近衛文麿このえふみまろ
 第34、38、39代内閣総理大臣。華族で五摂家筆頭である近衛家の当主であった。爵位は公爵。京都帝国大学法学部卒業。

 はじめ東京帝国大学(現東京大学)で哲学を学んだが飽きたらず、高名な経済学者であり、当時急速にマルクス経済学に傾倒しつつあった河上肇に学ぶため、京都帝国大学(現京都大学)法学部に入学し直した。
 在学中の
 1914年(大正3年)には、第三次『新思潮』に、オスカー・ワイルドの社会主義下における人間の魂を翻訳し、社会主義論として発表。
 1916年(大正5年)から貴族院議員。
 1918年(大正7年)に雑誌『日本及日本人』に論文英米本位の平和主義を排すを執筆。
 1919年(大正8年)のパリ講和会議には全権西園寺公望に随行し、見聞を広めた。その後、
 1922年にはわずか30歳で貴族院議長に就任。
 地盤を得るとともに次第に西園寺から離れ、貴族内の革新勢力の中心人物となっていった。
 また、五摂家筆頭という血筋や貴公子然とした端正な風貌(当時の日本人にあっては長身であった)に加えて、対英米協調外交に反対する現状打破主義的主張で大衆的な人気も獲得していき、はやくから首相待望論がきかれた。

第1次近衛内閣
 1937年(昭和12年)
 6月4日に元老西園寺の推薦のもと、各界の期待を背に第1次近衛内閣を組織した。
 7月7日に盧溝橋事件が勃発。
 7月9日には、不拡大方針を閣議で確認。
 7月11日には現地の松井久太郎大佐(北平特務機関長)と秦徳純(第二十九軍副軍長)との間で停戦協定が締結されたにも拘らず、内地3個師団を派兵する『北支派兵声明』を発表。
 7月17日には、1千万円余の予備費支出を閣議決定。
 7月26日には、陸軍が要求していないにも拘らず、9700万円余の第一次北支事変費予算案を閣議決定し、7月31日には4億円超の第二次北支事変費予算を追加
 8月2日には増税案を発表。
 8月8日には日支間の防共協定を目的する要綱を取り決めた。
 8月9日に上海で、2人の日本人将兵が殺害され、それに応じて、8月13日には、2個師団追加派遣を閣議決定。
 8月15日には、海軍による南京に対する渡洋爆撃を実行し、同時に、今や断乎たる措置をとるの声明を発表。
 8月17日には、不拡大方針を放棄すると閣議決定。
 9月2日には『北支事変』という公式呼称を『支那事変』と変更を閣議決定し、戦域を拡大した。
 9月10日には、臨時軍事費特別会計法が公布され、支那事変が日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦と同列の戦争と決定され、不拡大派の石原莞爾参謀本部作戦部長が失脚。
 12月13日に南京攻略。翌1938年(昭和13年)
 1月11日には、御前会議で支那事変処理根本方針が決定され、ドイツの仲介による早期講和を求める方針だった。しかし、
 1月14日に和平交渉の打切りを閣議決定し、
 1月16日に爾後国民政府ヲ対手トセズの声明を国内外に発表し、講和の機会を閉ざした。
 さらに、汪兆銘政権を樹立し、石原莞爾らのトラウトマン和平工作を完全に阻止した。
 5月5日に、支那事変のためとして、国家総動員法、電力国家管理法を成立させ、計画経済体制を導入し、日本の社会主義化が開始された。
 なお、国家総動員法、電力国家管理法は、スターリンの第一次五カ年計画の模倣と言われている。
 この際に近衛は宇垣を外相に迎えたが彼の和平工作を十分に助けようとしなかった。
 8月には、麻生久を書記長とする社会大衆党を中心として、大日本党の結成を目指したが、時期尚早とみて中止した。
 これは、大政翼賛会へとつながる独裁政党への第一歩である。
 11月3日に『東亜新秩序』声明を発表。
 1939年(昭和14年)1月5日総辞職。
 1940年(昭和15年)5月26日に木戸幸一、有馬頼寧と共に『新党樹立に関する覚書』を作成。
 再度、ナチ党あるいはソビエト連邦共産党を模倣した独裁政党の結成を目指した。
 6月24日に『新体制声明』を発表。

第2次近衛内閣
 同1940年7月22日に第2次近衛内閣を組織した。
 日本・ドイツ・イタリア・ソ連の4カ国による四国同盟が米英と対決することを想定して「大東亜共栄圏」構想を発表。
 9月27日に日独伊三国軍事同盟を締結。
 1941年(昭和16年)4月13日に日ソ中立条約を締結。
 6月22日独ソ戦勃発し、松岡洋右外相が三国同盟に基づきソ連への挟撃を訴えた。
 7月2日の御前会議で『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』が決定され、独ソ戦への不介入と対英米戦を決定。
 昭和天皇の意向をうけて、
 7月18日に対米強硬派、且つ北進論の松岡洋右外相を更迭するため総辞職。

第3次近衛内閣
 同7月18日に第3次近衛内閣を組織。外相には南進論の豊田貞次郎海軍大将を任命。
 7月23日にフランスのヴィシー政権からインドシナの権益を奪い
 
7月28日に南部仏印進駐を実行し、
 7月30日にサイゴン入城。
 9月6日の御前会議で独ソ戦への不参加と10月下旬の対英米蘭戦の開始を決める情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱を決定。
 10月18日に総辞職した。

首相辞任後
 1942年(昭和17)、シンガポール占領とミッドウェー大敗を好期とみた吉田は近衛をスイスに派遣し英米との交渉を行うことを持ちかけ、近衛も乗り気になった為、この案を木戸幸一に伝えるが、木戸が握り潰してしまった。
 1945年(昭和20年)2月14日に「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」ではじまる『近衛上奏文』を奏上した。
 そこでは『大東亜戦争』は日本の共産化を目的として行われてきたこと、『一億玉砕』はレーニンの『敗戦革命論』の為の言葉であること、一部の陸軍将校たちがソ連軍導入による日本の共産化を目指していることが述べられ、共産主義革命の実現に対する強い懸念が表明されている。戦局が悪化するにつれ、近衛は独自の終戦工作を展開した。
 それは、スイス、スウェーデン、バチカンなどの中立国を仲介とするものではなく、ソ連による和平仲介だった。
 しかし、近衛のモスクワ派遣はスターリンに事実上拒否された。
 近衛の交渉案は、全ての海外の領土、沖縄、小笠原諸島、北千島を放棄し、労働力として日本軍将兵を提供するものだった。

 終戦直後『世界文化』に『手記-平和への努力』を発表し、日中戦争の泥沼化、太平洋戦争の開戦の全責任を軍部に転嫁し、自分は軍部の独走を阻止できなかったことが遺憾であると釈明した。
 1945年12月6日にGHQからの逮捕命令を聞いて、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることを知った。
 巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の
 昭和20年12月16日、荻窪の自宅・荻外荘で青酸カリを飲み自殺した。

墓所・霊廟
 葬儀は
 1945年12月21日に行なわれた。墓は大徳寺にある。靖国神社に昭和殉難者として祀られている。

家族
 異母弟・秀麿はオーケストラ指揮者・作曲家、直麿は雅楽研究者、水谷川忠麿は春日大社宮司。
 長男・近衛文隆はシベリア抑留中に死去。次女・温子よしこは細川護貞に嫁いだ。
 この結婚式の前夜の宴で、近衛文麿がヒトラーの仮装をしていた事実は有名。