様々な時雨―猿蓑の時雨の句について―

 猿蓑巻之一「冬」冒頭に、時雨の句が、十三句並んでいる。「去来抄」に、「猿蓑は新風の始め、時雨はこの集の眉目(美目)」と言った、競作である。去来が、眉目と言う意味は、巻頭の芭蕉の句、

初しぐれ猿も小蓑をほしげ也

に、呼応した諸家が、力を尽くして、猿蓑の新風を見せたという、人に顔があるように、秀麗かどうか、猿蓑の眉目はここにある、と言うのだ。
 諸家の力量は、どの巻の俳諧に表れても良いのだが、それぞれが力を尽くした面目の程は、まず開巻に、おのずから競作となったのである。

 かつは、相い補う、共作である。芭蕉の唱導を、受けるべき個性は様々であって、眉目を整える、共同の意思が、要求された。
 十三句の集合に見られる、若干の形式美は、新風の内実を収める、容器となった。

初しぐれ猿も小簑をほしげ也       芭蕉

あれ聞けと時雨來る夜の鐘の聲      其角

時雨きや並びかねたるJぶね       千那

幾人かしぐれかけぬく勢田の橋    僧 丈艸

鑓持の猶振たつるしぐれ哉     膳所 正秀

廣澤やひとり時雨るゝ沼太良       史邦

舟人にぬかれて乘し時雨かな       尚白

 伊賀の境に入て

なつかしや奈良の隣の一時雨       曾良

時雨るゝや黒木つむ屋の窓あかり     凡兆

馬かりて竹田の里や行しぐれ    大津 乙

だまされし星の光や小夜時雨       羽紅

新田に稗殼煙るしぐれ哉      膳所 昌房

 他に、
いそがしや沖の時雨の眞帆片帆      去来

 このうちから、本稿に選んだ句の作者は、小論、猿蓑「鳶の羽も」歌仙私解に登場する人々である。
 〔芭蕉については、別に小論の中に章を立てたので、省略した。〕
 其角は、猿蓑の序・「晋其角序」の筆者として、史邦・凡兆・去来は、「鳶の羽も」歌仙の連衆として、曾良は、「おくのほそ道」の芭蕉の同行として、羽紅は、凡兆の妻・芭蕉書簡の相手として、さらに、凡兆・去来は、猿蓑の選者として、また、千那は、去来の句に対照して、諸家の作風を探ることになった。
 残る作者を、蔑ろにするのではない。労力を惜しんで、小論の本筋に早く立ち戻るための、措置である。
 本稿は、小論、猿蓑「鳶の羽も」歌仙私解の一章となる予定である。

一、「あれ聞けと時雨來る夜の鐘の聲  其角」について

 「芭蕉七部集」白石悌三・上野洋三校注・新日本古典文学大系(以下「七部集・新大系」と呼ぶ)の注釈が、最も簡潔である。
 その全文。

 夜半の寝ざめに時雨がぱらぱらとやって来た。折から聞える遠寺の鐘を「あれ聞け」とうながして、しみじみ聞き入る添い寝の二人。
 類船集「鐘―ねざめ・泊舟・三井寺」。季語は時雨。
 以下に続けて読むと「鐘の聲」は三井寺の鐘の響きを帯び、謡曲・三井寺「半夜の鐘の響は、客の船にや、通ふらん蓬窓雨したゝたりて馴れし汐路の楫枕」を想起する。

 注釈が、「あれ聞け」に、添い寝する二人の言葉の響きを聞いて、謡曲の詞章、「客の船にや通ふらん、蓬窓雨したゝりて馴れし汐路の楫枕」を、そのまま遊里の趣味世界に転用できることを示し得た。
 其角の句が、「類船集」等の常套の付合いによって仕掛けておいた、注釈の小発見である。
 「あれ聞け」の響きの出典を、小唄俗曲の類に求めても、おそらく無駄なのだろう。
 客の船に届いた、「半夜の鐘の響」が伝えるものを、さらに聞いてみよう。

 詞章は、謡曲「三井寺」に、「鐘之段」と通称されるくだりの一部分である。諸国・古今の寺の鐘尽くしである。
 引用の続きは、「浮き寝ぞ変はるこの海は、波風も静かにて、秋の夜すがら月澄む、三井寺の鐘ぞさやけき。」と、「唐詩選」の七言絶句、張継詩「楓橋夜泊」の景色を、近江八景とつき混ぜてしまう。

月落烏啼霜滿天  月落ち烏啼いて霜天に満つ
江楓漁火對愁眠  江楓 漁火 愁眠に対す
姑蘇城外寒山寺  姑蘇城外 寒山寺
夜半鐘聲到客船  夜半の鐘声 客船に到る

 鐘尽くしは、この外にも、

 暁の、妹背を惜しむきぬぎぬの、恨みを添ふる行くへにも、枕の鐘や響くらんまた待つ宵に、更け行く鐘の聲聞けば、
 飽かぬ別れの鳥は、物かはと詠ぜしも、恋路の便りの、音づれの聲と聞くものを。

 注釈の目的に適いそうな鐘の音を並べている。
 しかし、寺の鐘の音が、初夜の鐘は、諸行無常と響いて、後夜の鐘は、是生滅法と響き、晨朝の響きは、生滅滅已、入相の鐘は、寂滅為楽と響いて、百八煩悩の眠りの中にある人を驚かすものであるから、女がせっかく寝いっている男を、「あれ聞け」と揺り起こしたりするかどうか。里心をつかせるだけだろう。
 もしこれが、時鐘ではなく、男を起こしてやるべき理由がある特別な鐘の音だとすれば、「鐘の段」は、以下の、狂女であるシテの「語り」に導かれて歌われるのだが、そこに語られた詩狂、苦吟の末に句を得て、嬉しさのあまりに、高楼に登って鐘を撞いたという詩人が、寝ている其角の知人であるのを、女が知っているのである。

 今宵の月に鐘を撞くこと、狂人とてな厭ひ給ひそある詩に曰はく、「團々として海?を離れ、冉々として雲衢を出づ」、この後句なかりしかば、明月に向かって、心を澄まいて、
「此夜一輪満てり、清光何れの処にか無からん」と、この句を設けて、あまりの嬉しさに心乱れ、高楼に登って鐘を撞く、人びといかにと咎めしかば、これは詩狂と答ふ、かほどの聖人なりしだに、月には乱るる心あり、ましてや拙き狂女なれば

 「注解・謡曲全集」野上豊一郎編の脚注は、「團々として海?を離れ」という詩について、苦吟の詩人、推敲の賈島の詩だというが、テキストは、この詩及び逸話の正確な典拠は不明、とすべきだという。
 つまり、其角らも、鐘を撞いて自ら詩狂と名乗ったという詩人の逸話を、この、謡曲「三井寺」の語りだけから聞き知っている。
 今夜、添い寝の枕頭に届く鐘の音は、遥か三井寺の方角からとおぼしく、俳狂が秀句を得て嬉しくて撞き鳴らす鐘の音か。

 それでも、女が、鐘の音を聞かせるのに男を起こすだろうか、となお疑わなくてはならない。
 謡曲の末尾近くにも、女物狂いが子供にめぐり逢えた嬉しさを語って、

 常の契りには、別れの鐘と厭ひしに、親子のための契りには、鐘ゆゑに逢ふ夜なり、嬉しき鐘の聲かな。

とある。其角の色里の経験の深さを、測り損ねてはいけない。
 読者の遊びの初心ぶりを表明することになっては、作者の嘲笑を受けるばかりであろう。

 「あれ聞け」という甲高い声は、女の声ではない。鐘の音に交じって、微かに聞こえたものだ。
 草臥れている女は、隣でぐっすり寝ていて、何をしても起きる気配がないというところか。
 若しくは、作者をいい気にさせることになろうが、後拾遺和歌集雑六誹諧歌一二一三 和泉式部

さなくてもねられぬ物をいとゞしく つき驚かす鐘の音かな

と、女は、其角の精が強いのに辟易していたから、この鐘を合図にもう寝かせて欲しいところだ。

 「あれ聞け」という声の調子を、読者はどこかで聞いている筈だ。家庭でも聞くが、平安の古典の中だ。
 枕草子(春曙抄)百三十七段「人ばへする物」の中の、珍しく父親がそばに居るので図に乗っている、子供の声に。

 人ばへする物異なる事なき人の子の、かなしくしならはされたる。
 しはぶき。
 はづかしき人に物言はんとするにも、まづ先に立つ。
 あなたこなたに住む人の子どもの、四つ五つなるはあやにくだちて、物など取散らして損ふを、常は引きはられなど制せられて、心のまゝにもえならぬが、親の來たる所えて、ゆかしがりける物を、「あれ見せよや、母」など引き揺がすに、大人など物言ふとて、ふとも聞き入れねば、手づから引き探してい出でて見るこそいと憎けれ。
 それを「まさな」とばかり打ち言ひて、取りかく隠さで、「さなせそ。そこなふな」とばかり笑みて言ふ親も憎し。
 我えはしたなくも言はで見るこそ心もとなけれ。

 「あれ聞け」と、江戸にまで響かせるのは、小蓑の句など、外ならぬ猿蓑の秀句の数々を聞けというのである。
 「常は引きはられなど制せられて、心のまゝにもえならぬが、親の來たる所えて」、普段は何ということもない俳諧師たちが、芭蕉が来て居るというので、図に乗っているのである。鐘を撞いているのは、どうやら芭蕉なのらしい。これは其角も、寝ては居られない。
 念のために、「三井寺」の梗概を、「日本古典文学大辞典」から写しておこう。

 わが子を尋ねて駿河国から都に上った母(シテ)は清水寺に参籠して霊夢を受け、門前の男(アイ)の夢合せで三井寺へ急ぐ(前場)。
 頃しも中秋明月、三井寺では少年(子方)が寺僧たち(ワキ・ワキツレ)と共に月見をしている。
 月に誘われ、母は狂乱の姿で登場、琵琶湖上に響く鐘の音にひかれ、鐘を撞こうとするが咎められると、鐘の故事を数々語る。
 少年が名乗り出て親子は再会する(後場)。

 「時雨」の語は、湖畔の情景を歌って、「筑波集」の二條良基の発句を引きながら、この謡曲に一ケ所出てくる。
 しかし、風の音が時雨の音に似ていると言うばかりだ。月はあくまでも澄んで、雨が来る気配は、一曲のどこにもない。
 鳰は「似」の掛言葉。

 月は山、風ぞ時雨に鳰の海、風ぞ時雨に鳰の海、波も粟津の森見えて、海越しの、幽かに向かふ影なれど、月は真澄みの鏡山。

 それでは、季語が、明月ではなく時雨、であるのは何故か。
 と尋ねるより、時雨の句を求められて、何故、謡曲「三井寺」と、枕草子「人ばへする物」に、取材したのか。
 親子の情愛を主題にした二編を出して、時雨れて来て、日も暮れようとするのに、なかなか帰って来ない親を待って詠んだ、子供の歌があるのを、思い出せという、「なぞ」である。
 京と湖南の人々が芭蕉の、仮の子供であるとしても、江戸の其角こそが、芭蕉の本当の子供なのである。
 後撰和歌集冬四六二

親のほかにまかりておそく歸りければいひつかはしける 人の女の八つになりける

神無月時雨ふるにも暮るゝ日を きみ待つほどはながしとぞ思ふ

 「時雨・来る」という使い方は少ないが、証歌は、「拾玉集(慈円)」「基俊集」などにある。必ずしも散文の用法と限らない。
 親は来ず、時雨の句の便りと、時雨の雨ばかりが来るのである。次の、「拾玉集」の歌が、其角がこっそりと隠している本歌だろう。

人はこず月をだにもと待つ空は なほ時雨るるぞかぎりなりける

 人は来ず、それでは月の出を待って、同じ月をそれぞれに見ようとしたが、時雨は、ひとりひとりに降って来る、それぞれの時雨なのである。

二、「廣澤やひとり時雨るゝ沼太良  史邦」について

 これも、「七部集・新大系」の注釈を写す。

○広沢 歌枕。洛西嵯峨、遍照寺山の南麓の池。参考、類船集「広沢―月見・春雨」。
○沼太良 ヒシクイの一種。俚言集覧「近江・美濃のあたり雁の大いなるを沼太郎と云ふといへり」
▽その名も広沢の池の面に、群れをはずれたのか沼太郎が一羽、しょんぼりとして時雨にぬれている。沼太郎の擬人名に合わせて「ひとり」といった。季語は時雨。

 月の名所、広沢池を、「都名所図会」竹村俊則校注が、衒学的な文章で紹介している。
 元禄の頃にも、名月に清遊する人々が盛んなことを、これによって推察しよう。

 廣澤池は大沢(池)の巽なり。寛朝僧正この池をつくり給ふとなん。

 「風雅」

  春の歌の中に 前大納言爲家

廣澤の池の堤の柳かげ みどりもふかく春雨ぞ降る

 「後拾」

  侍從の尼、廣澤にこもるときゝてつかはしける 藤原範永朝臣

山のはにかくれな果テそ秋の月 このよをだにも闇にまどはじ

 「新千」

  遍照寺にて月を見てよめる 從三位頼政

いにしへの人は汀に影たえて 月のみ澄める廣澤の池

 中秋の月見んと都下の貴賤池の汀に臨んで夜もすがら盃をめぐらし、千里を共にしてくまなき空のけしきに、月も宿かす廣澤の池と詠みしも、今さらに千々に物悲しく、風は繊雲を掃って淨く、露は月明に降りて寒し。
 謝荘は月賦を作り、L亮は南樓に登る。和漢中秋の月を賞すること古今に變らず。

 山家集にも広沢池の歌を詠む。

  同心(池上月)を遍照寺にて人々よみけるに

宿しもつ月のひかりのをかしさは いかにいへどもひろさはのいけ

  廣澤にて人々月を翫ぶこと侍りしに(「西行法師家集」の詞書き)

いけにすむ月にかかれるうきぐもは はらひのこせるみさびなりけり

 広沢池にすむものは月、頼政の歌によれば、「月のみ澄める廣澤の池」、月だけが、池にすむ。
 しかし、鴛鴦、にほどりなど水鳥の類いも、池に住むものだった。

池にすむ名ををし鳥の水をあさみ 隠るとすれどあらはれにけり

 そして、古今和歌集恋歌三六六二 みつね

冬の池にすむにほどりのつれもなく そこにかよふと人にしらすな

 沼太郎・菱食も、冬の池に住む水鳥の類いであると、句は言う。これがひとり、「つれもなく」、時雨に逢う。
 それと、辞書によって、「沼太郎」を検索すれば、「鼈すっぽんの異称。菱食ひしくい(ガンの一種)の異称。」と出ている。
 鼈もまた、池の住人である。月を、「二つなきもの」、「似たる物なき」とも詠む。
 古今和歌集雑歌上八八一

  池に月の見えけるをよめる きのつらゆき

ふたつなきものと思ひしをみなそこに 山のはならでいづる月影

 そして、拾遺和歌集戀三七九一 貫之

照る月も影みなそこにうつりけり 似たる物なき戀もするかな

 スッポンを、水底に写る月影に見立てるべくもないが、月と鼈は二つとも丸いということだけながら、水にスム、(住むと澄む)ので、「月とすっぽん」の間柄なのである。
 鼈を、鴛鴦と比較すると、名を惜しまず、つがいにはならず、底に隠れて、顕れることがない。
 「月とすっぽん」の俚諺に似せて、「鴛鴦と鼈」も、同じ池に住みながら、色気のあるのと無いの、の譬えにできるだろうか。
 沼太郎が、すなわち水面を遊泳する菱食とばかり見るのは、時雨の雨足の所為で水底が見えないのだ。
 もし、広沢池に照る月の明察があれば、この句の浅い底にうごめく、黒くて丸い鼈が、見透しとなるだろう。

 鼈を、歌に捜すことはできないが、詩にならばある。これの味噌漬が、とても美味な酒の肴である。
 詩によって、これを自称するのは、作者が名都の俳諧の蕩児たちのために、酒の肴になったと言うのである。
 「文選」巻二十七楽府上・曹子建(曹植)楽府四首の内、「名都篇」、洛陽の貴公子たちの優雅な生活を描いた楽府詩。
 「中国名詩選」松枝茂夫編より。

名都多妖女  名都 妖女多く、
京洛出少年  京洛 少年を出す。

寶劍直千金  宝剣は直 千金、
被服麗且鮮  被服は麗く且つ鮮かなり。

鬪鷄東郊道  鶏を闘わす 東郊の道、
走馬長楸間  馬を走らす 長楸の間。

馳騁未及半  馳騁 未だよく半ばせざるに、
雙兔過我前  双兎 我が前を過ぐ。

攬弓捷鳴鏑  弓を攬り鳴鏑を捷え、
長驅上南山  長駆 南山に上る。

左挽因右發  左に挽き因って右に発し、
一縦兩禽連  一たび縱って 両禽を連ぬ。

餘巧未及展  余巧 未だ展ぶるに及ばず、
仰手接飛鳶  手を仰げて飛鳶を接る。

観者咸稱善  観る者 咸な善しと称い、
衆工歸我妍  衆工 我に妍を帰す。

歸來宴平樂  帰来して平楽に宴す、
美酒斗十千  美酒は斗 十千なり。

膾鯉M胎鰕  鯉を膾にし、胎鰕をMにし、
寒鼈炙熊?  鼈を寒にし、熊?を炙る。

鳴儔嘯匹侶  儔に鳴き 匹侶と嘯き、
列坐竟長莚  坐に列して長莚を竟む。

連翩撃鞠壌  連翩 鞠と壌を撃ち、
巧捷惟萬端  巧捷 惟れ万端なり。

白日西南馳  白日 西南に馳せ、
光景不可攀  光景 攀む可からず。

雲散還城邑  雲散して城邑に還り、
清晨復來還  清晨 復た来り還らん。

 全て、この詩のように、京洛の俳諧の日々が過ぎて行くのでないことは、言うまでもないが、せめて、こんなに楽しい詩を捜してみせた。
 それに、「鳶の羽も」歌仙で、芭蕉が甘やかした鳶を、「余巧 未だ展ぶるに及ばず、手を仰げて飛鳶を接る。観る者 咸な善しと称い、衆工 我に妍を帰す。」と、この詩が退治しているのは、半ば、史邦の功績である。

 「ひとり時雨るゝ」には、本歌がある。以下の詞書きは、外して使う。
 新古今和歌集哀傷歌七六四

 年頃住み侍りける女の、身まかりにける四十九日はてて、猶山里に籠り居てよ侍りける
  左京大夫顯輔

誰もみな花のみやこに散りはてて ひとりしぐるる秋の山里

 「広沢や」、月の宴はてて、人々は雲散した。
 時雨さえ降る池の辺りに、食いついたら離れない、スッポンのような自分一人は、猿蓑の、尽きてしまった興趣を懐かしんで、涙に暮れるのである。
 楽府詩「名都篇」の享楽の日々も、絵空事に違いないが、どうにでも料理されようという、史邦一人を食わずに残したままでは、俳名高い連衆も、広沢池のように、名のみであろうか。

三、「伊賀の境に入りて なつかしや奈良の隣の一時雨  曾良」について

 これも始めに、「七部集・新大系」の注釈を写す。

○伊賀の境に入りて 奈良街道の加太越かぶとごえ。曾良は元禄二年(一六八九)十月六日伊勢長島を立ち、七日伊賀上野に芭蕉を訪ねた。その日記に六日「時雨ス、頓テ止ム、風烈シ。」、七日「風烈シ」。
○一時雨 曾良書留「時雨哉」。
▽奈良街道の国境の峠を越えて師の故郷に入る。ここはもう山ひとつ隔てて古都奈良と隣合わせの隠れ里。そう思うとはじめての土地ながらなつかしい。折しもその山の方から時雨の雲がやって来て、盆地に一降りして過ぎた。「な」の韻を踏む。季語は時雨。

 曾良「俳諧書留」には、異なる句形で、

なつかしや奈良の隣の時雨哉

として出ている。
 「同」と(直前の句には「前書」とだけ)傍書してあり、前書の省略を示したのか、もしくは、後に付加すべきことを覚書きしたものか。
 「芭蕉翁全伝」には、

 (芭蕉は)李下を伴て伊賀に帰り霜月迄逗留。李下は一宿、路通は暫くあり。
 曾良も來り、東に別日、ならの隣のしぐれかなといふ句あり。

とあり、注釈は、師の故郷に入る日の感慨としているが、「東に別日」曾良が東都に旅立つ日の作と伝えるのと、なぜか異なる。
 作句の日付について、前書について、「時雨哉」と猿蓑の「一時雨」の、句形の相違(芭蕉が改作したとする注釈がある)について、改作の時期について等々、解らないことが多い。

 「奈良の隣」は、前書によって、伊賀のことである。
 古今和歌集春歌下九〇

  ならのみかどの御歌

ふるさととなりにしならのみやこにも 色はかはらず花はさきけり

と、詠んで以来、奈良の旧都は、「ふるさと」と呼ばれる。
 そして、地理的には、「奈良の隣」である京も、吉野の山も、「ふるさと」と呼ばれることがある。
 すなわち、奈良ばかりか、奈良の隣も、歌では、「ふるさと」なのだ。
 句は、「奈良」、または「ふるさと」の用法について、およその分析を要求しているので、以下に、「歌枕歌ことば辞典」片桐洋一などによって、簡単に見て置く。

 詞書きに、「奈良の京」とあるので、しらゆきが(降り)つもる・「ふる里」が奈良だと知られる歌がある。
 古今和歌集冬歌三二五

  ならの京にまかれりける時に、やどれりける所にてよめる 坂上これのり

みよしのの山のしらゆきつもるらし ふる里さむくなりまさるなり

 もしくは、「み雪・行幸」とともに詠まれて、古今和歌集冬三二一 よみ人しらず

ふるさとはよしのの山しちかければ ひとひもみ雪ふらぬ日はなし

 み雪が降る・「ふるさと」は、奈良のことだ。
 さらに、有名なこの二首が、冬の到来を、吉野の山に降る雪によって述べたために、そして、初時雨(他本は「うちしぐれ」)が降る・「ふるさと」としてよんだ長歌、古今和歌集雑躰一〇〇五

  冬のながうた 凡河内躬恆

ちはやぶる  神無月とや    けさよりは  くもりもあへず
初時雨    紅葉とともに   ふるさとの  吉野の山の
山あらしも  さむく日ごとに  なりゆけば  玉の緒とけて
こきちらし  霰みだれて    霜こほり   いやかたまける
庭のおもに  むらむら見ゆる  冬草の    うへに降りしく
白雪の    つもりつもりて  あらたまの  年をあまたも
すぐしつるかな

によって、「ふるさと」という語と「吉野」という語の結合度が高くなってしまって、何が降るともせずに、「(み)吉野(の山)」を、「ふるさと」として詠む歌もある。是則の歌を本歌にした歌。
 新古今和歌集秋歌下四八二で百人一首歌。

  擣衣のこころを 藤原雅經

みよし野の山の秋風さ夜ふけて ふるさと寒くころもうつなり

 そして、京もまた、旅人の「ふるさと」であった。
 古今和歌集雑下九九一

  つくしに侍りける時に、まかりかよひつつごうちける人のもとに、京にかへりまうできてつかはしける きのとものり

ふるさとは見しごともあらずをののえの くちし所ぞ恋しかりける

 京に帰りついた友則が、その京を指して、「ふるさと」というのは、心が友のいる筑紫に残っていて、そこから京を見て言うのだ。
 前書は、伊賀が、「奈良の隣」だというのだったが、これをそのまま、「ふるさと」と置換できることを指摘して、有用なのだった。

 句は、「なつかしや」と、敢えて強く言う。
 枕草子(春曙抄)二百七十五段「よろしき男を」が、褒め言葉としての「なつかし」の用法について、警戒すべきことがあると言うのを知りながら。

 よろしき男を下衆女などのほめて、「いみじうなつかしうこそおはすれ」などいへば、やがて思ひおとされぬべし。
 そしらるゝはなかくよし。
 下衆にほめらるゝは、女だに悪し。
 又ほむるまゝにいひ損ひつる物をば。

 ぶち壊しなことを言うつもりはないのである。
 仮名で書かずに、「懐かしや」と書いても、論語憲問第十四の三を見れば、ここでも、士たるものが迂闊に、故郷が懐かしいと口にすることができないのが知られる。

子曰、士而懐居、不足以為士矣、
子の曰わく、士にして居を懐うは、以て士と為すに足らず。

 さらに、句の「なつかしや」の高調子を、論語里仁第四の一一に当て嵌めて、曾良が、君子なのか小人なのかを、懐かしみ方で測る事ができる。

子曰、君子懐徳、小人懐土、君子懐刑、小人懐恵、
子の曰わく、君子は徳を懐い、小人は土を懐う。君子は刑を懐い、小人は恵を懐う。

 しかし、曾良は、こういう差別に関心が無かった。
 論語公治長第五の二六を見よう。

顏渊季路侍、子曰、盍各言爾志、子路曰、願車馬衣軽裘、與朋友共、敝之而無憾、顏渊曰、願無伐善、無施勞、
子路曰、願聞子之志、子曰、老者安之、朋友信之、少者懐之、

顔淵・季路侍す。
子の曰わく、盍ぞ各々爾の志しを言わざる。
子路  が曰わく、願わくば車馬衣裘、朋友と共にし、これを敝るとも憾み 無けん。
顔淵の曰わく、願わくは善に伐ること無く、労を施すこと無けん。
子路が曰わく、願わくは子の志しを聞かん。
子の曰わく、老者はこれを安んじ、朋友はこれを信じ、少者はこれを懐けん。

 「少者懐之」の、様々な口語訳がある。
 「わかものからはしたいよられる」、または、「子供にはなつかれたい」と。
 「懐」を、「なつかしむ」とする訓を生かせば、句の、「なつかしや」の調子は、「少者」が、「子之志」に応える声の響きだとして良い。
 曾良が、士人と言うに足りなくても、君子でなくても、はては、清少納言が貶す下衆女のように人目に写るのさえ、痛痒を覚えない。
 それよりどうかして、「子之志」に適う「少者」でいたい。
 師は、「なつかしや」という初五の調子に、つまりはこの句に、曾良の赤心の情を汲み取るだろうか。
 句は、大和物語三十二段

  亭子の帝に、右京の大夫(源宗于)のよみてたてまつりたりける、

あはれてふ人もあるべくむさし野の 草とだにこそ生ふべかりけれ

 また、

しぐれのみふる山里の木のしたは お(を)る人からやもりすぎぬらむ

 とありければ、かへりみたまはぬ心ばへなりけり。
 「みかど御らむじて「なにごとぞ。心えぬ」とて僧都の君になむみせたまひけるときゝしかば、かひなくなんありし」とかたり給(ひ)ける。

の、宗于の、「天皇の御眷顧が得られぬ嘆きの心持ち」を詠んだ歌に準えて作った、曾良の、「心ばへ」なのである。
 師は、亭子の帝のように、「なにごとぞ。心えぬ」と言うのであろうが、それは、句の出来ばえについて言うのみで、弟子の、「心ばへ」については、既に、武蔵野の露草よ、すみれ草よと、「あはれとぞ見」ながら、「おくのほそ道」の数か月を過ごして、熟知している筈なのである。
 「君子懐徳」という。
 そう言えば、論語里仁第四の二五に、

子曰徳不孤、必有隣、
子の曰わく、徳は孤ならず、必らず隣あり。

という。「徳不孤、必有隣、」。師を、徳の体現者とすれば、必ずや隣する者があるのだった。一人では寂しくていられない性分なのだ。

 奈良の隣について、後撰和歌集哀傷歌一四〇四を見よう。

  大和に侍りける母、身まかりて後、かの国へまかるとて 伊勢

ひとりゆく事こそうけれ故郷の ならのならびてみし人もなみ

 この歌の、伊勢集の歌形は、やや違う。

 大和に親ありて通ひける人後に親なくなりければ昔戀しくて(または―山とにむかしおやありける人のおやなくなりて、はつせにまゐるとて)

独り行く事こそうけれ故郷の 昔習ひてみる(し)人もなみ

 師が、故郷に、「ひとりゆく事こそ憂けれ」という思いであることは、かねがね知っていた。
 後撰和歌集の歌の、「奈良の並びて」は、「奈良の習ひて」と読めないこともない。
 「故郷のならのならひてみし人」ではないが、故郷の奈良の並び、つまり奈良の隣である伊賀には、俳諧を試しに習ってみたといえる人もいないので、「ひとりゆく事こそ憂けれ」。
 こうして句は、「ならひて」を「隣」に直したので、その痕跡を初五に留めて、「なつかしや奈良の」と、頭韻を踏むのである。
 「や」と「哉」と、二つの切字は、切迫した臨場感を保つという理由で、咎められない。

 時雨の降る間のように暫くでもと、寂しがりやの師の隣にいるべく訪れた伊賀は、「しぐれのみふる山里」であった。
 時雨を、「降るさと・ふる里」に結ぶ歌は、古今和歌集の躬恆の長歌の外にも、木の葉の色を染めて、後撰和歌集冬四五九と四六〇の贈答

  住まぬ家にまうで來て、紅葉に書きてつかはしける 枇杷左大臣

人住まず荒れたる宿を來てみれば いまぞこのはは錦織りける

  返し 伊勢

涙さへ時雨にそへてふるさとに 紅葉の色も濃さまさりけり

があるのを、先に見ている。時雨は、伊賀の人々の、俳諧の言葉の色を染めながら降る。
 俳諧の稽古でこぼす、人々の涙の雨が混じっているのか。若しくは、山家集が好んで使う、「心の色」について見るなら、

なつかしき君が心の色をいかで 露もちらさで袖につつまむ

がある。
 または、既に見た、初時雨の歌をここでも見よう。

初時雨あはれ知らせてすぎぬなり をとに心のいろをそめつつ

 曾良句の時雨は、具体的に言えば、芭蕉句の「初しぐれ」を指している。

初しぐれ猿も小蓑をほしげ也

 詳しくは、小蓑の句によって所々に述べた。
 曾良句は、伊賀に数日いて、離れるにあたって作った句だった。

なつかしや奈良の隣の時雨哉

 「時雨哉」を、「一時雨」と直して、猿蓑のために送った。
 初めの句は、文字の上に見るよりも色濃く、離別歌、もしくは哀傷歌の響きを残しているようだ。
 「なつかしや」と、率直な感慨が生々しく、二つの切字に、穏やかさが欠けている。
 一年の日々が過ぎたのに相応しく、句に盛る人事と景色を、一年の日々の向こうに所を得させるために、直したのである。

 大和物語の、宇多天皇に奉った宗于の歌にもいう、武蔵野の草について、古今六帖六の赤人の歌(続古今和歌集春歌下一六〇 山邊赤人)を見よう。

春の野に菫つみにとこし我ぞ 野を懐しみ一夜寢にける

 「椎本の巻」の匂宮が、「野をむつまじみ」と言いかえた引歌である。
 芭蕉の場合、江戸には、「野を懐しみ一夜寢にける」とばかりに、腰を落ち着けず、事実はともかく、「一夜」ばかり寝にけると言ってやりたい。それに並べて、曾良が遭遇した、伊賀の時雨を、あの「一時雨」と呼びたい。

四、「時雨るゝや黒木つむ屋の窓あかり  凡兆」について

 「七部集・新大系」の注釈。

○黒木 生木を切り竃で黒くふすべた薪。洛北八瀬・大原地方の産。
▽山家の内は冷え冷えとして薄暗く、軒下に積んだ黒木に時雨の降りかかるのを明り窓から眺めている。季語は時雨。

 黒木は、八瀬・大原・鞍馬地方の女たちが、頭に載せて京市中を売り歩いた。
 「ただし天明(元年が一七八一)頃には既に黒木とは名のみで普通の粗朶であったらしい」と、「近世上方語辞典」前田勇編にはいう。
 薪であるが、まだこのころは、「炭などのやうの物」である。この黒木を積む屋、建物の所在について。
 黒木といえば、京市中に売るための産品で、「黒木売りくる女」の姿が、「西鶴織留」にも出ているほどだから、特に句が、産地のこれを積み出す景色を言うのでなければ、「黒木つむ屋」は、呼び入れてこれを買う、市中の冬支度の家屋であるとしたい。
 槙の屋、賎の屋の類いだろう。
 新勅撰和歌集雑歌一一一一五(一一一三)が、「たき木つみける」と使っている。

  なげくこと侍りて、こもりゐて侍けるゆきのあした、皇太后大夫俊成許につかはしける
   左近中将公衡

ふゆごもりあとかきたえていとゞしく ゆきのうちにぞたき木つみける

 「なげくこと」が、司召の除目についての公憤または私憤なのである。
 「長秋詠藻(藤原俊成)」に、この贈答が載っている。

  文治五年十一月七日雪いとたかくふりたりしつとめて菩提院権中将公衡消息あり

冬籠り跡かき絶ていとゞしく の内にぞ薪つみける

  返し

冬ごもり薪つむ共山里は 雪よりやがて花ぞ咲くべき

 かく聞えたりし後師走のつごもり追難の次でに三位せられしかば三日すごしてこれより

雪のうちにこえしも著く梅枝に 早晩花の開けぬる哉

  三位中将

今ぞ知る雪より花は咲くと云し 其言の葉に験有とは

 「薪つむ」とは、故事にいう、「薪を積むが如く後に来る者上に在り」である。
 「故事ことわざ辞典」を写せば次のようだ。

 先の者は下積みにされ、新参者がそれを越えて重用される。
 清廉直諌の士汲黯が九卿の当時に小吏であった公孫弘・張湯らが意外の出世をして同列あるいはより以上に用いられるのを見て、武帝に皮肉を言った時のことば。
 【出典】黯褊心、不能無少望。見上前言曰、陛下用群臣如積薪耳。後来者居上。上黙然有間黯罷。〔史記汲黯伝〕・〔淮南子他にもいう〕

 俊成の返歌を俟つまでもなく、公衡の歌の初句、「冬籠り」が、古今和歌集仮名序の「そへ歌」

難波津に咲くやこの花冬こもり 今は春べと咲くやこの花

 の、今は春べと咲く花となるのを期待する言葉なのだが、逸速く雪の中に、臨時の除目で念願の三位を得た。
 凡兆の、「黒木つむ屋」の主にも何事か、「なげくこと」があり、俊成の、「雪よりやがて花ぞ咲くべき」という優しい言葉の効驗を、凡兆も欲しがっているのか、と読ませる。

 「窓あかり」について、「閑中燈」なる題詠を見よう。
 「窓のともし火」は、夜更けても一向に消えない、窓のあかりを想像して詠んだ。
 窓は、歌の世界では、詩に作る、唐土の部屋の構造を借りなければならない。
 新勅撰和歌集雑歌二一一八三

  家五十首歌、閑中燈 入道二品親王道助

これのみとゝもなふかげもさ夜ふけて ひかりぞうすきまどのともし火

 同じ時、同じ題詠の、玉葉和歌集雑歌二二一五九と二一六〇は、それぞれ「拾遺愚草(定家)」と「壬二集(家隆)」にある。

  道助法親王の家の五十首の歌に、閑中燈を 前中納言定家

つくづくと明けゆく窓の燈火の ありやとばかりとふ人もなし

  從二位家隆

消えやらで残る影こそあはれなれ 我が世ふけゆく窓のともし火

 雑の歌に採用して詠むべき、「窓のともしび」つまり「窓燈」は、和漢朗詠集下暁四一九に見える。

  五聲の宮漏の初めて明けて後 一點の窓の燈の滅えなむとする時 白
  五聲宮漏初明後 一點窓燈欲滅時   白

 すなわち、白楽天詩「禁中夜作書、與元九 禁中にて夜書を作き、元九に与う」の転、結である。

心緒萬端書兩紙  心緒万端 両紙に書き
欲封重讀意遲遲  封ぜんと欲して 重ねて読み 意遅遅たり
五聲宮漏初鳴後  五声の宮漏 初めて鳴る後
一點窓燈欲滅時  一点の窓灯 滅えんと欲する時

 「窓燈」とは書かないけれど、同じく、和漢朗詠集上秋夜二三三の、窓と灯の方が、人口に膾炙するものだろう。
 これも宮中の、しかし、長安から遥かな洛陽の離宮の、誰も知らぬ奥深いところの窓の中の物語だ。
 家隆の、「消えやらで残る影」には、こちらの灯の反映が明らかである。

秋の夜長し 夜長くして眠ることなければ天も明けず
耿々たる残んの燈の壁に背けたる影
蕭々たる暗き雨の窓を打つ聲   上陽人 白

秋夜長 夜長無眠天不明
耿々残燈背壁影
蕭々暗雨窓打聲   上陽人 白

 これは、白楽天新楽府「上陽白髮人 愍怨曠也  上陽の白髪人 怨曠を愍れむなり」。
○其の七。宮中の上陽宮にとじこめられた宮女の、配偶者を得られない悲しみをあわれんだ詩、の一節。凡兆の句の、「黒木つむ屋」に灯る、窓のあかりが、上陽人を照らす灯を借りずに済むのだろうか。元禄の市中の家屋も、明かり障子を窓と称するには手続きが要る。窓という文字がある歌の全てが借りている灯の輝きを、凡兆の句に限って排除する手段はない。

上陽人        上陽の人
紅顏暗老白髮新     紅顔暗に老い 白髪新たなり
緑衣監使守宮門     緑衣の監使 宮門を守る
一閉上陽多少春     一たび上陽に閉ざされてより多少の春
玄宗末歳初選入     玄宗の末歳 初めて選ばれて入る
入時十六今六十     入りし時は十六 今は六十
同時采擇百餘人     同時に采択せらるるもの百余人
零落年深殘此身     零落 年深うして此の身を残す
憶昔呑悲別親族     憶う昔 悲しみを呑みて親族に別れしとき
扶入車中不教哭     扶けられて車中に入り哭かしめず
皆云入内便承恩     皆な云う 内に入れば便わち恩を承けんと
臉似芙蓉胸似玉     臉は芙蓉に似 胸は玉に似たり
未容君王得見面     未まだ君王の面を見るを得るを容さざるうちに
已被楊妃遥側目     已に楊妃に遥かに目を側めらる
妬令潛配上陽宮     妬みて潜かに上陽宮に配せしめ
一生遂向空房宿     一生 遂に空房に向かって宿す
秋夜長           秋夜長し
夜長無寐天不明     夜長くして寐ぬる無く天明けず
耿耿殘灯背壁影     耿耿たる残灯 壁に背く影
蕭蕭暗雨打窓聲     蕭蕭たる暗雨 窓を打つ声
春日遲           日遅し
日遲獨坐天難暮     日遅くして独坐すれば 天 暮れ難し
宮鶯百囀愁厭聞     宮鴬百囀するも 愁いては聞くを厭い
梁燕雙栖老休妬     梁燕双栖するも 老いては妬むを休む
鶯歸燕去長悄然     鴬帰り燕去りて 長えに悄然
春往秋來不記年     春往き秋来りて年を記せず
唯向深宮望明月     唯だ深宮に向かって明月を望む
東西四五百迴圓     東西 四五百迴円かなり
今日宮中年最老     今日 宮中 年 最も老い
大家遥賜尚書號     大家 遥かに賜う尚書の号
小頭?履窄衣裳      小頭の?履 窄衣裳
青黛畫眉眉細長     青黛眉を画きて 眉は細長
外人不見見應笑     外人は見ず 見なば応に笑うべし
天寶末年時世粧     天宝末年の時世粧
上陽人  苦最多     上陽の人 苦しみ最も多し
少亦苦  老亦苦     少きにも亦た苦しみ 老いても亦た苦しむ
少苦老苦兩如何     少苦老苦 両つながら如何せん
君不見昔時呂向美人賦 君見ずや 昔時 呂向の美人の賦
又不見今日上陽白髮歌 又た見ずや 今日 上陽白髪の歌

 楊貴妃に対しては新人であった上陽人だが、「長恨歌」の美人は既になく、その後、白髪となって尚書の称号を戴くまでになる年月には、あまたの新人が、彼女を踏みつけて過ぎていった。
 それを、「薪を積むが如く後に来る者上に在り」とすれば、彼女の上に積まれた薪は、ことごとく燃え尽きては、新たに積まれたのだ。
 句の、薪である黒木の色は、薪が、旧人である彼女の上に積まれるたびに、白髪の白を増やし際立たせた。
 しかし、残った方が勝ち、でもあろう。

 「黒木つむ屋」とは、「まき(薪)の屋」のことかと、古い俳諧の流行・時世粧に思いあたる。
 とすれば、「時雨るゝや」という俳諧的詠嘆は、「蕭蕭たる暗き雨の窓を打つ聲」を聞きつつ、残灯に照らされる人の化粧である。
 芭蕉の、ごく初期の句(寛文六年(一六六六)二十三歳、「續山の井」に、いが上野松尾氏宗房として所収)に、

時雨をやもどかしがりて松の雪

がある。凡兆は、この句を見付けたのではないか。時雨が打ち続いた日ごろのある日、雪になった。
 それを待っていたような、雪化粧した松。
 「時雨」と、「松の雪」を並べたのは、次の二首が、それぞれに準えて、「世に経る」苦しい時間を別々に、詠嘆してみせたのによる。
 新古今和歌集冬歌五九〇

  千五百番歌合に、冬歌 二條院讃岐

世にふるは苦しきものをまきの屋に やすくも過ぐる初時雨かな

と、「伊勢大輔集」の歌

きえやすき露の命にくらぶれば げに滞る松の雪かな

である。一首は、この世を易々と通過するものを羨み、一首は、暫くは停滞するものを羨む。
 「もどかしがりて」は、(こうなればいいのにと)じれったがっての意だが、この宗房句が、異なる句形で、「詞林金玉集」に、

時雨をばもどきて雪や松の色

として出ているのを併せて読めば、「もどき」たがって・似て非だという様子を示したがって、相手を非難したがって、という意を、追加すべきだろう。同じく降る(経る)ものながら、松の雪の方がめでたい。
 世に滞ろうとも、やすく(安く)過ぎるよりはましだという意見の人もいる。

 凡兆が雪を捨てて選んだ(与えられた)、時雨の題は、若い日の芭蕉が、「もどかしが」った時雨である。
 こんどは、猿蓑の凡兆の句と、それに並ぶ時雨を、どのように、「もどかしが」るのだろうか。

 伊勢大輔の歌をもう少し見てみよう。
 「伊勢大輔集」の、「きえやすき」の歌が並ぶ部分を写す。

  紫式部きよみづに籠りたりしに参りあひて院の御れうにもろともに御あかし奉りしをみて樒の葉にかきておこせたりし

心ざし君にかゝぐる燈火の おなじ光にあふが嬉しさ

 かへし

古の契りも嬉し君がため おなじ光にかげをならべて

 松に雪のこほりたりしにつけておなじ人

奥山の松には氷る雪よりも 我身よにふる程ぞ儚き

 返し

きえやすき露の命にくらぶれば げに滞る松の雪かな

 紫式部集には、「心ざし」の歌以外は省かれているから、こちらの集で補って読まなければならない。
 また、「心ざし」と「古の」の贈答は、新千載和歌集釈教歌九三三と九三四、「奥山の」の歌は、続後撰和歌集冬歌五〇五、詞書きは「松の枝に、雪の凍れるを折りて、人のもとに遣はすとて」、二句「松葉に氷る」、五句「ほどぞ悲しき」である。
 何かの木の枝につけて歌を贈ると、「なぞ」を訊く歌になる場合があるのを既に見た。
 伊勢大輔は、「凍る」が「滞る」の中に含まれている動詞だという秀句を発見せよ、という「なぞ」を、解いて見せた。
 しかし、「松葉にこほる雪」が滞る間よりも短い人生とは何か、と尋ねた、もう一つの「なぞ」が残っている。
 伊勢大輔の、宮仕えの身である、「我身」とは、「おなじ光にかげをならべて」、いつも「君」のために、影のように黒々と我も人も混然としている、そういう存在だと、言っている。
 しかし、紫式部の、そして、若い伊勢大輔の、全ての女の、「我身」とは、容貌かたち、容姿ありさま、齡よはひのほどを、それぞれが持て余して、けっこう綺麗なのに思い乱れる種を指して言うのが自明なことだ。
 歌は、この松の枝を、「何とかは見る」とこそ詠まなかったが、松葉に凍る雪と、「我身」である紫式部を比べたをの見せてから、こんどは、伊勢大輔である、「我身」に引き換えて何かを言ってごらんという、「なぞ」を訊いているのだ。
 ほの暗い光の中に、二人で心を見せ合おう。
 枝に凝り固まった白いものは、女の齡のほどにしたがって頭に積もる白いものに似ていながら、松葉に凍る雪の方はやがて解けるが、こちら頭の白いものは解けない。
 そうならぬうちに、儚く消えてしまいたいものだが、さていかに、と。
 「おなじ光にかげをならべて」いても、光の中の姿は、それぞれ異なる思いの種を抱えているだろう。

きえやすき露の命にくらぶれば げに滞る松の雪かな

 露の白玉のように消えやすいが、誰でも暫くは大事にされる、若さの輝きに比べると、同じく白髪の白いということに縁があるが、ぐずぐずといつまでも解けない松の雪のように、この世に停滞する老人(おいびと)・古参女房よ。
 このように解さなければ、伊勢大輔の歌には、妙なところがある。
 一般に、「きえやすき露の命」は、それ自体が、必ず消えを争って、「おくれさきだつ」ものである。
 仏教的諦観を託した、「露」には、木石のごとき人も含まれるのだ。
 新古今和歌集哀傷歌七五七 僧正遍昭

末の露もとの雫や世の中の おくれさきだつためしなるらむ

 それでも比べるものがあると言うのは、比べ方が違うのである。
 後撰和歌集戀五八九五 讀人しらず

ながらへば人の心もみるべきに 露の命ぞかなしかりける

 歌が言うように、「露の命」より、「ながらへ」るものが、どこかにある筈だ。
 ほんとうに、戴いたこの枝の、「滞る松の雪」のようならば、遠慮なく立ち入って、「人の心もみる」ことができるでしょうよ。
 誰でも知っている、「我身よにふる」と詠んだ歌は、一つしかないから、
 古今和歌集春歌下一一三 小野小町・百人一首歌

花のいろはうつりにけりないたづらに わがみ世にふるながめせしまに

 「儚き」ものは、やはり、うつろいやすい花の色のことだ。二人して、松の雪を羨んだのではなかった。我身ばかりが露の命だとする、伊勢大輔の共感は、紫式部が予定していた解と同じではないだろう。松の雪を憎むとしても、「げに滞る」とは、言い過ぎではないか。

 二人の年齡の差が、気になる。二つの、「露の命」も、おくれさきだつ。
 共感は共感として、「我身よにふるほど」の生い先は、一緒にならない。
 三十代半ば(四十に近いか)の紫式部に対して、出仕して間もない伊勢大輔は、二十代だろうから。

 源氏物語「椎本の巻」【〔一二〕姫君たち、山籠りの寂寥の日々を過ごす】、この章で、「炭などのやうの物」を、山の阿闍梨が、宇治の姫君たちに贈った。黒木は炭ではないが、生木を竃でいぶして作る、「炭などのやうの物」である。
 宇治のあたりには、これを売り歩く女はいないらしい。
 姫君たちの年齡は、年立てによれば、大君は二十六、中の君は二十四である。
 行き遅れているが、まだまだ黒髪の美しい年頃である。
 高潔な、山の阿闍梨が贈った薪には、公衡の歌のような、姫君たちの境涯に及ぼすべき、世俗的な含意があると思ってはならない。

 阿闍梨の室より、炭などのやうの物奉るとて、(阿闍梨)「年ごろにならひはべりにける宮仕の、今とて絶えはべらんが、心細さになむ」と聞こえたり。必ず冬籠る山風防ぎつべき綿衣など遣はししを思し出てやりたまふ。

 この章で、二人が交わす歌が、先の紫式部と伊勢大輔の贈答に似ている。
 紫式部が、それを忘れている筈はないから、偶然ではない。
 目をかけてやった若い人に、これを見せて、「露の命」が持つべき、優しさを教育する配慮があるのか。
 雪の消えるごとくあっけなく世を去った父宮への哀惜を詠む、大君と中の君の歌。

  (大君)

君なくて岩のかけ道絶えしより 松の雪をもなにとかは見る

  (中の君)

おくやまの松葉につもる雪とだに 消えにし人を思はましかぱ

 遠慮のいらない妹君に贈る、大君の歌は、先の紫式部の歌のような、婉曲なところがない。
 「なにとかはみる」と、答を求めるのに決まっている贈歌が、このように詠むのは、答歌が、既に大君の心の中にあるからだ。
 中の君の歌も、率直に技巧を廃し、姉君の心にあるものと、全く同じものを答えて、この上なく優しい。

 薪は、法華経序品・提婆達多品の経文にちなんで、釈教歌・哀傷歌に詠まれる。
 歌にとって、じつは、先の故事のことは付けたりである。
 拾遺和歌集哀傷一三四六

  大僧正行基詠みたまひける

法華經を我がえし事は薪こり 菜つみ水くみつかへてぞえし

 この薪のことを知らない者とてなく、これを山家集の歌には、仏法に逢ふ期(あふご・朸)の薪であるという。

  提婆品

これやさはとしつもるまでこりつめし 法にあふごのたきぎなりける

 これを積むと、どのようになるのか。
 宇治の姫君は、山の阿闍梨に貰った薪によって、「露の命」、「花の色」の恋の迷妄を離れて、仏法に逢ふ期の機縁を得たのであろう。
 凡兆も、これにあやかって、俳諧の法に逢おうとする。
 「上陽白髪人」には、

入時十六今六十  入りし時は十六 今は六十

 とあったが、凡兆がこの年、幾つなのか分からない。
 芭蕉の、羽紅に宛てた書簡に、「加生(凡兆)老」の文字があって、老と呼んでもよい年齡であったかと、テキスト注にある。
 仏法ならずとも何事も、「としつもるまで」凝り詰めた、法力の薪を焚けば、事の道理を悟るようになる。
 凡兆が、この有り難い薪にあやかるのに、年には不足がないのらしい。

 「窓」の中の人は、凡兆一人ではないだろう。俳諧は、一人ではできない。
 「伊勢大輔集」の贈答をもう一度写す。

心ざし君にかゝぐる燈火の おなじ光にあふが嬉しさ

  かへし

古の契りも嬉し君がため おなじ光にかげをならべて

 芭蕉と凡兆と、もう幾人か入れて、おなじ光にかげをならべる。
 俳諧の法の光(叱り)に照らされて、夜もすがら師と影を並べる嬉しさ。

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