歌集 死のよろこび 横瀬虎壽(横瀬夜雨)著 大正四年十二月刊
     たゞ死こそは神の名誉なれ ―ボドレエル「貧者の死」―

   母

忍従の 三十年は過ぎけらし
うら切り人に 何をかぞふる

母を見れば 心ぞ和む老の目に
死なじとわれを はげますからに

天が紅 虹と流るる夕ぐれは
わが死ぬ時と 人にこたへむ

蕪菁虹は 海の嵐の兆てふ
わが死よ来れ 天つみ空ゆ

大方の 人は背きぬ掴むべき
毛の一すぢも われはもたらず

われにしては 死のよろこびとならめども
勝江が髪の 焼くに悲しき
 勝江は従妹なり。慶興にて死す。

寂しさは 十人の恋を見つれども
紛れぬものか 涙の流る

少女等の 立つる誓ひは笹の葉の
黒鵐の小水に 値せむかも

龍燈鬼 鬼の挑ぐる灯をだにも
点せや暗き われの小床に
 龍燈鬼は岡寺にあり。高さ三尺。鬼の角にて捧げたる燈籠。

一人在る日 一人在る夜を見守れば
ゑゑしや鬼の 点火怠る

夢の終り 恋の終りとなりにけり
うとましかくて 猶も生くるか

わが涙 血となりて落ちむあまりにも
賊はれてし 心なるゆゑ

少女等は われより長き指もてり
曲ぐれば撓ひ 吸へば血滲み

日暮るれば 開く蝙蝠の眼の如く
海に吸はるる 我心哉

一人だに 泣かば足りなむわが母の
愛しとだに泣かば 命足りなむ

母し在れば かかる身ながら今日ながら
死なぬ命と なほや思はむ

   名

漢服文といふ名を十年秘めて 今
こそ命くれ 人の初子に

えらばれし これの名親は若草の
妻だに無きを いかゞ悲しぶ

無宿者 天か下には妻も無し
夢に見し子の 生れ出でむや

われ子生ば つけむと思ひし日の本の
一のよき名を 人にくれけり

   悼

若草の 妻もえ見かず死にければ
寂しとぞ思ふ 久自の男も

秋し来れば 紫苑の花のけぶるをも
知らめや君は 根の下にあり

   蛇

蛇よわが 萎えたる足を噛めかしと
招げどよらず 女ならねば

毒だみの 花を壇に築き上げて
祭れば甦くる 蛇なりけらし

妹等がり 今宵忍ぶらむえ男の
足し喰めやと 蛇を捨てけり

毒蛇よ わが床に爬へ汝を見る
夢のうちだに 恋を忘れむ

   彼岸花

曼珠沙華 秋は枯れにけり爛れたる
われの心も 癒えむとすらむ

馬骨燃えて 燐の飛びけるがさ藪や
野篠の中に 咲ける曼珠沙華

心灼く 日となれりけり曼珠沙華
苦き球もが 睡求めむ

曼珠沙華 花は火を噴く球ながら
苦きを喰まば 眠来らむ

苦に人を 思へば曼珠沙華
秋は心に 焼きつく花か

暫くは 逢はじと告ぐる人の目に
曼珠沙華咲かば 悲しからまし

一瓣は 君の一瓣はわれの彼岸花
心爛らす花は彼岸花

   髪

しんじゆしませうか 髪きりましよか
髪は生へもの 身はだいじ

盗人よ 銭を与へむ今宵いんで
宮城少女を 取りて帰り来

夢朝朝髪を忘れぬ悲しさに
先行方無き 櫛を探るか

嫁がざる 女も無きをとりわきて
君に流れし 涙のをしく

人恋の 涙教へし君なれば
うづめが母の われに泣くらむ

荒陵と 心はなりぬ君を思ふ
涙は土に うづめてしもの

君のみは 常久のをとめに生くらむと
かつて思ひき 今も思へど

撓つかば 櫛を吾手にとらしめて
梳かむといひき 今も言ふやも

平打を ささしめむ日も亡びけり
髪切りし日は 君の去りし日

赭ければ 愛しとだにあらずしかすがに
涙にしめす 髪のあぶらよ

箱枕 いまだなれねばピンおちて
わらはめくらむ 暁の髪

紫の 打紐ながら纒つれば
髪は丸がれぬ 夢に泣きけむ

君が髪 見れば母さへ泣くくものを
鬟に売らむ 酒に代へてむ

母よりも 君をば愛しと思ひつる
恋の猛者なれば 命生きけれ

天地に 侶なきわれの悲みも
かつは思はむ 恋ざめの人

彼の女等 清く終れとわれにいふを
忘れしも無し 嫁がぬも無し

空洞めく 心ながらにわが待つは
君が嫁ぎを 知らせくること

たとへ汝 王の后と徴さるとも
跪くべき われと思ふや

磯館海の うねりの近き夜は静に
眠れ明日は 眼さめむ

   とくり蜂

蜂の子に なれなれ青の尺とりは
蜂の巣のみは よう取りもせぬ

尺蠖は 蜂の申し子木の子なす
土の徳利に 蜂と睡れり

尺蠖よ 這ひ出でて空の青を見よ
土の徳利に 蜂とあらむより

尺蠖は おぞの虫哉蜂の子の
劒守りて 蜂と眠れり

徳利蜂 われに言へらく尺とりは
わがほこ刺すを よしと思へり

   髑髏の歌

   一

金扉の乳 生れしは 京の白河京の水
産湯に汲みて 肌の匂へる

捨てらると 知らで開けけむみどり子の
まづ見しものは 母の目なるを

地もぐりの 蹠噛むとか夢みけむ
われを捨てたる 母の苦しみ

白河の 在にやらはれしあつけ児は
べこ呼ぶぢいが 声になれしか

母無し子の 母恋しとにあらねども
金扉の乳を 泣きて吸ひけり

最上川 最上がくしの霧はれて
船行くなべにいろは倉見ゆ

母の目を はかる聰さは預け児の
小さき胸にも 有ちてしものを

憎まれて 十年すぎければ京訛
忘れて出羽の 少女となりし

火もえづる 柘榴の子を吹き打たむ
母の閉てたる鉄の戸に

不図見しは 山かがしめく蛇の目と
夜の鏡に 影ひく帯と

懐かしや 廊下の壁に泣いじやくり
指もて書きし 梵字羅馬字

   二

羊のごとく あばかれて 足蹴せられし尺の
白きを見ずや 君の恋なり

針を刺す 痛みにありし君が名も
わが心より はなれ行く今

けぴゐ使の をさも知らじな血にて捺しし
君が指紋の 美しき文

見おこしし 痛き瞳よ君が目は
茨のごとく わが日にとほる

瑠璃越に 今宵の人を見むものか
水の中なる 花にもあらぬに

柔かう 伏せる眉かななでつれば
睫毛うるみて 火をまぶしがる

雪ちらちら 乳あらはなる懐に
羊の如く いねむ夜もあれ

ふところの 石の髑髏を取らしむと
衿をゆるむる きぬのきしめき

髑髏ぞと 今はいへどもなほ生くる
君が面わの 花と匂ふも

解くは七重 袴の下のしづり帯
細きを恥ぢて うつむきし人

おなじ腕 おなじ唇ゆるしけむ
男をぞ思ふ 涙おつれど

君が書ける 戯曲の終り知らしむと
われに取らせ しいしのどくろか

一人生き 一人死ぬるをあはれみて
髑髏に示す 恋の仮面か

枕べに 剣を置かむか足のへに
香を主かむか 夢のあやふき

火食鳥 二夜さながら火をくひて
髑髏の上に おくとみしかな

ある時は 君とありける水の上の
鵠の羽の 白き夢とも

わが歌も 終の命となりにけり
髑髏よ酒を いで呑ませんぞ

憎きものに 思ひなしぬる君なれど
海に入れとは 念はざりしを

南に 伊予が嶺見せて燧洋
桃色の海は 君を呑みけむ

希だゝみ 吉備が鼻より敷き設けば
落つとも潮は 騒がじものを

   三 翡翠

三寸と のび七寸とのびて五さかの
髪にかへらば 人のつかまむ

ななかりの 女やくしやに弄ばれて
また懲りずまに 君を見しかな

忘れめや 火の矢火の雨ふると見て
夢にして悔いし 涙それさへ

羨まし 弓削の小島の白水郎一人
海に入り行く 君を見にけり

猿沢の 池の玉藻やは君が為し
入毛のごとも 脱ちて流れし

嫁入を 人間にはせじと暁の
海に投げしや ひすゐの挿頭

海が見し 堆鴉のもとどり海が見し
舞鸞の鬢は 吾思妻

わが見し日 肌にまとひし樺色の
はたぎの色も 朽ちけむか潮に

絞れども 絞れども干ぬ髪に枕して
のがれ来し海の 鳴るをきくらむ

よしや今は 君をかへせる賂なれば
翡翠の挿頭 海にやるとも

ダアリヤの 咲きし月こそ嬉しけれ
時の少女の かへり来し月

夏の日は 霊なるかな空にもゆる
炎の中に われ等を生かす

   月暈

長瀞の 小戸に水堰く円石
つぶら石 わが夢に鳴る

月暈も 沼の光も白き夜は
みそかに開く 睡蓮の花

命かな 月海行く夜沼隈の浦にこほろぎを聞く

     彼岸花  とくり蜂 髑髏の歌 1.金扉の乳 2.羊のごとく 3.翡翠 月暈 戻る