東京地名の由来
中央区日本橋兜町 前九年の役で源義家が戦勝を祈願し境内の大岩に兜をかけた謂われの兜神社による。
中央区八重洲 家康の外交顧問ヤン.ヨーステンの屋敷があった
中央区佃 家康が摂津佃島の漁民に独占的漁業権とともに与えた土地
千代田区 江戸城の別名千代田城より。徳川将軍家長男の幼名は必ず竹千代であった。
千代田区神田駿河台 家康に仕えた駿河在住の家臣団が家康の死によって江戸に戻り与えられた土地
千代田区一番町〜六番町 幕臣旗本の精鋭部隊、大番組の六つの組に与えた土地
千代田区有楽町 織田信長の弟の茶人有楽斎の屋敷が有った
千代田区紀尾井町 紀州藩上屋敷(現赤坂プリンスホテル)、尾張藩下屋敷(現上智大)、
井伊藩中屋敷(現ホテルニューオータニ)の屋敷があった
港区浜松町 元禄9年当時名主が浜松出身の権兵衛
港区麻布十番 延宝3年(1675)古川改修工事の第十工区
港区 北・南青山 関東総奉行(年貢を徴収役)青山忠成の屋敷があった
新宿区箪笥町 幕府の武器弾薬を扱う具足奉行や弓矢鑓奉行の同心組の拝領地。
新宿区市谷鷹匠町 鷹の飼育、訓練を行った御鷹匠組頭の屋敷があった
新宿区納戸町 将軍家の衣服調度、出納管理の役職の屋敷があった
新宿区細工町 朝廷への献上品や、殿中での調度品の管理を行う御細工方同心の屋敷があった。
新宿区四谷 梅屋、木屋、茶屋、布屋の四軒の家(茶屋)があった
新宿区歌舞伎町 戦後コマ劇場一帯の復興のため歌舞伎劇場を誘致しようとして実現せず町名のみが残った。
新宿区信濃町 永井信濃守屋敷が有ったため
新宿区新宿 元禄11年、高井戸宿の手前に新しい宿場として設置
目黒区碑文谷 碑文谷八幡宮の碑文石から
目黒区洗足 日蓮上人が足を洗った洗足池から
板橋区 仲宿、本町境の石神井川にかかる板の橋から
台東区蔵前 幕府ご用蔵の前
台東区上野 伊賀上野にある地形と似ているとし、伊賀上野の領主藤堂高虎が名付けた
文京区音羽 奥女中の音羽に与えられた土地
文京区後楽園 水戸藩上屋敷庭園の名。岳陽楼記「後天下之楽而楽」から
世田谷区三軒茶屋 江戸時代の始め三軒の茶屋があったため
渋谷区松濤 明治初期に鍋島農場の茶畑、松濤園があった
江東区越中島 播州姫路榊原越中守屋敷があった
府中市 大化元年(645)武蔵の国の国府が置かれた
 橋の謂われ
一石橋 両岸に屋敷を構えていた金座の後藤家と呉服商人の後藤家の、五斗と五斗を足して一石の洒落
二重橋 堀が深いために橋桁を二重にした
数寄屋橋 殿中で茶礼や茶器の管理、茶事一切を取り仕切る御数寄屋衆の拝領屋敷があった
永代橋 深川佐賀町辺りを永代島と言ったから。元禄11(1698)年隅田川の4番目の橋。
 駅名として残るもの
御徒町 幕府の役職、御徒組の屋敷が有った
御茶ノ水 高林寺境内の名水を御茶用に将軍家に献上した
秋葉原 神田佐久間町と言われた火除け地(原っぱ)で、火除けの秋葉神社が祀られていた。
半蔵門 服部半蔵の忍者団がこの門を警護していた
 その他
弥生時代 文京区弥生町から明治17年(1884)に出土した土器が縄文土器と異なっていたことから命名。
六義園 中国の古書「毛詩」にある「風、賦、比、興、雅、頌」の六義から柳沢吉保が命名
新橋 慶長9年(1604)に架設され芝口橋が新橋とよばれた
田町 江戸の海岸に面し、芝田町という東海道沿いの細長い町、田畑だったところに町屋が出来た
品川 品川浦と言われ漁村
目黒 目黒不動
恵比寿 サッポロビールの前身である日本麦酒醸造会社のエビスビール製品を出荷する貨物駅
原宿 鎌倉から奥州に通じる鎌倉街道沿いの村落で、小さな宿駅
代々木 代々木九十九谷と言われた村落
高田馬場 松平忠輝の母である高田君の庭園があった。幕府持弓組頭の同心衆が的場を築いて馬場とした
目白 目白不動
池袋 多くの池があった
大塚 太田道灌の物見塚若しくは奥州街道の一里塚
田端 田端村は田の端に開けた村落
日暮里 「花のころけふもあすかもあさっても あかぬ眺めに日ぐらしの里」一日中眺め暮らせる美しい里
鶯谷 谷中にある霊梅院付近の谷の鴬
神田 皇大神宮へ供える田圃
武蔵境 出雲松江藩の屋敷奉行の境本氏がご用屋敷のあったこの場所を貰い受け新田を開発(境新田)
三鷹 野方・世田谷・府中の三領に分かれて鷹場があった
吉祥寺 明暦3年(1657)水道橋付近の吉祥寺大火の後、門前町の住人が移り住んだ
荻窪 善福寺川周辺に荻が自生していた
阿佐ヶ谷 桃園川の浅い谷地「浅い谷」
杉並 旗本岡部氏が村境の印として青梅街道沿いに杉を植えた
中野 武蔵野の中央
千駄ヶ谷 「千駄木を焚き雨乞いした谷」、「谷あいから千駄の稲が収穫された」の説
水道橋 神田上水の懸樋があった
両国 隅田川は武蔵国と下総国の境
錦糸町 錦糸堀から
亀戸 亀之島の亀ヶ井湧水(井戸)