罔川集 王維
新家孟城口、 古木余衰柳。 来者復為誰、 空悲昔人有。 |
新たに 古木は 空しく悲しむ |
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罔川荘の北の入口から南の奥のほうへ向かって並べられており、「孟城」は入り口付近にあった古城址です。
「 しかし、王維が詠っているのは家のことではなく、その家もやがて誰かの手に移ってしまうであろうという無常感です。 |
飛鳥去不窮、 連山復秋色。 上下華子岡、 惆悵情何極。 |
連山 華子岡を上下すれば |
「華子」は華子期という仙人の名前からきたそうですが、仙人と岡との関係はわかっていません。王維の詩は起句と結句に「不窮」と「何極」を照応させて、世に在る者の去った者への追慕の情を詠いあげています。
華子岡を上り下りしながら思い出すのは、亡くなった母や妻のことでしょう。
文杏裁為粱、 香茅結為宇。 不知棟裏雲、 去作人間雨。 |
文杏を 知らず 去って |
文杏館は華子岡を過ぎたところにあった建物のようです。 「文杏」という材、「香茅」という草で家を作ったと詠うのは、文杏館を仙人の家と見立てているからでしょう。 だから棟のあたりに雲が湧き、「人間」(人の世)の雨となるのかと、王維は俗世間を皮肉に見ています。 |
斤竹嶺きんちくれい
檀欒映空曲、 青翠漾漣猗。 暗入商山路、 樵人不可知。 |
檀欒だんらん空曲くうきょくに映じ、 青翠せいすい漣猗れんいに漾ただよう。 暗あんに商山しょうざんの路に入るを、 樵人しょうじんも知る可からず。 |
斤竹嶺は文杏館の背後の山で、「斤竹」は竹の一種と見られています。
詩中の「商山」は終南山の連山のひとつで、隠遁の山として有名です。
王維はこのまま山路をたどっていくと、誰の目にもつかずに商山に辿りつけると、隠遁への志を述べています。
鹿柴ろくさい 空山不見人、 但聞人語響。 返景入深林、 復照青苔上。 |
空山くうざん人を見ず、 但だ人語じんごの響くを聞くのみ。 返景へんけい深林しんりんに入り、 復また青苔せいたいの上を照らす。 |
「鹿柴」は鹿を飼ってある場所で、囲いの柵があります。しかし、詩中に鹿は出てこず、山中の静けさと、そのなかで夕陽が深い林の中にさし入って青い苔を照らし出している印象的な点景だけを描いています。
木蘭柴もくらんさい 秋山歛余照、 飛鳥逐前侶。 彩翠時分明、 夕嵐無処所。 |
秋山しゅうざんは余照よしょうを歛おさめ、 飛鳥ひちょうは前侶ぜんりょを逐おう。 彩翠さいすい時に分明ぶんめいにして、 夕嵐せきらんの処おる所無し。 |
「木蘭」は木犀に似た香りのよい木で、柵で囲んで植えてあったようです。
罔川荘といっても家や庭だけでなく、植物園も点在している荘園のようなものであったとみられます。
王維の詩は非常に繊細な表現で、「彩翠」というのは美しく色づいた秋の草木の中に緑の部分がときどき鮮やかに見えるというのでしょう。
「嵐」は中国では靄もやのことで、日本語の「あらし」は中国では「風雨」と書きます。
茱萸畔しゅゆはん 結実紅且緑、 復如花更開。 山中儻留客、 置此茱萸杯。 |
実を結びて紅くれない且つ緑なり、 復また花の更に開くが如し。 山中に儻もし客を留とどめば、 此の茱萸しゅゆの杯を置かん。 |
「茱萸畔」は茱萸の植わっている岸辺という意味です。
茱萸しゅゆは日本では「ぐみ」と読まれますが、日本のグミとは違うもので、葉は椿に似て厚みがあるそうです。
陰暦三月に花が咲き、花の色は紅紫といいます。
七、八月に実を結び、実は「はじかみ」に似ていて、はじめは微黄色をしていますが、九月九日の重陽節のころには赤色を呈しているそうです。
王維はそうした実の色の変化を珍しいものとして詠っています。罔川荘にも客があるらしく、王維は茱萸の木で作った杯が必要だと嬉しそうです。
仄径蔭宮槐、 幽陰多緑苔。 膺門但迎掃、 畏有山僧来。 |
仄径そくけいは宮槐きゅうかいの蔭にして、 幽陰ゆういんに緑苔りょくたい多し 膺門ようもんは但だ迎掃げいそうす 山僧の来きたる有るを畏おそる |
「陌」はあぜ道のことで、槐の木の生えている小径と解されます。
山寺の僧がやって来るというので、「膺門」(門番)が一心に掃除をしており、王維はその姿をあたたかく描いています。
掃いているのは門前の落ち葉でしょう。
罔川荘のある地域のほぼ中央に「欹湖」いこという湖があり、裴迪は宮槐陌が欹湖に通ずる道であることを述べています。
王維が掃除に余念のない門番を描いている。
臨湖亭りんこてい 軽舸迎上客、 悠悠湖上来。 当軒対尊酒、 四面芙蓉開。 |
軽舸けいかもて上客を迎え 悠悠ゆうゆう湖上に来きたる 軒けんに当たって 四面しめん芙蓉ふよう開く |
臨湖亭は欹湖の岸辺の水上に建っていました。王維は久し振りに「上客」を迎えて嬉しそうです。 この詩では舟で臨湖亭に来たと言っているのか、舟上で客をもてなしているのかあいまいです。「軒」は日本では「のき」ですが、中国では「のき」の場合と「窓の手すり」の場合があります。 ここでは「窓の手すり」でしょうが、「軽舸」に窓はないでしょうから、やはり臨湖亭で客をもてなしているのでしょう。 池は蓮の花の花ざかりでした。 |
南陀なんだ 軽舟南陀去、 北陀淼難即。 隔浦望人家、 遥遥不相識。 「南陀」は欹湖の南岸にある建物で、臨湖亭から小舟で湖を渡って行ったのでしょう。王維は湖が広く奥深いことを描いています。 |
軽舟けいしゅうもて南陀に去ゆく 北陀は淼びょうとして即つき難し 浦ほを隔てて人家を望めど 遥遥ようようとして相い識しらず |
欹湖いこ 吹簫凌極浦、 日暮送夫君。 青山巻白雲、 湖上一回首。 |
日暮にちぼに夫かの君を送る 青山せいざんに白雲はくうん巻けり 湖上一たび首こうべを回めぐらせば |
罔川荘のほぼ中央部に位置するのが「欹湖」で、湖岸の南に南陀、北に北陀があったようです。北陀が罔川の入口に近いので、長安から来た客は北から南へ奥まってゆくことになります。
王維の詩は「上客」を見送る作品でしょう。
舟には裴迪も同乗していたらしく、転結句において、王維は周囲の山の姿を描き、裴迪は吹いて来る風を描いて唱和の妙を発揮しています。
柳浪りゅうろう 行分接綺樹、 倒影入清猗。 不学御溝上、 春風傷別離。 |
行こう分かれて綺樹きじゅ接し 倒影して清猗せいいに入れり 学ばず御溝ぎょこうの上ほとり 春風に別離を傷いたむことを |
北陀と臨湖亭は流れを隔てて向かい合う位置にあり、それぞれの岸辺に柳が生えていたようです。
王維の詩の「行分」は、そのことを言っています。
さざ波に柳が逆さに影を映しているというのは王維の好む表現であったようです。世を離れた山荘の柳だから、長安の城の堀端の柳のように左遷や転勤で別れを悲しむ必要もないと、山居の気楽な暮らしを肯定しています。
欒家瀬らんからい
颯颯秋雨中、 浅浅石溜瀉。 波跳自相濺、 白鷺驚復下。 |
颯颯さつさつたる秋雨しゅううの中うち 浅浅せんせんとして石溜せきりゅうに瀉ぐ 波は跳おどって自おのずから相い濺そそぎ 白鷺はくろは驚きて復また下くだれり 「欒家瀬」は早瀬の名で、臨湖亭の奥、 「柳浪」の柳の近くにありました。 王維の詩は水しぶきに驚いて白鷺が飛び 立つが、また降りてくると観察の鋭さを 示しています。役人生活への比喩を含んで いるのかも知れません。 |
金屑泉きんせつせん 日飲金屑泉、 少当千余歳。 翠鳳翔文蛟、 羽節朝玉帝。 |
日々ひびに金屑泉を飲めば 少なくとも当まさに千余歳ならん 翠鳳すいほう文蛟ぶんこうを翔はしらせ 羽節うせつもて玉帝に朝ちょうせん |
金屑泉は欒家瀬の近くにあった泉で、「金屑」は金の細片、仙薬のひとつとされていました。薬効のある湧き水として、この名をつけたもののようです。
王維の詩は泉の水を飲んで長生きをし、仙人になって天帝にお目通りしようと、金屑泉の水の良質なことをほめています。
白石灘はくせきたん 清浅白石灘、 緑蒲向堪把。 家住水東西、 浣紗明月下。 |
清浅せいせんなり白石の灘 緑蒲りょくほは把とるに堪うるに向かえり 家は住じゅうす水の東西 紗さを浣あらう明月の下もと |
「白石灘」は白い石のある浅瀬で、 南陀と竹里館のあいだにありました。 そこには蒲がまも生えていたようです。 王維の詩の転結句は楽府がふ的な 口調になっており、川に紗を晒しに きている村娘が王維の問いに答える 形式になっています。 |
北陀ほくだ 北陀湖水北、 雑樹映朱欄。 逶斜南川水、 明滅青林端。 |
北陀は湖水の北 雑樹ざつじゅ朱欄しゅらんに映えいぜり 逶斜いしゃたり南川なんせんの水 明滅す青林せいりんの端たん |
北陀は欹湖の北岸にある建物である。 だから罔川荘を北の入口のほうから描いていくとすれば、南陀よりは先に出てこなければならないのですが、ここに出てくるのは裴迪の詩が南山と関係があるからのようです。 王維の詩は北陀そのものを描いて王維らしいこまやかな観察が目立ちます。 |
竹里館ちくりかん 独坐幽篁裏、 弾琴復長嘯。 深林人不知、 明月来相照。 |
独り坐す 深林しんりん人知らず 明月来きたって相い照らす |
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木末芙蓉花、 山中発紅萼。 澗戸寂無人、 紛紛開且落。 |
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辛夷塢は辛夷の植えてある土手のことです。「辛夷」は日本では「こぶし」と読んでいますが、中国では白木蓮はくもくれんを指すようです。
「芙蓉」は蓮の花のことですから、王維の詩は木蓮の花を梢に咲く蓮の花のようだと詠っているわけです。その花は白ではなく紅であったらしく、人気のない山中で花だけが咲き乱れ、散っていくようすを印象的に詠っています。
漆園しつえん 古人非傲吏、 自闕経世務。 惟寄一微官、 婆娑数株樹。 |
古人こじん傲吏ごうりに非あらず 自ら経世けいせいの務めを闕かけり 惟ただ一微官いちびかんに寄りて 婆娑ばさたり数株すうしゅの樹じゅ |
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漆園は漆の木の植えてある畑で、罔川荘の一番奥にあったようです。 漆園といえば、当然荘子が出てくるわけです。 荘子は粱の蒙(荘子の生地)で漆園の管理をする小役人をしていました。王維は荘子のようにささやかな地位に身を置いて、「婆娑」しどけないさま、つまり衣冠に身を飾らずに自然な姿で生きていると詠っています。 |
椒園しょうえん 桂尊迎帝子、 杜若贈佳人。 椒漿奠瑶席、 欲下雲中君。 |
桂尊けいそんもて帝子ていしを迎え 杜若とじゃくを佳人かじんに贈る 椒漿しょうしょうを瑶席ようせきに奠てんし 雲中君うんちゅうくんを下さんと欲ほっす |
椒園は山椒を植えてある畑で、漆園の近くにあったようです。王維の詩は楚辞の世界を濃厚に踏まえていて、すべての語にそれとの関連が見られます。 王維は『罔川集』最後のこの詩で、罔川荘経営の目的が楚辞のような清浄な世界の実現にあることを述べているように思います。 |