詩集  夏草  島崎藤村

 夏草に野中の水はうつもれぬ
   もとのこゝろをたとるはかりに 琴後集

  晩春の別離

 時は暮れ行く春よりぞ
また短きはなかるらむ
うらみは友の別れより
さらに長きはなかるらむ

君を送りて花近き
高楼たかどのまでもきて見れば
緑に迷ふ鶯は
かすみむなしく鳴きかへり
白き光は佐保姫の
春の車駕くるまを照らすかな

これより君は行く雲と
ともに都を立ちいでて
おもへば琵琶の湖みづうみ
岸の光にまよふとき
東胆吹いぶきの山高く
西には比叡比良の峯
日は行き通ふ山々の
深きながめをふしあふぎ
いかにすぐれし想おもひをか
沈める波に湛たゝふらむ

流れは空し法皇の
ゆめはるかなる鴨の水
水にうつろふ山城の
みやびの都みやこ行く春の
霞めるすがた見つくして
畿内に迫る伊賀伊勢の
鈴鹿の山の波遠く
海に落つるを望むとき
いかに万よろづの恨うらみをば
空行く鷲に窮むらむ

春去り行かば青によし
奈良の都に尋ね入り
としつき君がこひ慕ふ
御堂みだうのうちに遊ぶとき
古き芸術たくみの花の香
伽藍がらんの壁かべに遺りなば
いかに韻にほひを身にしめて
深き思に沈むらむ

さては秋津の島が根の
南の翼つばさ紀の国を
めぐりて進む黒潮くろしほ
鳴門に落ちて行くところ
天際あまぎは遠く白き日の
光を泄らす雲裂けて
目にはるかなる遠海の
波の踴るを望むとき
いかに胸うつ音おと高く
君が血汐のさわぐらむ

または名に負ふ歌枕
波に千とせの色映る
明石の浦のあさぼらけ
松万代よろづよの音に響く
舞子の浜のゆふまぐれ
もしそれ海の雲落ちて
淡路の島の影暗く
狭霧のうちに鳴き通ふ
千鳥の声を聞くときは
いかに浦辺にさすらひて
遠き古むかしを忍ぶらむ

げに君がため山々は
雲を停めむ浦々は
磯に流るゝ白波しらなみ
揚げむとすらむよしさらば
旅路たびぢはるかに野辺行かば
野辺のひめごと森行かば
森のひめごとさぐりもて
高きに登り天地あめつち
もなかに遊べ大川おほかは
流れを窮きはめ山々のv 神をも呼ばひ谷々の
鬼をも起おこし歌人うたびと
たまをも遠く返へしつゝ
すゞしき声をうちあげて
ちせぬ琴をかき鳴らせ

あゝ歌神うたがみの吹く気息いき
絶えてさびしくなりにけり
ひゞき空しき天籟は
いづくにかある

  九つの
芸術たくみの神のかんづまり
かんさびませしとつくにの
阿典あぜんの宮殿みやの玉垣も
今はうつろひかはりけり
草の緑はグリイスの
牧場まきばを今も覆ふとも
みやびつくせしいにしへの
笛のしらべはいづくぞや
かのバビロンの水青く
千歳ちとせの色をうつすとも
柳に懸けしいにしへの
琴は空しく流れけり

げにや大雅みやびをこひ慕ふ
君にしあれば君がため
芸術たくみの天そらに懸る日も
時を導く星影も
いづれ行くへを照らしつゝ
深き光を示すらむ

さらば名残はつきずとも
袂を別つ夕まぐれ
見よ影深き欄干おばしま
煙をふくむ藤の花
北行く鴈は大空おほそら
霞に沈み鳴き帰り
あやなす雲も愁うれひつゝ
君を送るに似たりけり

あゝいつかまた相逢うて
もとの契りをあたゝめむ
梅も桜も散りはてて
すでに柳はふかみどり
人はあかねど行く春を
いつまでこゝにとゞむべき
われに惜むな家づとの
一枝の筆の花の色香を


 
  暁の誕生

 東の空のほのぼのと
世は白しらみそめにけり
この暁あかつきのさまを見て
命運さだめをいかに占うらなはむ

ことにさやけき紅くれない
光を放つ明星や
やがて処女おとめとなるまでの
がおひさきのしるべせよ

朝風舞まひをまふごとく
はるかに雲の袖を吹き
【とり】は寝覚に驚きて
先づ黎明しのゝめを呼びにけり

はじめて朝の床の上
が初声うぶごゑをきくときは
蕾を破るあけぼのゝ
はすの花にまがふかな

ぬるき汐うしほに浴ゆあみして
朝日に匂う茜染あかねぞめ
まだ罪もなきすがたこそ
なかばは夢の風情ふぜいなれ

いかにいかなる世なりとは
思ふこゝろもなからまし
そのうるはしき眼まなこもて
なにをか見んと願ふらむ

まだ生れ来し世の中に
願ふもとめもなからまし
空にやさしき手をのべて
なにをか早やも慕ふらむ

行く末花と生ひ立ちて
いかなる夢を重ぬとも
かゝるゆたけき朝のごと
心の空の静かなれ

あゝ朽ちずてふ九つの
芸術たくみの神も心あらば
このうるはしきみどりごに
にほひの露をそゝげかし

やがて好みて琴弾かば
指を葡萄の蔓つるとなし
耳をそよげる葦あしとなし
たなれの糸に触れしめよ

やがて好みて筆持たば
心を文ふみの梭をさとなし
胸を流るゝ雅あやとなし
色あたらしく織らしめよ

よし琴弾かず歌よまず
画をかくわざにすぐれずも
せめて芸術たくみを恋ひ慕ふ
深き情こゝろを持たしめよ

盃あげて美き酒を
こゝろごゝろにくみかはし
歌をつくりてよろこびの
この暁をうたひうたはん


 

   終焉いまはの夕ゆふべ

  潮うしほは落ちて帰りけり
 生命いのちの岸をうつ波の
 やがて夕ゆふべに回めぐれるを
 ひきとゞむべきすべもなし

  行くにまかせよ幾巻いくまき
 聖ひじりのふみはありとても
 耆婆ギバのたくみも海山うみやま
 薬も今は力なし

  八月螢ほたる飛び乱れ
 終りの床に迷ひきて
 まだうらわかきたをやめの
 香にほひの魂たまをさそひけり

  みそらの高き戸を出でて
 彩あやなす雲のくだるとき
 鐘の響も沈しづまりて
 眠るがごとく息絶いきたえぬ

  麗うるはしかりし黒髪を
 吹く風いとゞ冷ひややかに
 枕を照らす夕暮の
 星も思おもひを傷いたましむ

  抱いだきこがるゝひとびとの
 涙は床をひたすとも
 かをり空しく花折れて
 運命さだめの前に仆たふれけり

  めぐみはあつき父母たらちね
 さきだつことのかなしさを
 かこちわびてし口唇くちびる
 今は艶つやなく力なし

  慕ひあへりしはらからに
 永き別れを告げんとて
 深き情なさけにかゞやきし
 心の窓まども閉ぢはてぬ

  病める枕辺まくらべ近くきて
 夕ゆふべの鳥の鳴く声に
 涙ながらも微笑ほほゑみし
 色さへ今はいづくぞや

  光も見えずなりぬれば
 みまもる人を抱きしめ
 名を尋たづねつゝ手をとりし
 腕かひなは石となりにけり

  落つる日を見よひとたびは
 かゞやきかへり沈むごと
 やがて光をまとひしは
 つひに消えゆく時なりき

  あゝ死の海の底深く
 声も言葉も通かよはねば
 なげきあまりしひとびとの
 涙は潮しほと流るらん

  終りの床の遺骸なきがら
 ありし名残を見すれども
 はやその魂たまはとこしへの
 波に隠るゝかもめどり


 
  月光五首

  さなり巌いはほを撃つ波の
 夕ゆふべの夢を洗ふとも
 緑の岸に枕して
 松眠りなばいかにせむ

 あふげば胸に忍び入る
 清き光に照らされて
 われのみひとり笛吹けど
 君踊らずばいかにせむ

 こよひ月かげ新しき
 衣ころもを君にもたらすも
 としつき慣れてふりたるを
 君し捨てずばいかにせむ

 雲は緑の波を揚げ
 高き潮うしほを分つとも
 君し涙の涸れはてゝ
 胸うごかずばいかにせむ

 われあやまれり其その殻の
 安きを思へかたつむり
 君し眠りの楽しくば
 さめずもあれや月の光に

  其一

さなきだに露したゝるゝ
深き樹蔭こかげにたゝずめば
老いずの夢にたとふべき
よるの思に酔ふものを
月の光のさし入りて
林のさまぞ静かなる
緑を洗ふ白雨しらさめ
すぎにしあとの梢には
みたる酒の香に通ふ
雫流れてにほふらん

木下こしたに夢を見よてとか
林の夜よるの静けさは
暗きに沈む樹々きゞの葉の
影の深きによればなり
おぼつかなくも樹の蔭の
やみの深きに沈めるは
緑に煙けぶる夜の月の
深き木枝こえだをもれいでゝ
光もいとゞ花やかに
さし入る影のあればなり

耳をたつればなつかしや
かなたこなたに木がくれて
鳴く音をもらす子規ほとゝぎす
はるかに聞けばたえだえに
流れてひゞく谷の水
げにやいみじき其声は
いとしめやかにつま琴ごと
板戸いたどをもるゝ忍び音
糸のしらべに通ふらん
ひゞきをあげよ谷間たにあひ
むせびて下くだる河水かはみづ
ひゞきをあげよ月影に
しらべをつくる河水や
よしや林の深くして
には流れの見えずとも
月の光にさそはれて
よるの思を送れその琴こと

   其二

みやこの塵ちりはかゝるとも
市の響はかよふとも
さながら月に照らされて
鏡にまがふ池のおも

さゞれ波立ち池水いけみづ
動けるかたをながむれば
鏡の中に水鳥みづとり
むらがり歩む影の見ゆ

人の世はげにとゞまらで
時につけつゝ動くとも
芸術たくみの国の静けさは
この池の面に似たるかな

かしこに浮ぶ水鳥は
沈むともなきたが影ぞ
かしこに動くさゞ波は
たが浴ゆあみするわざならん

あゝ照る月はむかしより
人の望むにまかせたり
芸術たくみの花はむかしより
人の慕ふにまかせたり

ともしび秉りてよもすがら
遊ぶといふもことわりや
芸術たくみは流し月清し
この命こそ短かけれ

いのちはよしや指をりて
をしからぬまで数ふとも
のぞみは遠く夢熱き
そのほのほこそ短かけれ

たれかは早く老いざらむ
誰かは早く朽ちざらむ
心の花のうつろひは
一夜ひとよ眠りのうちにあり

これを思へば堪へがたく
みぎはにくだり池水いけみづ
ひゞくを聴けば音遠く
静かに沈む鐘の声

   其三

月光の曲銀の笛
はるけき西の国ぶりの
君吹きすさぶ一ふしは
緑の雲を停めけり

つきは梢を離れいで
影花やかにさすものを
今一度ひとたびはせめて君
吹けやしらべを同じ音

たとへばすめる真清水ましみづ
岩にあふれて鳴るごとく
深きまことの泉より
その笛の音や流るらむ

いづれも末は花すぎて
まことの色はあせなむを
君はいかなるたくみもて
かく新しき声を吹く

むかしの箏ことの譜は旧りて
いくもゝとせを過ぎにけり
芸術たくみの花は草と化
うつばりの塵ちり山と成る

薄暮ゆふぐれ橋のたもとにて
むかしの人に逢ふごとく
されば一ふし新しき
君がしらべぞなつかしき

うれしや高き音をそへて
きよき男の吹く笛に
みどりにけぶる月影の
いやうるはしく見ゆるかな

   其四

ゆふべとなりぬ夏の日の
長きつとめをうちすてゝ
いざや雄々しきかひなより
流るゝ汗をぬぐへかし

洗へ緑の樹のかげの
したゝる露のすゞしさに
君がくるしきあらがねの
土もとけなむ昼の夢

虫音も高く群むれを呼ぶ
琴のしらべにさも似たり
風おのづから吹きにほふ
たが招くともなかりけり

燃ゆるほのほのくれなゐの
塵も静かにをさまりて
楽しき園にかはりゆく
夕暮さまのおもしろや

君やも行くかわれはしも
浮べる雲にかへかねて
光を浴びむ白銀の
花やかにさす月の光を

   其五

あゝ時として月見れば
むなしき天あまの戸を渡る
すめる鏡と見えにけり
あるときはまた世に近く
いざよひ渡る横雲に
いと慣れ易く見えにけり

また時としてながむれば
いとゞ常なき世を超えて
朽ちず尽きせず見えにけり
あるときはまた影清く
まどかに高くかゝれども
とく欠け易く見えにけり

また時としてながむれば
光の糸に夜と朝を
つなぎとゞむと見えにけり
あるときはまた冷ひややかに
花と草との分わかちなく
世を照らすかと見えにけり

また時としてながむれば
昔も今もさまよひて
行くへもしらず見えにけり
あるときはまたさだめなき
浮べる雲に枕して
ねむり静かに見えにけり


 
  うぐひす

 さばれ空むなしきさへづりは
雀の群むれにまかせてよ
うたふをきくや鶯の
すぎこしかたの思ひでを

はじめて谷を出でしとき
朔風きたかぜさむく霰あられふり
うちに望みはあふるれど
行くへは雲に隠かくれてき

露は緑の羽はねを閉
霜は翅つばさの花となる
あしたに野辺の雪を噛
ゆふべに谷の水を飲む

さむさに爪も凍りはて
絶えなんとするたびごとに
また新あらたなる世にいでゝ
くしきいのちに帰りけり

あゝ枯菊かれぎくに枕して
冬のなげきをしらざれば
が身にとめむ吹く風に
にほひ乱るゝ梅が香を

谷間たにまの笹の葉を分けて
凍れる露を飲まざれば
が身にしめむ白雪の
下に萌え立つ若草を

げに春の日のゝどけさは
暗くて過ぎし冬の日を
思ひ忍べる時にこそ
いや楽しくもあるべけれ

梅のこぞめの花笠はながさ
かざしつ酔ひつうたひつゝ
さらば春風吹き来きた
にほひの国に飛びて遊ばむ


 
  かりがね

 さもあらばあれうぐひすの
たくみの奧はつくさねど
または深山みやまのこまどりの
しらべのほどはうたはねど
まづかざりなき一声こゑ
涙をさそふ秋の雁かり

長きなげきは泄らすとも
なほあまりあるかなしみを
うつすよしなき汝なれが身か
などかく秋を呼ぶ声の
あらき響ひゞきをもたらして
人の心を乱すらむ

あゝ秋の日のさみしさは
小鹿をじかのしれるかぎりかは
すゞしき風に驚きて
羽袖もいとゞ冷ひややかに
百千もゝちの鳥の群むれを出て
浮べる雲に慣るゝかな

菊より落つる花びらは
がついばむにまかせたり
時雨しぐれに染むるもみぢ葉
なれがかざすにまかせたり
声を放ちて叫ぶとも
たれかいましをとゞむべき

星はあしたに冷やかに
露はゆふべにいと白し
風に隨ふ桐の葉の
枝に別れて散るごとく
みそらの海にうらぶれて
たちかへり鳴け秋のかりがね


 
  新潮

    一

かれあげまきのむかしより
うしほの音おとを聞き慣れて
磯辺に遊ぶあさゆふべ
海人あまの舟路を慕ひしが
やがて空むなしき其夢は
身の生業なりはひとなりにけり

七月夏の海うみの香
海藻あまもに匂ふ夕まぐれ
兄もろともに舟ふねけて
力をふるふ水馴棹みなれざを
いづれ舟出ふなではいさましく
波間に響く櫂の歌

夕潮ゆふじほ青き海原うなばら
すなどりすべく漕ぎくれば
きては開く波の上の
鴎の夢も冷やかに
浮び流るゝ海草うみぐさ
目にも幽かすかに見ゆるかな

まなこをあげて落つる日の
きらめくかたを眺むるに
羽袖うちふる鶻隼はやぶさ
あやなす雲を舞ひ出でゝ
つばさの塵ちりを払ひつゝ
物にかゝはる風情ふぜいなし

飄々として鳥を吹く
風の力もなにかせむ
いきほひたつの行くごとく
羽音はおとを聞けば葛城の
そつ彦むかし引きならす
真弓まゆみの弦つるの響あり

希望のぞみすぐれし鶻隼はやぶさ
せめて舟路のしるべせよ
げにその高き荒魂あらたま
敵に赴おもむく白馬しろむま
白き鬣たてがみうちふるひ
風を破やぶるにまさるかな

海面うみづら見ればかげ動く
深紫の雲の色
はや暮れて行く天際あまぎは
行くへや遠き鶻隼の
もろ羽は彩あやにうつろひて
黄金こがねの波にたゞよひぬ

あしたゆふべを刻きざみてし
天の柱の影暗く
雲の帳とばりもひとたびは
輝きかへる高御座たかみくら
西に傾く夏の日は
遠く光彩ひかりを沈めけり

見ようるはしの夜よるの空そら
見ようるはしの空の星
北斗の清きよき影かげえて
望みをさそふ天の花
とはの宿りも舟人ふなびと
光を仰ぐためしかな

うしほを照らす篝火かゞりび
きらめくかたを窺へば
まつの火あかく燃ゆれども
魚行くかげは見えわかず
流れは急はやしふなべりに
触れてかつ鳴る夜よるの浪なみ

   二

またゝくひまに風吹きて
舞ひ起つ雲をたとふれば
いくさに臨むますらをの
あるは鉦かねうち貝を吹き
あるは太刀たちき剣つるぎ
弓矢ゆみやを持つに似たりけり

光は離れ星隠れ
みそらの花はちりうせぬ
あやうるはしき巻物まきもの
高く舒べたる大空おほぞら
みるまに暗く覆はれて
目にすさまじく変りけり

聞けばはるかに万軍ばんぐん
鯨波ときのひゞきにうちまぜて
陣螺ぢんらの音色ねいろほがらかに
の空そら高く吹けるごと
くらき潮うしほの音のうち
いと新あたらしき声すなり

かれあまたゝび海にきて
風吹き起るをりをりの
波の響に慣れしかど
かゝる清すゞしき音をたてて
しき魔の吹く角かくかとぞ
うたがはるゝは聞かざりき

こゝろせよかしはらからよ
な恐れそと叫ぶうち
あるはけはしき青山あをやま
しのぐにまがふ波の上うへ
あるは千尋ちひろの谷深く
落つるにまがふ濤なみの影かげ

たゝかひ進むものゝふの
つるぎの霜を拂ふごと
溢るゝばかり奮ふるひ立ち
うしほを撃ちて漕ぎくれば
やなはふたりの盾たてにして
かぢは鋭するどき刃やいばなり

たとへば波の西風にしかぜ
梢をふるひふるごとく
舟は枯れゆく秋の葉の
枝に離れて散るごとし
帆檣ほばしらなかば折れ砕け
かゞりは海に漂たゞよひぬ

かなしや狂くるふ大波おほなみ
舟うごかすと見るうちに
をうしなひしはらからは
げに消えやすき白露しらつゆ
落ちてはかなくなれるごと
海の藻屑もくづとかはりけり

あゝ思のみはやれども
まなこの前のおどろきは
つるぎとなりて胸を刺
千々ちゞに力を砕くだくとも
怒りて高き逆波さかなみ
たけき心を傷いたましむ

命運さだめよなにの戯たはむれぞ
人の命は春の夜の
夢とやげにも夢ならば
いとゞ悲しき夢をしも
見るにやあらむ海にきて
まのあたりなるこの夢は

これを思へば胸満ちて
流るゝ涙せきあへず
今はた櫂をうちふりて
波と戦ふ力なく
死して仆たふるゝ人のごと
身を舟板に投げ伏しぬ

一葉ひとはにまがふ舟の中
波にまかせて流れつゝ
声を放ちて泣き入れば
げに底ひなきわだつみの
上に行衛も定めなき
かもめの身こそ悲しけれ

時には遠き常闇とこやみ
光なき世に流れ落ち
朽ちて行くかと疑はれ
時には頼む人もなき
つめたき冥府よみの水底みなそこ
沈むかとこそ思はるれ

あゝあやまちぬよしや身は
おろかなりともかくてわれ
もろく果つべき命かは
照る日や月や上にあり
大竜神おほだつがみも心あらば
いやしきわれをみそなはせ

かくと心に定めては
波ものかはと励はげみたち
やみのかなたを窺ふに
そらはさびしき雨となり
うしほにうつる燐りんの火の
乱れて燃ゆる影青し

かれよるべなき海の上
ける力の胸の火を
わづかに頼む心より
消えてはもゆる闇の夜
その静かなる光こそ
たゞよふ身にはうれしけれ

危ふきばかりともすれば
波にゆらるゝこの舟の
行くへを照らせ燐の火よ
海よりいでゝ海を焚
青きほのほの影の外
道しるべなき今の身ぞ

砕かば砕けいでさらば
波うつ櫂はこゝにあり
たとへ舟路は暗くとも
世に勝つ道は前にあり
あゝ新潮にひじほにうち乗りて
命運さだめを追うて活きて帰らむ


 
わすれ草をよみて

  わすれぐさは島田氏のむすめ愛子が遺しおける歌文あまたありけるを、そが教へ親なる人の舟さしよせてしるしありやとつみあつめたるひとまきなり。
 序のうたは万里小路伯、小伝は東久世伯、追悼のうたを添へたるは竹柏園のうしなり。
 なほ巻の終にはともがきの手向草あまた載せたるが、いづれも深く追慕の心を寄せたり。
 巻のはじめなる俤は、かみのつかねざまもいとつゝましく、前髪のみは西ぶりにしてうるはしく切りさげたる、まだうひうひしき肩あげのにつかひたるなど、いづれ昔しのぶの種ならぬはなし。
 家は神奈川なる川崎町にありといふ。
 二十六年の秋よりみやこに出でゝ学ぶのかたはら、竹柏園のあるじにつきて歌文の道ををさめ、すぐれたるほもれありしを四とせめの春病にかゝり、年僅に十七にてみまかりぬ。
 そのむかしをりをりの紀行のふみなど吾許にもてきて朱を加へよなどいひしことも思ひいでられ、さばかりのえにしもありければ、この巻ひもときて懐旧の情に堪へず、雑の歌の終に、病あつしかりける時とはし書して、
  父母の深きめぐみをよそにして
    草葉のつゆときえむとすらむ
とありしを読み、すなはち其歌にちなみて筆を起し、哀歌をつゞる。

 もとより消ゆる露なれば
たれかことばをつくすとも
ちらぬすがたに立ちかへり
もとの草葉にのぼるべき

ふたとせの夏はやもきぬ
のこれる人の惜みては
あまる涙をそゝぎてし
おくつきの花さくらんか

緑の草の生ひいでゝ
うるはしき実をたまにぬき
なれがはかばをかざるとも
しづこゝろなく眠るらむ

あしたゆかしくさきいでゝ
ゆふべにちるを数ふるに
拾ふもつきじ言の葉の
にほひをのこすわすれ草

すぐれしゆゑにうつし世に
とゞめもあへず紅くれなゐ
うつろひ易き色にいで
なれはや早くうせにけむ

あしたゆふべの行く雲の
はたてに物を思ふ汝なれ
こゝろづくしの冥府よみにまた
むね驚かすゆめありや

春はたのしきうぐひすの
ながおくつきに歌ふとも
よみぢはいかに木蘭の
花より墜つる露ありや

秋はさびしき黄葉もみぢば
ながおくつきにかゝるとも
うれひをいかに目にあてゝ
おしぬぐふべき菊ありや

あゝ青塚あをづかの青草あをぐさ
いくその人かあはれまむ
むさしあぶみもむらさきも
つひには同じ秋一葉あきひとは

ゆめなおそれそ風あれて
雲はうき世にさわぐとも
ゆめなおそれそいなづまの
ながおくつきを照らすとも

なれよ安やすかれくちなしの
色の泉の岸にさく
よみぢの花に枕して
草葉の影に寝いねよかし

 
 高山に登りて遠く望むの歌

 高根たかねに登りまなじりを
きはめて望み眺むれば
わがゆくさきの山河やまかは
目にもほがらに見ゆるかな
みそらを凌しのぐ雲の峯
くだけて遠く青に入る

こゞしくくしき磐いはが根
連なり亙る山脈やまなみ
海にきほへる高潮たかじほ
驚き乱れ湧くごとく
大山おほやまつみも動ゆるぎいで
わが精魂たましひを奪ふかな

たれかは譏そしり誰が恨む
つばさをのべし鶻隼はやぶさ
むなしき天あまの戸を衝きて
高きみそらにかけれども
うちふりうちふる羽袖だに
引きとゞむべき雲もなし

遠く緑におほはれて
望をつゝむ野のかたに
東に下くだる河波かはなみ
行くへを見れば紫の
山の麓をうちひたし
滔々たうたうとして流れ去る

あゝ大空に風吹けば
雲おのづから舞ふごとく
迷ひの霧にこめられし
暗き谷間たにまを歩みいで
高根にあれば時を得て
はるかに揚るわが心

かへりみすれば越えてこし
山はうしろに落ち入りて
荒れにし森の影もなく
さみしき野辺も見えわかず
日の照らすとも七重八重
わが故郷ふるさとは雲に隠れて


 
  二つの泉

 自然の母の乳房ちぶさより
そこに流るゝ泉あり

たとへば花の処女をとめご
やがて優しき母となり
その嬰児みどりごの唇を
うるほすさまに似たるかな

一つは清みて冷ひややかに
谷の間あひだにほとばしり
葉を重ねたる青草あをぐさ
しげみのうちを流れけり

一つは泉あたゝかに
その色暗く濁にごりいで
ひゞきは神の鳴るごとく
いはほの蔭に溢れけり

さちはあつさにつかはれて
渇きかなしむ人にあれ
あゝ樹の蔭の草深く
すめる泉を飲みほして
自然のうちに湧きいづる
きよき生命いのちを汲ましめよ

さちは望みの薄くして
思ひなやめる人にあれ
あゝ夕風のきたるとき
あつき泉に浴ゆあみして
自然のうちにほとばしる
しき力を知らしめよ

岩と岩との谷のかげ
砂と砂との山のはを
緑の草の生ひいでゝ
花さく園となすまでは
あふれいでつゝ昼も夜も
たえぬ泉としるや旅人


 
  天の河二首

  其一 七月六日の夕

あすは思へばひとゝせに
一夜ひとよの秋の夕ゆふべなり
うき世にしげるこひ草ぐさ
みそらの星もつまむとや
北斗は色をあらためて
よろづの光なまめきぬ

あふげば清し白銀しろがね
夕波ゆふなみ高き天の河
深き泉を湧きいでゝ
うき世の外にたちさわぐ
つきせぬ恋の河水かはみづ
遠くいづくに溢るらむ

西風にしかぜ星の花を吹き
天の河岸秋立ちぬ
かの彦星ひこぼしの牽く牛は
しげれる草に喘あへぎより
ふたつの角つのをうちふりて
水の流れを慕ふらむ

げに彦星の履みて行く
河辺かはべの秋やいかならむ
高きほとりの通い路
白萩しらはぎの花さくらむか
人行きなるゝ岸のごと
紫苑の草の満つるむか

ひとり静かに尋ねよる
彦星のさまいかならむ
あすの逢瀬を微笑みて
かの琴台の美酒うまざけ
盃に酔ふ人のごと
あゆみ危ふく行くらむか

または涙を墨染の
ころもの袖につゝむとも
なほ観経くわんきんの声曇る
西の聖ひじりの夢のごと
恋には道も捨てはてゝ
袖をかざして行くらむか

または旅寝の夢の上
夢をかさぬる草まくら
えにしの外のえにしとは
それかよげにも捨てがたく
江口の君をたづねよる
侘人わびびとのごと行くらむか

天上てんじやうの恋しかすがに
ことなるふしはありとても
さもあればあれ彦星の
たなばたづめの梭をさの音
望みあふれて慕ひゆく
このゆふべこそ楽けれ

  其二 七夕

こよひみそらの白波しらなみ
かぢの音すなりひこぼしの
やすの河原かはらに舟浮ふねうけて
     今しこぐらし
風かぐはしく吹き匂ふ
花濃き岸にたづさはり
涙は顔をうるほして
おいをし知らぬ夢のごと
     かしこにかしこに
       楫かぢの音きこゆ
人のすなるを星も見て
こひつくすらんこの夕ゆふべ

水影草みづかげぐさのうちなびく
川瀬を見ればひとゝせに
ふたゝび逢はぬこひづまに
     今し逢ふらし
まだ色青き草麦くさむぎ
はたけのうちにたふれふし
燃えては熱き紅唇くちびる
たがひに触るゝ夢のごと
     かしこにかしこに
       ふれる袖見ゆ
人のすなるを星も見て
こひつくすらんこの夕

川声かはとさやけしおりたちて
そらより深く湧きいづる
恋の泉をうちむすび
     今し飲むらし
乾くまもなき染紙そめがみ
落つる涙にけがしては
生命いのちの門かどをかけいでゝ
恋に朽ちぬる夢のごと
     かしこにかしこに
       渡るひこぼし
人のすなるを星も見て
こひつくすらんこの夕


 
   落梅

 風かぐはしく吹く日より
夏の緑のまさるまで
梢のかたに葉がくれて
人にしられぬ梅ひとつ

梢は高し手をのべて
えこそ触れめやたゞひとり
わがものがほに朝夕あさゆふ
ながめて暮くらしてすごすとき

やがて鳴く鳥おもしろく
黄金こがねの色にそめなせば
行きかふ人の目に触れて
落ちて履まるゝ野路のぢの梅


 
  婚姻の祝いの歌

  其一 花よめを迎ふるのうた

君まつ宵よひのともしびは
いとゞ火影ほかげも花やかに
鶴なきわたる蓬莱の
千世ちよのみどりを照すかな

祝の酒は香にあふれ
すゞの堤子ひさげをひたしけり
いざや門辺かどべにたちいでゝ
君の来きたるをむかへなむ

星よこよひはみそらより
人の世近くくだりきて
める光に花よめの
たのしき道のしるべせよ

風よ歌へよ松が枝
小琴をごとをかけよひとふしは
いとしめやかに道すがら
よろこびの譜をひけよかし

まなこをそゝげひとびとよ
はやかの群むれはちかづきぬ
ともなひきたるをとめごの
かゞやきわたるさまを見よ

わがうるはしき花よめは
むらさきにさくあやめなり
そのころもには白びやくだんの
いとすぐれたるかをりあり

髪には谷の白百合の
にほへる油うちそゝぎ
むすべる見れば其その帯に
黄金こがねの糸を織りなせり

いざやこよひの歓喜よろこび
花のむしろにいざなひて
秋の紅葉を染めなせし
色すべり着る君を祝はん

 其二 さかもりのうた

ためしすくなきよろこびの
けふのむしろのめでたさに
身を酒瓶さかがめとなしはてゝ
祝いの酒にひたらばや

瓶の中なる天地あめつち
祝の夢に酔ひ酔ひて
心は花の香に匂ふ
楽しき春の夜に似たり

比翼の鳥のうちかはす
羽袖はそでもいとゞ新しく
天の契ちぎりを目にも見る
連理の枝のおもしろや

わがはなむこは紅くれない
かほばせいとゞうるはしく
まなこはひかりかゞやきて
あしたの星にまがふめり

わがはなよめは白百合の
白きころもをうちまとひ
その黒髪の露ふかく
黄菊きぎくの花をかざしたり

つばさならぶる鴛鴦をしどり
雄鳥をどりの羽はまさるごと
いづれか欠くる世の中に
ためしまれなるふたりかな

たれかめでたき言の葉に
神の力は奪ふとも
契の酒をくみかはす
ふたりのさまを喩たとふべき

いかにいかなるたくみもて
画筆ゑふでに色は写すとも
くるに慣れし彩あやをもて
ふたりのさまを画ゑがくべき

言ふにも足らじ貝かひの葉の
たがひに二つ相合ふて
なさけの海にたつ波の
そこによせてはかへすとも

えにしの神にゆるされて
ふたり身は世に合ふのみか
たがひに慕ふ胸の火は
心の空そらにもゆるかな

地にあるときは二人ふたりこそ
またき契といふべけれ
天にありても二人こそ
またき妹背いもせにいふべけれ

天の河原は涸るゝとも
連理の枝は朽つるとも
比翼の鳥は離るとも
二人ふたりのなかの絶ゆべしや

これを思へばよろこびの
祝の酒に酔ひくだけ
胸のたのしみつきがたく
このさかもりの歌となる

玉山ぎよくさんながく倒れては
おぼつかなくも手をうちて
高砂の歌おもしろき
このむしろこそめでたけれ



 農夫

  凡そ万物に本来あり、改作耕稼もまた結要あるべし。
 農民は朝に霧を払い出て、夕に星を載て帰る。
 遠方野山に居る時は少し休むことあれば疇を枕にするといへども、楽も亦其中にあり。
 人は体を隠に置て気を詰ること老病する本歟。
 依之、山人は体を詰め気は泰にするといふ、是によつて長命し、海人は体を泰にして気を詰る故に短命すといふ。
 気体不二なりといへども心は叉替るにや。
 総じて下民の苦は眼を開きて上より心つきて見る、則ち苦も亦明かにして、上の楽も亦弥楽みなりといふ。
 耕桑は昼夜男女雨露にぬれて、農民辛苦すること甚し。
 耕し織らずんば何を以てか三宝の其一とせん。
 民は心気をくだき身を詰めて、天の造化にしたがひ力むるものは良農なり。
 農人は遊楽の慾薄くして唯雑食の腹に満たんことを願ふものなり。
           (耕稼春秋、初巻)

   序

 利根川のほとりにて

  一の声

見よるはしく照る月の
緑にけぶる夜のひかり
見よゆるやかに行く水の
流れは深き利根の河
花さきにほふ川岸に
光彩ひかりを宿す青草あをぐさ
茂れるかたの静けさは
ねむりのごとく見ゆるかな

  二の声

さても自在を翼とし
光にありて闇を知り
みそらに居りて冥府よみの世の
声を聴き知るわれらさへ
かの魔界ふるさとを立ちいでゝ
かくうるはしき月の夜に
自然の業わざを眺めつゝ
岸のほとりにさまよへば
くとしもなき今宵こよひかな

  三の声

あゝ疑惑うたがひと悲哀かなしみ
夢ひきむすぶ人の子は
いかにこよひの月を見て
夜の思をかさぬらん
げに人のする業わざよりも
いや空むなしきはあらじかし
いかに望みは高くして
この天地あまつちを狭しとし
泣きつ笑ひつ怒りつゝ
こゝろ一つにすがるとも
そのなすわざを眺むれば
葡匐はらばふ虫にいづれぞや
よしといひ又たあしといひ
むなしき岸は築くとも
かの生滅の波うたば
流るゝ砂にいづれぞや

あしたゆふべの影々かげかげ
舞台うてなを馳せてとゞまらず
きたるは虹のごとくにて
帰るは花の散るごとし
すぎにしあとを窮きはむれば
いづれか児戯じきにあらざらむ
消えゆくあとを眺むれば
また尋ぬべきすべもなし

露霜つゆじも深き利根川の
岸辺の小田のあさゆふべ
かれ鋤鍬すきくはを友として
つとめ耕す身なれども
家のむかしを尋ねれば
まこと賎しき種たねならず
げにわれはしもこよひより
彼の心の中うちに住み
雄ゝしき彼を誘いざなひて
恋さまざまの夢を見せ
時に処女をとめと身を化して
この月影の川岸に
しく光を投ぐるごと
あやしき影を彼に投げ
時には夢にあらはれて
やすき心を奪い裂き
胸に霰あられをそゝぎては
涙の露を落おとさしめ
うつゝに隠れ夢に出て
光にひそみ影に見え
もゆる試練ためしの火となりて
若き農夫を試こゝろみん

  二の声

きけや一ふしほがらかに
遠く吹きすむしらべこそ
かれがすさびの笛ならめ

  一の声

さなりさやけき月影に
笛のあるじをながむれば
まことや彼は農夫なり

  三の声

よしうるはしき青草あをぐさ
岸にすわりて彼かれを待たなん

  上のまき

 一 田畠の間なる小道にて

   父

ゆふべ小暗をぐらきともしびの
油はつきて消ゆるまで
人は眠りにさそはれて
楽しき夢に入れる間
いねられなくにたゞひとり
ひとり枕をかき抱き
しぎの羽掻はねがきしばしばも
同じ思ひにかへりつゝ
このもろこしの戦いくさにぞ
なれは行かじと嘆きそむ
そのこゝろねをはかりしが
わが疑念うたがひは解けざりし

今こそはかく利根川の
岸辺の草に埋もれて
あしたに星の影を履み
ゆふべに深き露を分け
すきと鍬くはとを肩にして
いやしき業わざはいとなめど
もとほまれあるものゝふの
高き流れを汲める身ぞ

すぐれし馬にむちうちて
風に真弓まゆみをひき慣らし
胸に溢るゝますらをの
ほまれは海の湧くがごと
のぞみは雲の行くがごと
雄々しかりける吾父も
草葉の影の夢にだに
が言の葉を泄れきかば
いかにはげしき紅くれなゐ
血汐の涙流すらむ

げに汝なれはしも吾わが家の
高きほまれを捨つるまで
世のことわりもわかるまで
いくさを恐おづる心かや

   農夫

おそれやはするよしや今
心を奪ふいかづちの
ふるふがごとく大砲おほづゝ
まなこの前にとゞろくも
われは静かに鍬くはとりて
としつき慣れし利根川の
岸辺にいでゝ小田をだうたむ
または流るゝ弾丸たま飛びて
耳のほとりをかすむとも
たなれの鋤を肩にして
ゆふべの歌をうたひつゝ
いと冷やかに桑の樹の
葉陰はかげを履みて帰るべし

   父

しからば遠き軍旅いくさには
などかいでしよなげくらむ

   農夫

なげかざらめや戦たゝかひ
なべてを思ふ吾身なり
つるぎをとるも畠はたうつも
深き差別けぢめはあらざらむ

われ時として畠中はたなか
手に持つ鍬くはを投げ捨てゝ
たがやしするも畠はたうつも
土をかへすも草ぎるも
汗も膏あぶらもおろかしく
生れいでたるわれひとの
むなしき生涯いのち一日ひとひより
二日ふたひにつなぐためかとぞ
思えば身をも忘れつゝ
佇立たゝずむこともありしなり

まことのさまを尋ぬれば
たゝかひとてもまた同じ
野末の草に流れゆく
活ける血汐やいかならん
つるぎの霜に滅ほろびゆく
人の運命さだめやいかならん
たれか火に入る虫のごと
ける命をほろぼして
あだし火炎ほのほに身を焚くの
おろかのわざをまなぶべき
嗚呼つはものゝ見る夢の
花や一時ひととき春行かば
つるぎも骨も深草ふかくさ
青きしげみに埋るらん
げに凄まじき戦たゝかひ
あとにもましてうつし世に
いや悲しきはあらじかし

   父

おろかしやそのくりごとは
夢見る人のいふことぞ

   農夫

さなりうき世の闘争あらそひ
いづれか夢にあらざらん

   父

あゝ汝が耳は聾しひたれば
いかにすぐれしものゝふの
ほまれの鐘も響なし
なれが眼まなこは盲しひたれば
いかにまことのたらちをの
言葉の花も色ぞなき
かりそめならぬ世のわざを
あざけり笑ふ言の葉は
さはやかなるに似たれども
のゝしり狂くるふますらをの
身の行末をながむれば
みな落魄おちぶれと涙のみ

あゝわが胸は苦悶くるしみ
恥辱はぢと忿怒いかりに溢れたり
かなしあさまし世の人に
が言の葉の泄れもせば
冷たき汗は雨のごと
いかに流れて我を浸ひたさん

 二 まへとおなじ小道にて

   母

かくても長き夏の日に
ひとり思ひに沈みつゝ
緑の蔭に佇立たゝずみて
いくその時を経つるぞや
ゆめな恨みそ汝が父の
思ひあまりしくろがねの
こぶしのあとは紫に
深き傷いたみをのこすとも

そはあらそひの痕あととしも
思へばさこそ恨みあれ
いたみはいかに夏の日の
はげしきさまに似たりとも
がたらちをの秋霜あきじも
教のほどを思ひ見よ
まだいとけなき昔より
好めるまゝに書ふみも読み
ものゝあはれもことわりも
あらかたは知る汝が身なり
たれか好みてうめる児
わざはひあれと願ふべき
忍びがたきを忍びつゝ
遠き軍旅いくさに行きねかし

   農夫

まことやわれはますらをの
ほまれを知らぬ心より
遠きいくさに出で立つを
なげくものにはあらじかし

あゝ吾胸は写うつすべき
言葉も知らぬかなしみを
宿やどせし日より昼も夜も
深き思に沈みつゝ
迷へる虫の窓にきて
かなたこなたに飛ぶがごと
あめと地つちとに迷ふ身の
おろかをかこつ外あらじ
このかなしみの乳房ちぶさより
われさまざまの智慧ちゑを飲み
にがき世の味あぢ物の裏
人のまことも虚偽いつはり
あぢはふ身とはなりしなり
このかなしみはあやしくも
我をいざなひ導みちびきて
気は世を蓋おほふますらをの
高きほまれも夢と見せ
祭りの夜の燈火ともしび
たはるゝ人を影と見せ
暗き舞台うてなの幻燈うつしゑ
ものゝかたちの映うつるごと
世のさまざまを見せしめき
このかなしみを吾胸の
深き底より湧き上り
遠きいくさに行くべきを
はなたじとこそとゞむなれ

   母

げにしがらみのせきとめて
流れもあへぬ谷川の
そのかなしみのあらかたも
われはとくより知れるなり

さばれかくまで言ひはりて
いくさの旅を厭いとひなば
その暁あかつきやいかならむ
思ふも苦くるし罪人つみびと
にも呼ばれてあさゆふべ
暗き牢獄ひとやの窓により
星の光を見るの外
身に添ふ影もあらざらん
見よ花深き川岸に
むつまじかりしまとゐさへ
させる嵐のさわぎなば
家のむつびもたのしみも
一夜のうちに破れなむ

人はこの世に生まれきて
得しらぬ途を行くなれば
げにさまざまの山河を
越ゆべき旅の身なるぞや

われも思へば前髪まへがみ
まだ初花はつはなのむかしより
はやも命の傾かたぶきて
秋の霜ふるこの日まで
あるは行くへの雲深く
道なき森に迷うごと
光もなくて明くる日は
空行く鳥を望み見て
れる翼を羨うらやみし
その暁あかつきも多かりき
あるはなやめる旅人の
夏の緑の蔭に行き
める泉をむすぶごと
げに絶えなんとばかりにて
またも生命いのちにかへりてし
その夕暮も多かりき

なあやまりそあやまりそ
あゆむに難かたき世の路を
見よ人の行く旅路たびぢには
入るべき道のありながら
づるにかたき谷間たにあひ
多かるとこそ聞くものを
あゝうらわかき旅人たびびと
かゝるほとりに分け入りて
また帰りこぬためしさへ
世にさはなりとしるやしらずや

 三 鍛冶の家にて

   つかひの老婆

のぞみはむなし待人まちびと
影はそれとも見えざりき

   鍛冶のむすめ

をさもつわざにたへかねて
ゆふぐれ窓によりつゝも
が帰りこん時をだに
待ちわびてしはあだなりや

   老婆

かの蔭深き緑葉みどりば
柳のほとり尋ねゆき
人やきたると待ちしかど
風は空むなしく川岸の
草のおもてを渡るのみ
尋ぬる影はあらざりき

青きみそらに迷ひゆく
雲と雲との絶間たにまより
夕日ゆふひはもれて利根川の
水に光彩ひかりを沈めつゝ
黄金こがねの色は川岸の
ゆくへはるかに輝かゞやくも
尋ぬる人はあらざりき

ゆふべにかゝる明星の
いとゞさやかにあらはれて
深き光は夏の日に
ふたゝびしらぬ空の花
影はかなたの野の家の
屋根を帯びつゝきらめくも
尋ぬる人はあらざりき

やがて川辺にたちこめし
狭霧のうちに閉とざされて
むなしく帰る渡りしも
ゆるき流れに棹さして
舟やる音おとは夕暮の
さみしき空にひゞけども
尋ぬる人はあらざりき

   むすめ

あゝなつかしき夕暮を
人待つ時といふとかや
あまの河原かはらに彦星の
たなばたづめと相逢ふも
さみしく更けし夜半よはならで
そは夕暮のころとかや
まだ暮れはてぬけふなれば
人待つ望みのこるらん
人一度はいでゆきて
岸のほとりを尋ね見よ

   老婆

はや花草はなくさの影暗く
ねぐらにいそぐ鶏にはとり
沢辺さはべを帰る雛鳥ひなどり
そのかずかずを呼ぶぞかし
竹の林のかなたには
羽音さびしき旅鴉たびがらす
雲を望みて飛び行くは
むれに別れて迷ふなるらん

   むすめ

    一

  門田かどたにいでゝ
     草とりの
  身のいとまなき
     昼なかは
  忘るゝとには
     あらねども
  まぎるゝすべぞ
     多かりき

    二

  夕ぐれ梭をさ
     手にとりて
  こゝろ静かに
     織るときは
  人の得しらぬ
     思こそ
  胸より湧きて
     流れけれ

    三

  あすはいくさの
     門出なり
  遠きいくさの
     門出なり
  せめて別れの
     涙をば
  名残にせんと
     願ふかな

    四

  君を思へば
     わずらひも
  照る日にとくる
     朝の露
  君を思へば
     かなしみも
  緑みどりにそゝぐ
     夏の雨

    五

  君を思へば
     闇の夜も
  光をまとふ
     星の空
  君を思へば
     浅芽生あさぢふ
  荒れにし野辺も
     花のやど

    六

  胸の思ひは
     つもれども
  吹雪ふぶきはげしき
     こひなれば
  君が光に
     照らされて
  消えばやとこそ
     恨うらむなれ

 四 林の中

   農夫

時はせまりぬ利根川の
水の流れに舟浮けて
都のかたに行く人を
はや岸の辺に待つならむ
なかなしみそ今は我われ
すでに心を定めたり
これより遠きもろこしの
軍の旅に行くべきぞ

   むすめ

けふ別れてはいつかまた
相逢ふまでの名残ぞや
あゝ人去りて鳥なかば
鳥の行くへに花さかば
花の色香によそへつゝ
なれにし岸の青草あをぐさ
上にすわりて汝なれがため
さちあれかしと祈らなむ

   農夫

思へばわれはこの日ごろ
あだなる夢に迷ひつゝ
かりそめならぬ汝なれが身を
あやまりしこそうたてけれ

   むすめ

さらば二人のえにしをば
あだなる夢と思ふかや

   農夫

さなり波たつ海原うなばら
底はありとも吾恋は
そこひ知らずとかこちつゝ
なれになげきしけふまでを
あだなる夢と思ひてよ
あゝあやまりて我は早
なれに恋する心なし
げにおろかしきわがために
が身の花はつながれて
行くべきかたに得も行かず
いくその時を経てしぞや
なあやまりそかなしみそ
すでに冷たき石なれば
恋は用なき吾身なり
めぐみは深きたらちねに
行きてまことをつくせかし

   むすめ

その言の葉の底をだに
汲みしらじとにあらねども
あゝ汝なれは吾わが生命いのちなり
われは生命いのちに離れたり

たゞ忘れじとひとことの
頼むべきだにありもせば
いかに苦しきなやみをも
われは汝なれゆゑ忍ぶべし
いかにさかしき世の人の
笑ひはすとも聞き入れじ
さるをつれなき言の葉に
痛みを胸に残しつゝ
かくて互に別れなば
われはたとへば白百合の
人に折られし花のごと
今は道辺に捨てられて
いとすみやかに萎しをれなむ

人の望みと願ひとに
満つるかぎりはあらねども
なれつまとなり父となり
われ妻となり母となり
世にある上うえはかくてこそ
えにしの甲斐もありけめを
かゝる命運さだめは朽ちてゆく
かよわき人の身の常つね

   農夫

なれあやまれりあやまれり
処女をとめの胸の花一枝はないつし
二つとはなき色香ぞや
かりそめならぬ汝なれが身の
たからを深く蔵をさめてよ
あゝ心せよあろかしき
われは虫にも劣おとる身ぞ
空に翅つばさをうちのべて
思ひのまゝに舞ふ鷹も
人と生れし我よりは
かしこき術すべを知るぞかし

はや川岸のかなたにて
喇叭の響きこゆるは
舟のよそほひとゝのひて
呼ぶにあらんあゝさらば
遠き軍いくさに出でたちて
命さだめぬ身なれども
いくさの神のみめぐみに
われもほまれは揚げなむを
さらば汝なれやもたらちねの
深きめぐみをあだにせで
えにしもあらばよきかたに
末栄さかえある身を立てよ

   むすめ

逢ふ時あれば二人ふたりまた
別るゝ時のありぞとは
ことわりしらぬ身なれねど
かくも惜めば惜まるゝ
われら二人の名残かな

さらば再びかへりきて
いくさがたりをなさんまで
国ことなれる春秋はるあき
雨と風とを厭いとひてよ
つるぎの影の霜さえて
いくさの野辺は寒さむくとも
かのほまれあるつはものゝ
たけきわざには劣りそよ
あゝ利根川の水のごと
柳のかげのあさゆふべ
胸小休むねをやみなき吾身より
涙は汝なれがかたに流れん

  下のまき

 一 緑の樹かげにて

   農夫

はや二とせは過ぎにけり
いくさの旅の寝覚には
あかつき空に吹きすめる
喇叭の声をきくごとに
思い浮べし故郷ふるさと
今はうれしく見ゆるかな

金州城の秋深く
かゞりの影の暗き夜は
露営の霜の寒さより
また倚子山のたゝかひの
弾丸たまの霰あられのたばしりて
る日も暗きさままでを
わがなつかしき故郷ふるさと
人に告げなばいかならむ
夕顔白き花影はなかげ
祝の酒を汲まむとき
心雄々しき吾父は
いかに眼まなこをきらめかし
白髪しらかみ長きわが叔父をぢ
いかに耳をばそばだてゝ
わが説きいづる二とせの
いくさがたりを聞くならむ

あゝなつかしき古里ふるさと
流れかはらぬ利根川よ
遠く筑波の青山あをやま
そびゆるかたの雲間くもまより
万代よろづよおなじ白き日の
光はもれて山川やまかは
もとのまゝにも照らすかな

あゝなつかしの古里よ
国を立ちいで春秋はるあき
長き夢をば重ねつゝ
今帰りきて佇立たゝずめば
樹蔭こかげはもとのふかみどり
梅の梢に葉がくれて
鳴く鳥の音こゝちよや

さてもかなたの川岸の
深き並樹なみきのかげにして
風さそひくる音おとやなに
きけば響銅さはりの【ねうはち】の
うき世にありしかなしみを
うき世の外に伝ふるは
いかなる人の野辺おくり

六道の松明まつ紙の旗
すでに緑に隠れたり
静かに行くをながむれば
白き楊やなぎの木下こしたかげ
昼かゞやかす白張しらはり
亡き人送るともしびは
火影ほかげゆるぎて霊魂たましひ
行くへをいかに照らすらん

かうのけふりも愁うれひつゝ
天にのぼるに似たりけり
そなへの花も悲みて
地に仆たふるゝに似たりけり
無礼なめげはゆるせ影見せし
若き聖ひじりにことゝはむ
そも誰人たれびとのなきがらを
こは送りゆく群むれならん

   僧

水静かなる利根川の
流れの岸に生れてし
鍛冶のをとめと聞きしかど
その名は君よ思ひでず

げに絶えがたき恋をしも
あぢはふ人のある世かな
かれも浮きたる心より
花さきにほふあさゆふべ
岸辺の草にたづさはり
水の流にかはらじと
契れる人のありしなり

そは数ふれば夏の夜の
星より多きためしかな
行くへも遠く別れては
遂に逢瀬の絶えしより
若き命にさきいでし
心の春の花さへも
いつしかいとゞいたましき
わづらひとこそかはりけり

ふたゝび桃はさきかへり
ふたゝび菫すみれにほへども
人は空むなしく帰らねば
恋のなやみに朽ちはてゝ
世にすぐれたるたをやめの
恨みやいかに長からん

   農夫

それはまことか吾胸は
深き傷いたみを覚おぼえたり
さばれひとびと待つらんを
いざや家路にいそがらむ

   僧

われあまたゝび万性まんしやう
高き御法みのりを説きしかど
かくまで人をうごかせし
しるきためしはあらざりき
げに西風にしかぜの吹けるとき
飛び散る秋の葉のごとく
思へばかれのかほばせは
死灰しくわいの色にかはりつゝ
その口唇くちびるはうちそよぐ
あしの一葉ひとはにまがひけり

   少女

   一

  ゆきてとらへよ
     大麦の
  畠はたけにかくるゝ
     子兎こうさぎ

   二

  われらがつくる
     麦畠むぎばた
  青くさかりと
     なるものを

   三

  たわにみのりし
     穂のかげを
  みだすはたれの
     たはむれぞ

   四

  麦まきどりの
     きなくより
  丸根まるねに雨の
     かゝるまで

   五

  朝露あさつゆしげき
     星影ほしかげ
  片かたさがりなき
     鍬くはまくら

   六

  ゆふづゝ沈む
     山のはの
  こだまにひゞく
     はたけうち

   七

  われらがつくる
     麦畠むぎばた
  青くさかりと
     なるものを

   八

  ゆきてとらへよ
     大麦の
  畠にかくるゝ
     子兎を

  二 深夜

   農夫

小夜さよふけにけりたゞひとり
流れに沿ふて照る月の
影を望めば白銀しろがね
みそらの弓につがひてし
高き光の矢は落ちて
わが小休をやみなき胸を射

草木くさきも今や沈しづまりて
昼の響ひびきは絶えにけり
世のあらそひもわづらひも
深き眠りにつゝまれて
いとゞ楽しき夏の夜
短かき夢に入りにけり
風呼び起おこし雲に乗る
高光たかひかりますすめろぎも
つるぎをぬきてたちて舞ふ
たけき心のますらをも
今は静かに枕して
をさなごのごと眠るらん
昼も夜もなく行く川の
声なきかたを眺むれば
羽袖もいとゞ力なく
むなしき水に飛ぶ螢
あゝそのかげは亡き人の
にほひの魂たまか汝なれもまた
ありし昔の思ひ出に
岸辺の草に迷ふらん

あふるゝばかり湧きいづる
血潮と遠き望みとは
また絶えがたきかなしみの
そのしがらみにせかれつゝ
うたゝ苦しき煩悶たゝかひ
人にはつゝみかくすとも
あふげば深く吾胸に
さし入る月の光には
げに覆ふべき影もなし

なにを心の柱とし
なにを吾身の宿やどとせむ
忍ぶとすれど夜の月の
空行くかげを見るときは
万事よろづの映うつる心地こゝちして
涙流れてとゞまらず

時には親もはらからも
家も宝も捨てはてゝ
世のあざけりと身の恥辱はぢ
思ふいとまのあらばこそ
すがりとゞむるものあらば
蹴落けおとすまでも破やぶりいで
行くへも知らず黒雲くろくも
風に乱れて迷ふごと
またはいざよふ大舟おほふね
海に流れて落つるごと
または秋鳴く雁がねの
ひとりみそらに飛べるごと
身はよるべなくうらぶれて
道なき野辺に分けて入り
あるは身に添ふ光なく
遠き浦辺にさまよひて
知る人もなき花草はなぐさ
うもれはてんと思ふなり
時にはたえて人の世の
響かよはぬ寺に入り
あかき涙を墨染の
ころもの袖につゝみつゝ
光をまとふみ仏ほとけ
霊机つくゑの前にひざまづき
風吹く時は暁あかつき
読経どぎやうに夢を破りすて
雨ふる時は夕暮の
鐘に心を澄ましつゝ
よしや苦しき雪山せつざん
氷を胸にそゝぐとも
身にまつはれるかなしみを
のがれいでんと思ふなり

時には早く死にうせて
朽つる形骸むくろをひきはなれ
たゞ霊魂たましひの身となりて
暗き幽府よみぢに迷ひゆき
かの亡き人と亡き我と
たまと魂とは抱いだき合い
いかに他界たかいの風吹きて
われら二人を飛ばすとも
いかに不断ふだんの火はもえて
われら二人を焼くとても
二人の魂たまは常闇とこやみ
離れじ朽ちじ亡ほろびじと
契らまほしく思ふなり

げにその昔ふたりして
楽しく仰ぎ見し時も
今は心の萎しをれつゝ
涙にぬれて見る時も
同じ光にかゞやきて
落ちて声なき月の影

  (一番鶏の声きこゆ)

にわとり鳴きぬ指をりて
その声々こゑごゑを数ふれば
眠りの墓にとざされて
深く沈めるこの夜やも
はや生命いのちあるかの日にぞ
よみがへるらん

   いつまでか
かくてあるべき鳴呼われは
今は心を定めたり

わが黒髪はぬれ乱れ
わが口唇くちびるはうちふるふ
胸の傷いたみに堪へかねて
くるしきさまをたとふれば
枝に別れて落つる葉の
はげしき風に随ひて
たゞよふ身こそ悲しけれ

力烈はげしきいかづちの
ふるふがごとくわが魂たま
いたくもふるひわなゝきて
思ひなやめる吾胸の
ふるき望みは絶えにけり

あゝわづらひを盛り入れし
身は盃さかづきに似たりけり
流れて落つる河波かはなみ
なれも流れのきはみまで
行きなば行きね遠海とほうみ
落ちなば落ちねわれもまた
おもひひとしく溢れいで
この盃を傾かたぶけむ

たれか破れにし古瓶ふるがめ
みどりの酒をかへすべき
たれか波うつ磯際いそぎは
流るゝ砂をとゞむべき
さらばこれより亡き人の
家のほとりを尋ね見て
雲に浮びて古里ふるさと
のがるゝ時の名残にもせむ

  三 鍛冶の家のほとりにて

   鍛冶

     一

  宝たからはあはれ
     砕くだけゝり
  さなり愛児まなご
     うせにけり
  なにをかたみと
     ながめつゝ
  こひしき時を
     忍ぶべき

     二

  ありし昔の
     香ににほふ
  薄うすはなぞめの
     帯よけむ
  麗うるはしかりし
     黒髪の
  かざしの紅あか
     珠たまよけむ

     三

  帯はあれども
     老おいが身に
  ひきまとふべき
     すべもなし
  珠たまはあれども
     白髪しらかみ
  うちかざすべき
     すべもなし

     四

  ひとりやさしき
     面影おもかげ
  眼まなこの底に
     とゞまりて
  あしたにもまた
     ゆふべにも
  われにともなふ
     おもひあり

     五

  あゝたへがたき
     くるしみに
  おとろへはてつ
     炉前ほどまへ
  仆たふれかなしむ
     をりをりは
  面影さへぞ
     力なき

     六

  われ中槌なかつち
     うちふるひ
  ほのほの前に
     はげめばや
  胸にうつりし
     亡き人の
  語かたらふごとく
     見ゆるかな

     七

  あな面影の
     わが胸に
  活きて微笑ほゝゑ
     たのしさは
  やがてつとめを
     いそしみて
  かなしみに勝つ
     生命いのちなり

     八

  汗あせはこひしき
     涙なり
  労働つとめは活ける
     思なり
  いでやかひなの
     折るゝまで
  けふのつとめを
     いそしまむ

   農夫

歌ふをきけばいさましや
さてもその歌なつかしや
枕をうちてよもすがら
なげきあかせしものならで
たれかゝくまでなつかしき
歌の心を思ふべき

さなり大方おほかた世の常の
親のさばかりいとし子を
いたむ心に沈みなば
たゞひたすらに悲哀かなしみ
涙にぬれつこがれつゝ
心砕けつありなんを
または命をはかなみて
夢に驚く心より
哭きたふるゝ暁は
ける血汐も枯れなむを
汗はこひしき涙とや
労働つとめは活ける思とや
あゝうらわかき吾身すら
たゞかなしみに掩おほはれて
利根の岸なる古里ふるさと
かへりし日より鋤鍬すきくは
手に持つ力なきものを
流るゝ汗のしたゝりて
かの白髪しらかみはぬるゝまで
烈火ほのほのなかの紅烙あかやき
濃青こあをに見ゆる純鉄じゆんてつ
やがてかはれる紅べにの色
うてば流るゝ鉄滓たつかす
光となりて散らば散れ
こひつむせびつ中槌なかづち
力をふるふ雄々しさよ

げにいさましや亡き人の
そのたらちをのかくまでも
今の力を鞭むちうちて
昨日きのふの夢と戦たゝかへる
ける姿にくらぶれば
われかなしみの墓深く
はやも小暗をぐらき穴に入り
若き命はありながら
うもれ朽つるに似たるかな

あゝあやまちぬ年老いて
霜ふる髪は乱れつゝ
流るゝ汗にうるほふも
手には膏あぶらをしぼりきて
烈火ほのほにむかふ人のごと
われもふたゝび利根川の
岸のほとりの青草あをぐさ
しげれるかたに小田をだうちて
雄々しき心かきおこし
うれひに勝ちて戦たゝかはむ

さなり朧の春の夜の
その一時ひとときの夢を見て
たゞ花に酔ふ蝶のごと
はかなくてのみ過すごす日は
すでに昔となりにけり
今は緑の樹の蔭に
かの智慧ちゑの葉の生ひ茂り
ける汐うしほは流れきて
ゆうべの夢を洗ひつゝ
動ける虫は巣を出でゝ
草のしげみにはひめぐり
力あふるゝ姿こそ
げにこのごろの夏なれや

望みをさそふ朝風あさかぜ
樹々きゞの梢をわたりけり
あゝよしさらば白百合の
花さきにほふ川岸の
むかしの園そのに立ち帰りみん

 
夏草の後にしるす

  保福寺峠鳥居峠を越えて木曾に入りしはこの夏七月の中旬なりき。
 福島の高瀬氏はわが姉の稼ぎたるところにて、家は木曾川のほとりなる小丘に倚りて立てり。
 門を出でゝ見れば大江滔々として流る。
 われこの家にありて、峨々たる高山の壮観に接し、淙々たる谿谷の深声を耳にし、露たのしく風すゞしきあした、又は雨さびしく鳥なつかしき夕、興に乗じてつゞりなせる夏の日のうたぐさを集めたるはこのふみなり。
 八月木曾川の岸にはうるひ、露菊のたぐひさき乱れ、山には石斛、岩千鳥、鷺草など咲きいでゝ、さすが名に負ふ谷間のことなれば、異花の奇香を放つもの少なからず。
 河鹿なく声も稀になりゆきて、桑摘の鄙歌おもしろく聞ゆるころより、高瀬氏の後園には草花のながめことにうれしく、九月に入りては白壁のかげなる秋海棠の花もさき出でぬ。
 われは朝夕この花園に逍遥するの楽みありければ、枝たわわなる夏梨のかげ、葡萄棚のもと、または百合畠の間などにありて、海の如き青空に夏雲の往来するを望み、もしくは夕顔棚のほとりにありて、老いたる農夫と共にいつはり薄き風俗のさま、祭の夜の賑かさ、耕作の上のことなど語りつゝ田舎の風情を味ひき。
 旧暦七月十五夜には月ことにあかくこの谿谷にさし入りぬ。
 われは家族と共に今昔の物語を楽みたりき。
 甥なるひとはわれと年僅に三つばかりたがひたれば、殆どまことのはらからのごとく、常に起臥を同ふして、共に読み、共に語り、なにくれとこゝろづけくるゝ情のほどもうれし。
 家には昔より伝はれる古画古書または陶器漆器香具のたぐひなど少なからず、われはこれがために好古の性癖を壇にせしのみか、また蔵に納めたる図書を見るの楽しみ多かりき。
 このふみは高瀬氏と姉とのたまものともいふべきなり。
 げに、美妙なる色彩に眩惑せられて内部の生命の捉へ難きを思ふ時、人力の薄弱にして深奥なる自然を透視するの難きを思ふ時、芸術の愛慕足らざるを思ふ時、古人がわが詩を作るは自己を鞭つなりといへる言の葉の甚深なるを嘆ぜずんばあらず。
 夏草はわが自ら責むるの児にすぎざるのみ。

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