じるということになりますが、そのような迷妄が消えると、静かな安らぎの境地に入ることができ、それが仏教の理想とするところです。

煩悩
 そもそも煩悩とは何でしょう。煩悩の根本は3つあります。それを三毒といい、貪瞋癡をいいます。

 貪欲 むさぼること
 瞋恚 怒ること
 愚癡 無知でおろかなこと

 煩悩の原義は klesa (苦しむ心)で、私たちを悩まし、害し、間違いに導く不善の心を煩悩と呼びます。

無記
 お釈迦様は人生問題の解決に直接役だたない形而上学的問題について質問されても、あえて解答せず判断をしませんでした。
 お釈迦様は、他の思想家達から、世界の常・無常、有限・無限、霊魂と身体との同異、死後の生存の有無など14の形而上の質問され討論をのぞまれても沈黙を守ってあえて回答されませんでした。
 また、『マッジマニカーヤ』63経には、弟子からの形而上の質問に対して答えないことを「毒矢のたとえ」をもって回答しています。

「毒矢のたとえ」の趣意
 毒矢に射られた者は、毒矢を抜くのが先決であるのに、毒矢を射た者について知らないあいだは毒矢を抜くななどというと死んでしまう。お釈迦様が、世界の常住・無常ということを断定的に説かなければ修行しないという修行者がいれば、お釈迦様はそのことを説かないのであるから、その修行者は毒がまわって死んでしまう。では、お釈迦様が断定的に説いたのは何なのか。それは四諦である。

論理性・脱神秘性
 宗教というと神秘的で不思議なもの。インド土着の宗教であるバラモン教もその範疇です。
 ところが、歴史上のお釈迦様は神秘主義を克服し正しい論理を身につけることを説かれました。
 のちの仏教も論理的に教義を体系化し、仏教哲学の体系を構築します。

平等
 インドは四姓制度の国です。バラモン(司祭者)、クシャトリヤ(王族・武士)、ヴァイシヤ(庶民)、シュードラ(隷民)に大きく分けられた身分制度が古代より現代に至るまで続いています。
 お釈迦様はこの四姓制度を仏教教団内(修行僧の集まり)に持ち込ませませんでした。

因縁
 仏教では因(hetu 直接原因)・縁(pratyaya 間接原因)・果・報ということを説きます。
 原因があって、それに間接的に作用する縁があって、結果があり、報いがあります。
 因・縁・果・報から因縁の他に、因果、果報があります。

 因縁によってものごとの生起することを縁起といいます。「因縁生起」という言葉を略して縁起といいます。縁起(因縁生起)は一切の現象はすべて因(hetu 直接原因)と縁(pratyaya 間接原因)との二つの原因が働いて生ずるとみる仏教独自の教説でです。
 一切の現象はこういった因縁の相互関係の上に成立しているから、固定的実体や不変といったことはあり得ない。
 「無我」であり「無常」です。そして「空」なのです。

http://www.kosaiji.org/Buddhism/syaka.htm


原始仏教
 原始仏教とは原始仏教はお釈迦様が入滅されてから約100年くらいまでの、部派に分裂する前の仏教をいいます。

原始仏教の意義
 ともかく、現在の仏教は無数の宗旨に分かれています。
 それぞれが違う主張をしていてどれが本当なの?という疑問は古来多くの人々が感じてきたことです。
 たとえ同じ宗旨でも、歴代の先哲によって違う主張がなされたり、宗旨内で異見があったりするのは現在も昔もかわりありません。
 漢訳されたときの翻訳の誤差もあるでしょう。
 そのなかで、本来お釈迦様はどのようのことを説かれたのかということを探るには、原始仏教の研究は欠かせません。
 現在に伝えられている経典のなかで最古層のものは何か、そこに説かれていることは何なのかを探ることで、お釈迦様在世から入滅直後の仏教を推察することができます。原始仏教経典に比して、後の部派仏教(小乗仏教)や、龍樹以後の大乗仏教は、煩瑣で難解なものとなり、碩学の専門家による碩学の専門家のための仏教となってしまったところがあります。
 さらに、仏教の歴史は仏教が仏教でなくなる歴史だと公言する仏教学者もいますが、その一つの理由はお釈迦様が否定したはずの過度な神秘主義や、積極的に言及されなかった形而上(日常の具体的経験では得られない、抽象的で超自然的なこと。)のことなど非仏教的なことが教義に編入されたことです。このことをあやふやにしたからこそ、インドの仏教は滅んだのかも知れません。

原始仏教の経典
 現在、最古層の原始仏典として、『阿含経』の小部(クッダカ・ニカーヤ)の経典が注目されています。
 そこには、『スッタニパータ』 『ダンマパダ』(『法句経』) 『テーラガータ』 『テーリーガータ』などがあり、また、『サンユッタ・ニカーヤ』
(『阿含経』相応部)『マハー・パリニッバーナ・スッタンタ』(南伝 『大般涅槃経』)も特に古い経典であるそうです。
 なかでも『スッタニパータ』はもっとも古く、あるいはお釈迦様の生の言葉が韻文として伝えられているのではと考えられています。

原始仏典の問題点
 原始仏典といえども、文字にされたのはかなり後代であり、それまでは口伝えの伝承でした。
 現代に伝わる貝葉(ヤシの葉)などの写本は最古のものでも1世紀をさかのぼることはできないそうです。
 お釈迦様の入滅から400〜500年経っているわけで、その時代は部派仏教の教義も発展しあるいは展開しているでしょうし、その時代には初期大乗仏教も興起しています。文字化されない丸暗記による口から口への伝承は意外と正確に行うことが可能なようです。
 しかし、どうしても教義の展開の影響を受けてしまいます。
 また、パーリー語和訳などに用いられている原始仏典の底本のスリランカの写本は意外と新しいと聞き及びます。
 そのような点から、最古層の原始仏典といえども、更にその最古層の部分を見極める必要もあります。
 同じ経典内でも古く成立した部分と、後から付け加えられたものがあるのは他の仏教経典と同じです。

原始仏教をどう私たちに活かすか
 私は現在の宗派仏教を捨てて、原始仏典ばかり読むのを勧めません。むしろ、それは私たちに向かないことでしょう。
 原始仏教はやはり、古代インドにおける、出家による出家のための出家の仏教であります。
 そして、原始仏典といえども、必ずしもお釈迦様の生の声による教えを網羅しえていないでしょう。
 また、私たちは当時のインドとは、時代も、文化も、風土も、全く違う場所に住んでいます。
 私たちにとっては現在の日本仏教がやはり足がかりとなります。しかし、その現在の宗派仏教も歴史の産物であり、展開と変遷を繰り返し、あるいは煩瑣となり、あるいは土着の信仰や習俗と習合したものです。
 宗派仏教の修行をしながら、仏教の理想の境地を目指す末代のお釈迦様の弟子として、あるいは信徒として、その軌道修正になくてはならないもの。それが原始仏教であり、原始仏典であり、インド仏教学をはじめとした仏教学だと思います。
 私たちの祖師の多くは、平安時代か鎌倉時代の方です。
 それらの方が、知りたくても知り得なかった原始仏教やインド仏教学のことを私たちは知ることができるのです。
 原始仏教やインド仏教学を無視するのが良いのか、それらを積極的に取り入れるのか・・・私どもの祖師は後者を選んだと思います。
 お釈迦様が他の思想家達から世界の常・無常、世界の有限・無限、霊魂と身体との同異、死後の生存の有無など14の形而上学的質問を受けて論争を挑まれたとき、お釈迦様は沈黙を守って答えなかったことを無記といいます。
 このように、お釈迦様は経験的に思惟できない形而上のことを積極的に説かれようとされませんでした。

http://www.kosaiji.org/Buddhism/early.htm


小乗(部派)仏教

名称と分裂
 お釈迦様の入滅から100年ほどしたとき、ヴェーサーリーにて700人の僧侶が集まって仏典編纂会議(第二次結集)が行われました。
 その理由は、跋闍子比丘(Vajjiputtaka)が、「前日に布施された塩を蓄えておいて食事に供してよい」 「昼食後にも一定時間内なら食事をしてよい」などというの十項目にわたる従来の戒律に例外を作り、戒律の緩和を唱えたためです。
 出家は一切の所有をしてはならず、塩ですら蓄えてはならない。
 出家は正午を過ぎて食事をしてはならない。そのような戒律の緩和です。
 一説には「金銀を蓄えてもよい」という条項も入っていたそうです。それがこの結集で律(教団規則)に違反すると判断されました。この決定に不満をもつ僧侶たちは新たな教団を形成して大衆部という部派ができ、仏教教団は「上座部」と「大衆部」に根本分裂しました。

 根本分裂の理由として「大天の五事」をあげる説もある。大衆部の僧侶の大天(Maha^deva)が、阿羅漢にはまだ無知や疑念が残るなどという、阿羅漢のさとりを低く見る五つの事項を主張したために、大衆部が分裂する契機となったとされる。
 ここでは、それが「上座部」と「大衆部」に根本分裂した原因だという説である。

 さて、根本分裂の後もさらに分裂してゆき20の部派に分かれました。
 この出家教団の仏教を小乗仏教(部派仏教)といいます。
 部派に分かれたので部派仏教ともいわれ、またアビダルマ(abhidharma)仏教ともいいます。
 分裂した中で最も有力な部派は、説一切有部でした。

上座部系は11に分裂
 説一切有部(Sarvastivadin)、雪山部(Haimavata)、犢子部(Vatsiputriya)、法上部(Dharmottara)、
 賢冑部(Bhadrayaniya)、正量部(Sammitiya)、密林山部(Channagirika)、化地部(Mahisasaka)、
 法蔵部(Dharmaguptaka)、飲光部(Kasyapiya)、経量部(Sautrantika)
大衆部系は、9つに分裂
 大衆部、一説部(Ekavyavaharika)、説出世部(Lokottaravadin)、鶏胤部(Kaukkutika)、多聞部(Bahussrutiya)、
 説仮部(Prajnaptivadin)、制多山部(Caitika)、西山住部(Aparasaila)、北山住部(Uttarasaila)。合計20の部派となる。

教義の発展
 たくさんの部派に分かれたのは、もともとお釈迦様が対機説法で体系的な教理の説法をされていなかったことにも起因するのだろうと思われます。ともかく、仏教の教理がさらに詳細に研究され緻密な思索がなされて、それらが発展してゆきます。
 部派ごとに経(経典)律(戒律書)論(論書)の三蔵が整理されて教義が体系づけられてゆきます。
 しかし、それらは一方で壮大で煩瑣な教理に発展し展開してゆき、やがて碩学の出家修行者のみにしか伝え語れないほど膨大で難解で煩瑣なのものになってしまうにいたります。このように一般大衆が理解しえないような煩瑣な教理への発展は、大衆をおざなりにすることになり、大衆をも成仏の対象とした大乗仏教興起の原動力のひとつとなります。