国民学校国語教科書
『初等科國語 七』
    目 録
   一   黑龍江の解氷
   二   永久王
   三   御旗の影
   四   敬語の使ひ方
   五   見わたせば
   六   源氏物語
   七   姉
   八   日本海海戰
   九   鎭西八郎爲朝
   十   晴れ間
   十一  雲のさまざま
   十二  山の朝
   十三  燕岳に登る
   十四  北千島の漁場
   十五  われは海の子
   十六  月光の曲
   十七  いけ花
   十八  ゆかしい心
   十九  朝顔に
   二十  古事記
   二十一 御民われ

    附 録
   一 ジャワ風景 二 ビスマルク諸島 三 セレベスのゐなか
   四 サラワクの印象

    一 黑龍こくりゆう江の解氷

  五尺もある厚い氷、
  遠い兩岸の間をぎつしりと張りつめてゐた氷、
  その下で、眠つてゐた黑龍江が、
  ひとつ大きなあくびをしてから、
  春のいぶきをいつぱいに吸ひ込んだ。

  めりめりと氷が割れる、
  碎ける、
  地響きをたてながら。
  半年も地面のやうに動かなかつた川が、
  今、動きだした。
  あちら、こちらに川波が光りだした。
  ああ、自然の大きな脈搏みやくはく

  松花江をのみ、
  ウスリー江をのみ、
  はるかオホーツクの海へ向かつて、
 「はあ。」と冬のなごりを吐く。

  暗黑色の流れにあふられ、
  氷塊と氷塊がつきあたり、
  噛みあひ、のしかかり、
  でんぐりかへり、
  群がつて流れる。

  やがて黑龍江は、やさしい手をひろげ、
  わが子のやうに滿洲をだきかかへて、
  春の歌を歌ふ。

    二 永久ながひさ

     一
 陸軍幼年學校の制服をお召しになつた北白川宮永久王は、母宮殿下の御前にお立ちになつた。
「ただ今、北海道から歸つてまゐりました。これは、おみやげにと思ひまして、求めてまゐつた黑竹の杖でございます。」
 王は、お持ち歸りになつた杖を、母宮殿下におあげになつた。
 それをお受け取りになつた母宮殿下は、
「この杖をかうして持つてゐると、永久に手を引かれてゐるやうです。」と仰せられ、やさしく王を御覽になつて、につこりお笑ひになつた。
     二
 晴れた夏の空が、武藏野むさしのの上におほひかぶさつてゐる。
 陸軍士官學校豫科を御卒業になつた王は、士官候補生として、今日も武藏野を縱横にかけめぐりながら、演習をなさつてゐた。
 今まで晴れてゐた空が急に暗くなつて、大粒の雨が降りだした。
 演習が終つて、王は、一軒の農家の軒先にお立ちになつた。
 御軍帽のひさしからは、雨のしづくがしたたり落ち、御軍服は、しぼるやうにぬれてゐた。
「雨で、殿下には、さぞお困りになつたことでありませう。」と、中隊長が申しあげると、王は、
「二月餘りも雨が降らなかつたから、この雨で、農家はさぞ喜ぶことでせう。ほんたうによい雨です。」とおつしやつて、水晶すゐしやうのすだれを掛けたやうに降りしきる雨を、いかにも氣持よささうにお眺めになつた。
     三
 昭和十五年の春。
 陸軍砲兵大尉の御軍装で、王は、母宮殿下の御前に不動の姿勢でお立ちになつた。母宮殿下は靜かにおつしやつた。
「永久のからだは、お上におささげ申したものですから、決死の覺悟で、御奉公なさるやうに。」
 大命を拜されて、王は蒙疆もうきやうの地へ御出征になる。
 その最後のお別れに、母宮殿下に御挨拶ごあいさつを申していらつしやるのであつた。
「陛下のおんため、力の續くかぎり戰ひぬく覺悟でございます。どうぞ御安心くださいませ。」
 王は、母宮殿下にじつと御注目になり、敬禮をあそばされた。
 母宮殿下も、御滿足さうに王のお顔を御覽になり、心もち御頭をおさげになつて、御答禮をあそばされた。
     四
 廣々とした蒙疆の原野、第一線における王の御宿舎は、粗末な蒙古の住民の家である。
 軍務のおつかれで、王は、ある夜しばしかり寢のゆめをお結びになつてゐたが、あたりのさわがしさで、目をおさましになつた。
「お目ざめでございますか。せつかくの御熟睡ごじゆくすゐをおさまたげいたしまして、申しわけもございません。」
 おつきの者が、恐る恐る申しあげると、
「何か起つたのか。」とやさしくお問ひになつた。
「いや、ほかでもございません。この附近の住民が病氣で、今にも死にさうだと申してゐるのでございます。」
「病氣。それは氣のどくだ。」
 王は、かうおつしやつて、一服の藥をお取り出しになつた。
「これを飲ませておやり。」と、おつきの者にそれをお渡しになつた。
 翌朝、王の御宿舎の前には、蒙古の住民たちが並んでゐた。王のお情けに、心からお禮を申しあげるためであつた。
     五
「十時二十分、戰鬪たけなはなる時、宮機を迎ふるの光榮に浴す。將兵一同感激にたへず。」
 第一線から飛行機でお歸りになつた王は、武官のさし出すこの電報を御一讀ののち、今飛んでおいでになつたはるかかなたの空を、もう一度ふり返つて御覽になつた。
 砲煙彈雨の間、王は、彼我の戰況を御偵察ていさつになつて、作戰の御指導をなさつたのである。
 第一線の將兵たちは、この電文が示すやうに、ひたすら光榮に感激して、勇氣百倍したのであつた。
     六
 昭和十五年九月六日、防空演習で帝都は夜のやみにとざされてゐた。その中を、王の御なきがらを奉安する御ひつぎの車は、儀仗ぎぢやう隊の護りもいかめしく、立川飛行場から、靜かに高輪たかなわの御殿へお進みになつてゐた。
 午後八時ごろ、御ひつぎの車は、御殿にお着きになつた。
 正門の前には、お四つでいらつしやる若宮道久みちひさ王殿下が、喪章もしやうをつけない日の丸の小旗をお持ちになつて、父宮の御凱旋がいせんをお迎へあそばされてゐた。
「名譽の御凱旋をなさるのですから、心の中で萬歳を唱へてお迎へするのです。」とおつしやつた祖母宮殿下のおいひつけ通りになさつたのであらう。
 御ひつぎは、表玄關げんくわんから、母宮殿下の御居間、櫻の間にまづおはいりになつた。
 王が幼年學校の生徒でいらつしやつた時、北海道からお歸りになつて御挨拶をなさつたのも、蒙疆へ御出征の時、最後の御對面をなさつたのも、この同じ櫻の間であつた。
 その御居間で、神におなりになつた王に、母宮殿下は、母君としての御慈愛に滿ちたお迎へのおことばを、親しくおかはしになつたのであつた。

     三 御旗の影

       笠置かさぎの城
 そもそも笠置の城と申すは、山高くして一片の白雲峯を埋め、谷深くして萬丈の靑岩道をさへぎる。
 つづら折りなる道をあがること十八町、岩を切つて堀とし、石をたたんで塀へいとせり。
 たとへ防ぎ戰ふ者なくとも、たやすくのぼるべきやうなし。
 されども城中鳴りを靜めて、人ありとも見えざりければ、官軍はや落ちたりと思ひて、賊の寄せ手七萬五千餘騎、堀・がけともいはず、かづらに取りつき岩の上を傳ひて、一の木戸口の邊まで寄せたりけり。
 ここにて一息休めて、城の中をきつと見あぐれば、錦の御旗に日月を金銀にて打つて着けたるが、天日にかがやき渡り、そのかげに甲武者三千餘人、かぶとの星をかがやかし、甲の袖を連ねて、雲霞うんかのごとく並びゐたり。
 そのほか、やぐらの上、矢ざまのかげには、射手とおぼしき者ども、弓のつるをくひしめし、矢束ね解いて待ちかけたり。
 その勢決然として、あへて攻むべきやうもなし。
 寄せ手これを見て、進まんとするもかなはず、引かんとするもかなはずして、心ならずも支へたり。
 しばらくありて木戸の上なるやぐらより、名のりけるは、
「三河みかはの國の住人、足助あすけの次郎重範しげのり、かたじけなくも一天の君に命をささげまゐらせて、この城の一の木戸を堅めたり。前陣に進みたる旗は、美濃みの・尾張をはりの勢と見るはひが目か。萬乘の君のおはします城なれば、六波羅ろくはら殿や御向かひあらんと心得て、大和鍛冶やまとかぢのきたへ打つたる矢じりを少々用意仕りて候。一筋受けて御覽じ候へ。」といふままに、三人張りの弓に十三束三伏せの矢をつがへ、滿月のごとく引きしぼり、しばし堅めてちようと放つ。
 その矢、はるかなる谷をへだてて二町餘りのかなたに控へたる荒尾の九郎が甲を通して、右の脇腹わきばらまでぐざと射込む。一矢なれども必殺のねらひなれば、荒尾馬より逆さまに落ちて、起きも直らず死しけり。
 弟の彌五郎やごらうこれを敵に見せじと、矢面に立ちふさがりていひけるは、
「足助殿の御弓勢、日ごろ承り候ひしほどはなかりけり。ここを遊ばし候へ。御矢一筋受けて、甲をためし候はん。」と、胸をたたいて立ちたりけり。
 足助これを聞きて、
「この者、甲の下に腹巻を重ねて着たればこそ、前の矢を見ながら、ここを射よと胸をたたくらん。もし甲の上を射ば、矢じり碎け折れて、通らぬこともあらん。かぶとの眞向を射たらんに、などか通らざるべき。」と思案して、
「さらば一矢仕り候はん。受けて御覽じ候へ。」といふままに、十三束三伏せ、前よりもなほ引きしぼりて、手答へ高くはたと射る。思ふねらひを違へず、彌五郎がかぶとの眞向碎きて、眉間みけんの眞中をぐざと射込みたりければ、二言ともいはず、兄弟同じ枕に倒れ重なつて死にけり。
 これを軍の初めとして、大手・からめ手、城の内、をめき叫んで攻め戰ふ。
 矢叫びの音、ときの聲、しばし止む時なかりけり。
 寄せ手いよいよ重なつて、木戸口の邊まで攻め來たる。
 ここに本性房ほんじやうばうといふ大力の僧、衣の袖を結んで引き違へ、百人にても動かしがたき大石を、かるがると脇にさしはさみ、まりのごとく二三十、續け打ちにぞ投げつくる。數萬の寄せ手、どうと打ちすゑられ、なだれを打つて人馬落ち重なる。
 さしもに深き谷々、死人にて埋まりけり。
 これよりのちは、寄せ手雲霞のごとしといへども、城を攻めんといふ者なく、ただ四方を圍みて、遠攻めにこそしたりけれ。

     稻村が崎さき
 明け行く月に敵の方を見渡せば、北は山高く道けはしく、數萬のつはもの陣を並べて控へたり。南は稻村が崎にて砂上、道せまきに、波打際まで逆茂木さかもぎを仕掛け、沖四五町がほどに大船どもを並べて、横矢を射んとかまへたり。
 されば、この堅陣を打ち破つて攻め寄せんこと、たやすかるべしとは見えざりけり。義貞よしさだ馬よりおり、かぶとを脱いで海上をはるばると伏し拜み、祈りけるやう、
「義貞今臣たるの道を盡くさんため、武具を取つて敵陣にのぞむ。その志、ひとへに皇化をたすけ奉つて、民生を安んぜんとするにあり。仰ぎ願はくは、臣が心をあはれみたまへ。」と、しばし祈念をこらしつつ、みづからはける黄金作りの太刀を拔きて、海中へ投げ入れたり。
 その夜の月の入り方に、稻村が崎、にはかに二十餘町干あがりて、平砂はるかに連なり、横矢を射んとかまへたる數千の兵船も、引き潮にさそはれて、遠く沖の方にただよへり。
 ふしぎといふも類なし。義貞これを見て、
「神も納受したまふぞ。進めや、つはものども。」と下知しければ、江田えだ・大館おほだち・里見・鳥山・田中・羽川はねがは・山名・桃井もものゐの面々を始めとして、越後ゑちご・上野かうづけ・武藏むさし・相模さがみの軍勢六萬餘騎、稻村が崎の遠干がたを、眞一文字にかけ通りて、鎌倉かまくらへ亂れ入る。

     四 敬語の使ひ方

 文化の進んだ國、敎養の高い國民にあつては、禮儀を重んじ、ことばづかひをていねいにすることが、非常に大切なことになつてゐる。
 特に、わが國語には敬語といふものがあつて、その使ひ方が特別に發達してゐるから、ことばづかひをていねいにするためには、ぜひとも敬語の使ひ方をよく心得ておかなければならない。まづ相手の人に對して尊敬の意を表すために、特別なことばを、われわれは常に用ひてゐることに氣づくであらう。
 相手を「あなた」といふのが、すでに敬語である。
 また、相手や目上の人の動作を述べるのに、「いらつしやる」とか、「めしあがる」とかいふのも、それである。相手を尊敬するためには、自分のことを謙遜していふのがわが國語のいき方で、これも敬語のうちにはいる。
 自分のことを「わたくし」といふのが、すでに謙遜したことばであり、「行く」「食ふ」「する」も、「まゐる」「いただく」「いたす」などいふのが普通である。
  私もまゐりませう。
  もう十分にいただきました。
それ故、自分のことや目下のもののことを、
  私はまだめしあがりません。
  妹たちも、きのふの祝賀式にいらつしやいました。
などいつては、もの笑ひである。
 しかし、自分の動作であつても、それが相手のためにする場合は、
  私が御案内申しませう。
  御心配申しあげました。
  では、一通りお話いたします。
のやうに、「御」や「お」をつけて敬語にするのである。相手のすることに、「御」や「お」をつけて敬ふのは、いふまでもない。
  決して御心配くださいますな。
  お志、ありがたう存じます。
 父・母・兄・姉・をぢ・をば等は、目上の人であるから、それを相手とする時、
  おとうさん、どこへおいでになりますか。
  をばさんは、どうなさいます。
と敬つていふのである。しかし、一たび他人の前へ出た場合には、自分のことを謙遜していふのと同じく、自分の身内の者のこともまた謙遜していふのである。だから、
  おとうさんがよろしくおつしやいました。
  おかあさんは、今日おいでになりません。
  私のをぢさんは、大阪にをられます。
  ねえさんは、お仕事をしておいでです。
といふよりは、
  父がよろしく申しました。
  母は、今日まゐりません。
  私のをぢは、大阪にをります。
  姉は、仕事をしてゐます。
といふのが、相手に對して禮儀のあるいひ方である。ただ自分の身内でない目上の人のこととなると、他人の前でもやはり敬つていはなければならない。
 いつぱんに、女は男よりもいつそうていねいにものをいふのが、わが國語のならはしである。したがつて、女の使ふ敬語には、やや特殊のものがある。
 多くは家庭で用ひる物品などに對して、「おなべ」「おさかな」「お召物」とか、あるひは、「汁」を「おみおつけ」などいふのがその例である。
 「行く」「來る」を「いらつしやる」といふなども、女らしいことばである。
 今日では、男も混用したり、あるものはいつぱんに使用されたりするが、それが度を越すと、かへつてばかていねいになつたり、また柔弱に聞えたりする。
 それに、何でも「御」や「お」をつけさへすれば敬語になると思つたり、敬語を使ひさへすれば禮儀になると考へたりするのは、大きなあやまりである。
 敬語の使用は、禮儀にかなふとともに、常に適正であることと、眞の敬意、すなはち敬ふ眞心がことばに現れることが、最も大切である。
 敬語の使ひ方によつて、尊敬や謙遜の心をこまやかに表すことのできるのは、實にわが國語の一大特色であり、世界各國の言語にその例を見ないところである。古來わが國民は、皇室を中心とし、至誠の心を表すためには、最上の敬語を用ひることをならはしとしてゐる。さうして、また長上を敬ふ家族制度の美風からも、ていねいなことばづかひが重んじられてゐる。
 わが國語に、敬語がこれほどに發達したのは、つまりわが國がらの尊さ、昔ながらの美風が、ことばの上に反映したのにほかならないのである。

    五 見わたせば

                      素性そせい法師
 見わたせば柳さくらをこきまぜて都ぞ春のにしきなりける

                      紀 貫之きのつらゆき
 やどりして春の山べにねたる夜は夢のうちにも花ぞ散りける

                    藤原敏行ふぢはらのとしゆき
 秋來ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる

                      よみ人しらず
 白雲にはねうちかはし飛ぶかりの數さへ見ゆる秋の夜の月

                      能因のういん法師
 山里の春の夕ぐれ來て見ればいりあひの鐘に花ぞ散りける

                      西行さいぎやう法師
 道のべに清水しみづ流るる柳かげしばしとてこそ立ちとまりつれ

                      藤原顯輔あきすけ
 秋風にたなびく雲の絶え間よりもれいづる月のかげのさやけさ

    六 源氏物語

 紫式部は、子どもの時から非常にりこうでした。
 兄が史記を讀んでゐるのを、そばでじつと聞いてゐて、兄より先に覺えてしまふほどでした。父の爲時ためときは、
「ああ、この子が男であつたら、りつぱな學者になるであらうに。」といつて歎息しました。大きくなつて、藤原宣孝ふぢはらののぶたかの妻となりましたが、不幸にも早く夫に死に別れました。
 そのころから紫式部は、筆をとつて有名な源氏物語を書き始めました。
 そののち上東門院に仕へて、紫式部の名は一世に高くなりました。
 式部は、文學の天才であつたばかりか、婦人としてもまことに圓滿な、深みのある人でした。父爲時が願つたやうに、もし紫式部が男であつたら、源氏物語のやうな、かな文は書かなかつたでせう。當時、かな文は女の書くもので、男は、漢文を書くのが普通であつたからです。
 しかし、かな文であればこそ、當時の國語を自由自在に使つて、その時代の生活をこまやかに寫し出すことができたのです。
 かう考へると、紫式部は、やつぱり女でなくてはならなかつたのです。
 源氏物語五十四帖は、わが國の偉大な小説であるばかりでなく、今日では、世界にすぐれた文學としてほめたたへられてゐます。
 次にかかげる文章は、源氏物語の一節を簡單にして、それを今日のことばで表したものですが、ただこれだけで見ても、約九百年の昔に書かれた源氏物語が、いかによく人間を生き生きと、美しく、こまやかに寫し出してゐるかがよくわかるでせう。
     一
 のどかな春の日は、暮れさうでなかなか暮れない。
 きれいに作つたしば垣の内の僧庵そうあんに、折から夕日がさして、西側はみすがあげられ、年とつた上品な尼あまさんが佛壇ぶつだんに花を供へて、靜かにお經を讀んでゐる。
 顔はふつくらとしてゐるが、目もとはさもだるさうで、病身らしく見える。
 そばに、二人の女がすわつてゐる。
 時々、女の子たちが出たりはいつたりして遊んでゐる中に、十ばかりであらうか、白い着物の上に山吹色の着物を重ねて、かけ出して來た女の子は、何といふかはいらしい子であらう。切りそろへた髮が、ともすると扇のやうに廣がつて、肩の邊にゆらゆら掛るのが、目だつて美しく見える。どうしたのか、その子が尼さんのそばへ來て、立つたまましくしく泣きだした。
「どうしました。子どもたちと、いひ合ひでもしたのですか。」といひながら、見あげた尼さんの顔は、この子とどこか似たところがある。
「雀の子を、あの犬きが逃したの。かごに伏せておいたのに。」と、女の子は、さもくやしさうである。
 そばにゐた女の一人は、
「まあ、しやうのない犬きですこと。うつかり者だから、ついゆだんをして逃したのでせう。せつかくなれて、かはいくなつてゐたのに。烏にでも取られたらどうしませう。」
 かういつて、雀をさがしに立つて向かふへ行つた。それは、この子の乳母うばであるらしい。
 尼さんはもの靜かに、
「いやもう、あなたはまるで赤ちやんですね。どうして、いつまでもかうなんでせう。わたしがこんなに病氣で、いつとも知れない身になつてゐるのに、あなたは雀の子に夢中なんですか。生き物をいじめるといふことは、佛樣に對しても申しわけのないことだと、ふだんから敎へてあげてあるでせう。さあ、ここへちよつとおすわりなさい。」
 子どもは、おとなしくすわつた。尼さんは、子どもの髮をなでながら、
「櫛を使ふことをおきらひだが、それにしては、まあ何といふよい髮でせう。でも、かういつまでも赤ちやんでは困りますよ。もうあなたぐらゐになれば、もつともつとおとなしいはずです。さうさう、なくなられたあなたのおかあさんは、十二の時おとうさんをおなくしでしたが、それはそれは、よく物がおわかりでしたよ。今にでも、このおばあさんがゐなくなつたら、いつたいあなたはどうなさらうといふのでせう。」
 さすがに子どもは、じつと聞きながら目を伏せてゐたが、とうとううつ伏せになつて、泣き入つてしまつた。
 とたんに美しい髮が、はらはらと前へこぼれかかる。
     二
 雀の子が逃げて泣いた紫の君は、その年の秋おばあさんに死なれて、たつた一人この世に取り殘されてしまつた。
 紫の君は、いとこの源氏の君のうちへ引き取られることになつた。
 あの乳母や犬きも、紫の君といつしよに引き移つた。源氏は、小さな妹でもできたやうに、いろいろと紫の君のめんだうを見てやつた。
 紫の君も、源氏をほんたうのにいさんだと思ふほどなついて來た。しかし、紫の君は、やはりおばあさんのことを思ひ出しては泣くことがある。この不幸な子を慰めるために、源氏は繪をかいて見せたり、人形を求めてやつたりした。
 お正月になつた。元日の朝、源氏は、ちよつと紫の君のゐる部屋へ行つてみた。さうして、
「どうです。お正月が來たから、あなたも少しはおとならしくなつたでせうね。」といつた。
 りつぱな書棚しよだなに、たくさんの人形や、家や、車が並べてある。
 紫の君は、それを部屋いつぱいにひろげて、人形遊びにいそがしい。
「豆まきをするつて、このお人形さんを犬きがこはしました。わたしがつくろつたのですよ。」と、さも大變なことででもあるやうに、紫の君は源氏にいつた。
「よしよし。あとで、りつぱにつくろはせてあげよう。今日はお正月だから、泣いてはいけませんよ。」といつて、源氏は出て行つた。
 紫の君は、人形の一つをおばあさんと呼んでゐる。お正月だから、きれいな着物を着せてあげた。
「さうさう。このおにいさんにも、いい着物を着せてあげなければ。」
 さういつて、今一つの人形にも美しい着物を着せた。
「さあ、御參内だ。車にお召しください。犬きや、おまへはおにいさんのお供をするのですよ。」
「はい。」と答へて次の間から出て來た犬きが、その車を引いた。
 庭では、うぐひすが、美しい聲で「ほうほけきよ。」と鳴いた。

     七  姉

 今日、ねえさんがお嫁入りをします。
 さう思ふと、心がちつとも落ち着きませんでした。
 先生のおつしやることが、つい私の耳をす通りします。
 敎室のそとは、うららかな初夏です。
 屋根で雀がちゆうちゆう鳴いてゐます。
 あの雀は、のんきでいいなあ。
 ほんたうに、あのねえさんが、よその人になつてしまふのかしら。
 何だかうそのやうだ──と思つたとたん、はつとしました。
 先生の目が、みんなの笑つた顔が、私に集つてゐます。
 先生が、私に何かおつしやつたやうです。
 顔が火のやうになるのを、私は感じました。
 午後、急ぎ足で學校の門を出ました。歸つてみると、入口に下駄げたが何足も並んでゐて、奥では、がやがや人聲がします。
 髮結ひさんが、一生けんめいに、ねえさんのお支度をしてゐるところでした。きれいに髮を結つて、晴れ着を着せられたねえさんは、まるでよその人のやうに見えます。
 分家のをばさんが、
「ああ、いいお嫁さんができました。」といつて、ほめてゐます。
 おかあさんも、そばでにこにこしながら眺めてゐます。
 お座敷では、山田のをぢさんとをばさんが、おとうさんや分家のをぢさんなどと話をしてゐます。
 何だかさびしい氣がして、私は自分の部屋へもどりました。
 心を無理にしづめようとして雜誌を開きましたが、字も畫も、てんで目にはいりません。
 ふすまがすうとあいて、着かざつたねえさんがはいつて來ました。
「雪ちやん。」
 少しかすれた聲でした。
「ねえさん、おめでたう。」
 やつとこれだけが、私の口から出ました。
「ありがたう。私がゐなくなつても、さびしがらないで、よく勉強してくださいね。」
「はい。」
 さういへば、よくねえさんにいろいろ敎へていただいたものでした。
「生まれた家を出て行くのです。どうぞ私に代つて、おとうさんやおかあさんを、だいじにしてあげてくださいね。おかあさんは、さうお丈夫ではないんですから。」
 私はだまつてうなづきました。
「ねえさん、これまでずゐぶんわがままをいつてすみませんでした。」──それがのどまで出てゐるのですけれど、とうとういへないでしまひました。
 夕方、迎への車が來ました。
 ねえさんは、山田のをぢさん・をばさんといつしよに、車に乘りました。
 その夜、おとうさんも、おかあさんも、口ぐせのやうに
「めでたい、めでたい。」といひながら、話はとだえがちでした。
 にいさんだけが、時々おどけたことをいつて、みんなを笑はせました。

     八 日本海海戰

 露國が連敗の勢を回復せんため、本國における海軍のほとんど全勢力を擧げて編成せる太平洋第二・第三艦隊は、今や朝鮮海峽を經て、ウラジオストックに向かはんとす。
 わが海軍は、初めより敵を近海に迎へ撃つの計を定め、あらかじめ全力を朝鮮海峽に集中してこれを待つ。
 明治三十八年五月二十七日午前四時四十五分、わが哨艦せうかん信濃しなの丸より、無線電信にて「敵艦見ゆ。」との報告あり。
 東郷司令長官は、直ちに全軍に出動を命じ、まづ小巡洋艦をして、敵艦隊を沖島おきのしま附近にいざなひ寄せしむ。
 午後一時五十五分、わが旗艦三笠みかさは、戰鬪旗をかかぐるとともに、信號旗を以て令を各艦にくだせり。いはく、
「皇國の興廢こうはい此の一戰にあり。各員一層いつそう奮勵ふんれい努力せよ。」と。
 わが軍の士氣大いに振るふ。
 三笠に乘れる東郷司令長官は、六隻の主戰艦隊を率ゐて、上村艦隊とともに先頭なる敵の主力に當り、片岡・出羽では・瓜生うりふ・東郷正路の諸隊は、敵の後尾をつく。
 敵の先頭部隊は直ちに砲火を開始せしが、われは急にその前路をさへぎり、距離六千メートルに至りて始めて應戰し、激しく敵を砲撃せしかば、敵の艦列たちまち亂れ、早くも戰列を離るるものあり。風叫び海怒りて、波は山のごとくなれども、沈着にして熟練なるわが砲員の撃ち出す砲彈は、よく敵艦に命中して續々火災を起し、黑煙海をおほふ。
 午後二時四十五分、勝敗すでに定まれり。
 敵は、算を亂して逃れ去らんとす。
 われは、これに乘じてすかさず攻撃せしかば、敵の諸艦皆多大の損害をかうむり、續いてわが驅逐隊及び水雷艇隊の魚雷攻撃を受けて、敵の兩旗艦を始め、その他の諸艦も多く相ついで沈沒せり。
 夜に入りて、わが驅逐隊・水雷艇隊は、砲火をくぐつて敵艦にせまり、無二無三に攻撃せしかば、敵艦隊は四分五裂れつのありさまとなれり。
 明くれば二十八日、天よく晴れて海上波靜かなり。
 わが艦隊は、東郷司令長官の命により、おほむね欝陵うつりよう島附近に集りて敵を待ちしが、たちまち片岡隊の東方はるかに數條の黑煙を見る。よりて主戰艦隊及び巡洋艦隊は、直ちに東方へ向かつて敵の進路をふさぎ、片岡・瓜生・東郷の諸隊はその退路を絶ちて、午前十時十五分まつたく敵を包圍せり。
 敵將ネボカトフ少將、今は逃れぬところと覺悟したりけん、にはかに戰艦ニコライ一世以下四隻を擧げて、その部下とともに降服せり。
 敵の司令長官ロジェストウェンスキー中將は、きのふの戰鬪に傷を負ひ、幕僚とともに一驅逐艦に移りしが、わが驅逐艦漣さざなみ・陽炎かげろふの二隻に追撃せられ、つひに捕らへらるるに至れり。この兩日の戰に、敵艦の大部分は、わが艦隊のためにあるひは撃沈せられ、あるひは捕獲ほくわくせられて、三十八隻のうち逃れ得たるもの、巡洋艦以下數隻のみ。
 敵の死傷及び捕虜ほりよは、司令長官以下一萬六百餘人。
 わが軍の死傷はなはだ少く、艦艇の沈沒したるもの、わづかに水雷艇三隻に過ぎず。
 東郷司令長官の發せし戰況報告の末尾にいはく、
「我が聯合レンガフ艦隊ガ、能ク勝ヲ制シテ前記ノ如キ奇績キセキヲ収メ得タルモノハ、一ニ天皇陛下ノ御稜威ミイツノ致ス所ニシテ、固モトヨリ人爲ジンヰノ能クスベキニアラズ。
 特ニ我ガ軍ノ損失・死傷ノ僅少キンセウナリシハ、歴代神靈ノ加護ニ由ルモノト信仰スルノ外ナク、曩サキニ敵ニ對シ勇進敢戰シタル麾下キカ將卒モ、皆此ノ成果ヲ見ルニ及ンデ、唯タダ々感激ノ極言フ所ヲ知ラザルモノノ如シ。」と。
 勝報上聞に達するや、司令長官にたまへる勅語の中に、
「朕チンハ汝等ノ忠烈ニ依リ、祖宗ノ神靈ニ對コタフルヲ得ルヲ懌ヨロコフ。」と仰せられたり。將兵、すべて感泣せざるはなかりき。

     九 鎭西ちんぜい八郎爲朝ためとも

         一
 爲朝は、七尺ばかりなる男の、目角二つに切れたるが、紺地に獅子ししの丸を縫ひたるひたたれに、同じく獅子の金物打つたる甲を着、三尺五寸の太刀に、熊の皮のしりざや入れ、五人張りの弓長さ七尺五寸なるに、三十六さしたる黑羽の矢を負ひ、かぶとを郎等に持たせて歩み出でたるさま、いかなる鬼神といへども恐れずといふことなし。左大臣頼長よりなが、爲朝に向かひ、
「合戰のこと計らひ申せ。」とあれば、かしこまつて、
「爲朝、久しく鎭西に居住仕り、九國のものども討ち從へ候について、大小の合戰數を知らず、中にもせつかくの合戰二十餘箇度に及ぶ。敵に圍まれて強陣を破るにも、城を攻めて敵を滅すにも、利を得ること夜討にしくこと候はず。されば、ただ今敵方に押し寄せ、三方に火をかけ、一方にて支へ候はんに、火を逃れん者は矢を免るべからず、矢を恐れん者は火を逃るべからず。ただ兄にて候義朝よしともなどこそ、かけ出で候はめ。それも一矢にて、眞中を射通し候はん。まして清盛きよもりなどがへろへろ矢、何ほどのことか候べき。甲の袖にて拂ひ、けちらして捨て候はん。爲朝が矢二つ三つ放さんばかりにて、いまだ天の明けざる前に勝負を決すること、何のうたがひも候はず。」と、はばかるところなく申しけり。左大臣、
「爲朝が申しやう、以ての外に手荒き儀なり。年の若きが致すところか。夜討などいふこと、汝らが同士軍、十騎二十騎の私ごとなり。源平數を盡くして勝負を決せんこと、決してしかるべきにあらず。」といひければ、爲朝まかり立つてつぶやきけるやう、
「合戰の事は武士にこそ任せらるべきに、道にもあらぬ御計らひ、いかがあらん。義朝は武略の奥義を極めたるものなれば、定めて今夜寄せてぞ來たらん。ただ今押し寄せて、風上に火をかけたらんには、戰ふともいかで利あらんや。くちをしきことかな。」とぞ申しける。
         二
 大將源みなもとの義朝は、赤地錦のひたたれに、黑糸をどしの甲着て、鍬形打つたるかぶとをつけ、黑馬に黑くら置いて乘つたりけり。
 あぶみふんばり突つ立ちあがり、大音あげて、
「清和せいわ天皇九代の後胤こういん、下野守しもつけのかみ源義朝、大將としてまかり向かふ。もし一家の氏族ならば、すみやかに陣を開いて退散すべし。」といふ。
 爲朝聞きもあへず、
「御方の大將たる父判官はうぐわんの代官として、鎭西八郎爲朝、一陣を承つて堅めたり。」と答ふ。義朝重ねて、
「さては、遙かの弟にこそあれ。汝、兄に向かひて弓を引くことあるべからず。禮儀を知らば、弓を伏せて降參仕れ。」とぞいひける。爲朝、
「兄に向かつて弓引かんことあるべからずとは、道理なり。まさしく父に向かつて弓引きたまふは、いかに。」といひければ、義朝、道理にやつまりけん、そののちは音もせず。
 武藏むさし・相模さがみのつはものども、まつしぐらに打つてかかる。
 爲朝、しばし支へて防ぎけるが、敵は大勢なり、かけへだてられては父のために惡しかりなんと思ひて、門の内へ引く。
 敵これを見て、防ぎかねて引くとや思ひけん、勝ちに乘つて門の際まで攻め寄せ、入れかへ入れかへ、もみ合ひけり。ここに爲朝、敵の勢越しに見れば、大將義朝は、大の男の、大きなる馬には乘つたり、軍の下知せんとて突つ立ちあがりたる内かぶと、まことに射よげに見えたり。願ふところの幸ひと、例の大矢を打ちつがひ、ただ一矢にて射落さんとしけるが、
「待てしばし、弓矢取る身のはかりごと、汝負けばわれをたのめ、われ負けば汝をたのまんなど、父と兄と約束して、敵御方に別れおはすらんか。」と思案して、つがひたる矢をさしはづす。心のうちこそ神妙なれ。
 爲朝、須藤すどうの九郎を呼びて、
「敵は大勢なり、もし矢盡きて打物にならば、一騎が百騎に向かふと も、つひにはかなふべからず。阪東武者のならひとて、大將の前には親死に子討たるるともかへりみず、いやが上にも死に重なつて戰ふと聞く。いざさらば、大將に矢風を負はせ、引き退けんと思ふは、いかに。」といへば、九郎、
「しかるべく候。ただし、御あやまりも候はん。」と申す。
「何とてさることのあらん。爲朝が手並みは、汝も知りたるものを。」とて、例の大矢を打ちつがひ、堅めてひようと射る。思ふねらひをあやまたず、矢はかぶとの星を射けづつて、後なる門の柱にぐざと突き立つたり。
 義朝、手綱かいくり爲朝に向かひ、
「汝は、聞きしにも似ず手こそ荒けれ。」といへば、爲朝、
「兄にておはす上に、思ふところありてわざとかく仕りて候。まことに御許しあらば、二の矢仕らん。」とて、すでに矢取つてつがふところに、上野かうづけの國の住人深巣ふかすの七郎、つとかけ出でければ、爲朝これをはたと射る。
 かぶとの板を筋かひに、左の耳もとへぐざとばかり、矢のなかばまで射込みたれば、七郎はしばしもたまらず死にてけり。
 須藤の九郎つと寄りて、深巣が首を取る。

       十 晴れ間
    
  さみだれの晴れ間うれしく、
    野に立てば
    野はかがやきて、
    白雲を
    通す日影に、
    はや夏の暑さをおぼゆ。

    行く水は少しにごれど、
    せせらぎの 
    音もまさりて、
    よろこびを
    歌ふがごとく、
    行くわれを迎ふるごとし。

    田園のつづく限りは、
    植ゑわたす 
    早苗さなへのみどり。
    山遠く
    心はるばる、
    天地の大いなるかな。

    ふと見れば、道のほとりに、 
    つつましき
    姿を見せて、
    濃きるりの
    色あざやかに、
    咲くものは露草の花。

     十一 雲のさまざま

 澄んだ靑空に、はけで輕くはいたやうな、または眞綿を薄く引き延したやうな白い雲の出るのを、巻雲といひます。
 ごくこまかな氷の結晶の集つたもので、雲の中でもいちばん高く、八千メートルから一萬二千メートルの高さに、浮かんでゐます。
 どこまでもこまやかで、すつきりした感じの雲です。
 天女の輕い舞の袖を思はせるやうな雲です。ところで、この雲がだんだんふえてひろがりだすと、すつきりした感じがなくなつて、形がぼやけて來ます。
 のちには、ごく薄い、白い絹か何かで空をおほつたやうになりますから、俗に薄雲といひます。太陽や月が、大きなかさを着るのはこの雲のかかつた時で、かさの中に星が見えれば天氣、さうでなければ雨だなどといひます。
 とにかく、そろそろ天氣がくづれるなと思はせるのが、この雲です。
 靑空にうろこのやうに群生する白い雲は、さばの斑點はんてんに似てゐるのでさば雲といひ、またこの雲が出るといわしの大漁があるといふので、いわし雲ともいひますが、見たところはさびしい雲です。夜、この雲の續く果に、半月がうつすらとかかつてゐるのは、殊にさうした感じを深くします。
 天候惡變の兆といはれる雲で、そばに黑い雲が龍りゆうのやうに續いてゐる場合には、雨の近いことほとんど受合ひだといひます。
 いわし雲よりぐつと大きな塊になつて、群生する白い雲があります。
 俗にむら雲といつてゐますが、西洋ではよく牧場の群羊にたとへます。
 靑空に綿を大きくちぎつて、あとからあとから投げ出したやうで、なかなか盛んな感じのする雲です。いわし雲がぐんぐんふえて來ると、空一帶が灰色になつて、何だか頭を押さへつけられさうになります。
 太陽でも月でも、おぼろにしか見えません。
 照りもせず曇りもはてぬ春の夜のおぼろ月とは、かういふ雲のかかつた場合ですが、このおぼろ雲は、天候の前兆としてはいよいよ惡い方だといひます。
 むら雲・おぼろ雲は、巻雲や、薄雲・いわし雲などより低く、四五千メートルのところに浮かんでゐます。靑空に、薄黑い雲がみなぎることがあります。
 雨雲に似てゐますが、ところどころに靑空が見え、雲の端々が白く見えて、その間から日光がもれたりします。
 もくもくと大きくかたまつたり、また時にそれが畠のうねのやうに、天の一方から他方へ幾條か連なつたりすることがあります。
 曇り雲とか、ね雲とかいはれる雲です。雨雲はきまつた形がなく、空いつぱいに薄黑くおほふもので、亂雲と呼ばれてゐます。
 いちばん陰氣で、いやな感じの雲であることはいふまでもありません。
 曇り雲と同じく、二千メートル以下にある雲です。
 雨の降つたあげく、山の間などから流れるやうにすべり出る白い雲は、層雲といつて、雲の中でもいちばん低い雲です。
 高さは五百メートルぐらゐですから、まつたく手に取れさうに見えます。
 天氣のよい日、底が平で、上が山の峯のやうに積みあがつた形に現れる白い雲は、積雲といひますが、夏の日など、峯が恐しいほどむくむくとふくれあがつたのは、俗にいふ入道雲です。
 強烈な日光に照らされた入道雲が、まぶしいほど、銀白色または銀鼠ぎんねず色にかがやくのを見ると、雲の王者といひたい感じがします。
 俳句で「雲の峯」といふのも、この入道雲です。
 積雲は二千メートル以下の高さですが、入道雲の頂になると、六千メートルから八千メートルの高さになります。その頂が開いたのは、朝顔雲とか、かなとこ雲とかいつて、雷雨を起したり、時にひようを降らしたりします。
 一天にはかに墨を流したやうに曇つて、天地も暗くなるのは、かうしたすばらしく厚い雲によつて、日光がさへぎられるからです。
 巻雲のかぼそい女性的な美しさに比べると、積雲や、入道雲や、かなとこ雲は、いかにも壯大で、強烈で、男性的です。

     十二 山の朝

 ふと、目がさめる。
 遠くの方から、小鳥の聲が枕もとへ流れるやうに聞えて來る。まだ、なかば眠りからさめない心のうちに、山の夜明けだといふことが浮かぶ。
 はね起きて窓を開いた。
 つめたい空氣が、吸ひつけられるやうに室の中へしのびこむ。首筋に水晶のはけがさはつたやうなつめたさである。まだ、朝の太陽はのぼつてゐない。
 薄明の天地の中で、山々の薄黑い姿が、だまつて眠つてゐる。
 山小屋の重い戸びらを音もなく開き、素足すあしに草履ざうりをはいて、露深い草の小道におり立つ。生き生きとした小鳥の聲が、あたりの靜けさをふるはせて、頭の上から降り注いで來る。このにぎやかな聲の絶え間を縫つて、どこからともなく、つつましやかな小川のせせらぎの音が、かすかに聞えて來る。
 山からわき流れる清水しみづが、かけひをまつしぐらにかけ拔けて通る。
 玉のやうな、清らかな水を兩手にすくひあげると、こほりつくやうなつめたさが全身にしみとほる。この水で口をすすぎ顔を洗ふと、心の底までが清められるやうな氣持がする。胸を張つて、思ひきり深く朝の山の空氣を吸ふ。
 山小屋の前の小道をくだつて行くと、そよ風が頬ほほにここちよい。
 なら・かへで・ぶな・くりなどの木々が茂り合つて、頭の上を自然の天蓋てんがいでかざつてくれる。
 夜明けに近い薄あかりが、重なり合つた葉の層を通して落ちて來る。
 緑色のガラスを張りめぐらした部屋の中に、たたずんでゐるやうである。
 一々の鳴き聲を聞きわけることができないやうに、鳥の聲がにぎやかに聞えて來る。短い鋭さの中にも、どこかやさしさのある小鳥の聲に混つて、太く口の中でふくんだやうに鳴く山鳩の聲が聞えて來る。
 その間を際立つてくつきりと、うぐひすの聲がころがるやうに續いて走る。
 この美しい木々の緑と、さわやかな鳥の聲のごちそうを前にして、しんせつな山のお招きの席に、しばらくは、すべてを忘れて立つてゐた。林の中を、奥へ奥へと進んで行くにしたがつて、小川のせせらぎはだんだん高く聞えて來る。
 林を出はづれて、頭の上の緑のおほひが盡きてしまつた時、いつのまにのぼつたのか、朝の日の光が、石を噛んで流れる水の上にをどつてゐる。
 危ふげにかけ渡された一本の丸木橋の上を、靜かに渡る。この丸木橋に立つて、朝の太陽の前に身じまひを正し始めた高い山々の針葉樹林を見あげる。きりのやうにとがつた梢の先を天に向けて眞直に立つものは、かうやまきである。ふさふさした枝の冠かんむりをいただいて立つてゐるのは、檜ひのきである。
 この深山みやまの朝の靈氣にふれるため、私はここまでのぼつて來たのだ。

     十三 燕岳つばくろだけに登る

「出發。」
 山田先生の聲が、中房なかぶさ温泉旅館の庭に勇ましく響き渡つた。
 午前七時である。きのふの雨はからりと晴れて、太陽は、ほがらかにこの温泉の谷間を照らしてゐる。
 ルックサック・水筒すゐとう・金剛こんがう杖の身支度もかひがひしく、ぼくらは、小鳥のやうにをどる胸を押さへながら、つり橋を渡つた。ごうごうと鳴る激流の上に、高い橋がぐらぐら動くのが、愉快でたまらなかつた。
 道はすぐ登りになる。かちりかちりと、杖が岩に鳴つた。
 前の人の足あとをふみしめるやうに、一歩一歩登つて行く。せまい道の兩側には、大きなささが、ぼくらの頭をおほふくらゐ高く茂つてゐた。
 岩角が出、木の根が横たはつてゐる。
「氣をつけろよ。」と、前の方で聲がする。額も、せなかも、汗ばんで來た。
 はずむ呼吸が、前にも後にもはつきり聞かれる。
 かうして、つづら折りの明かるい山道を、あへぎあへぎ登つた。時々みおろす谷底に、さつき出發した温泉宿が、だんだん小さくなつて行く。
 谷川が、下で遠く鳴つてゐる。つい向かふに、ぐつと見あげるほどそびえ立つてゐるのが、有明ありあけ山である。
「今日は、あの山よりもつと高く登るのだぞ。」と、石川先生がいはれた。
 まばらな濶葉くわつえふ樹林を通して、太陽がじりじりと照りつける。帽子の下からわき出る汗が、顔を傳つて流れ落ちる。息が苦しいほどはずむ。
「先生、休んでください。」と、後の方でいつしか悲鳴をあげる。
「もう少しがんばれ。」と、前の方でまぜかへす。
 まもなく、ぴりぴりとうれしい笛が鳴つた。
 みんなは待つてゐたやうに、そこらへ腰をおろして汗をふく。
 水筒の水を飲むと、のどがごくりと鳴つた。
 木の間では、うぐひすが鳴いてゐる。
 谷底から吹きあげる風が、はだに快く感じる。
 そろそろ、針葉樹が現れて來た。
 やがて、針葉樹の密林へはいると、急に快い涼しさを覺える。時に「さうしかんば」のはだが、梢からもれる太陽の光に映じて、薄暗い中に銀色に光る。
 道はいくぶんなだらかになつたり、またぐつと急になつたりする。
 きのふの雨でじめじめしてうつかりすると足がすべる。
 木の根、岩角を數へるやうに、ふみしめふみしめ登つた。
「あと四キロだ。」と先頭で叫ぶ。
 道標の數字がしだいにへつて行くのが、力と頼まれる。
 時々休んでは、また勇氣を振るひ起す。
 植物に、變つたものがあるやうになつた。
 葉がふぢに似た「ななかまど」や、大木から長くひげのやうにぶらさがる「さるをがせ」などを、石川先生に敎へてもらつた。
 かはいい桃色の「いはかがみ」の花を、道端に見つけるのが樂しみであつた。
 あたりにだんだん霧がわいて來て、大木の幹を、かなたへかなたへと薄く見せた。耳を澄ますと、遠く近く、さまざまの小鳥のさへづりが聞かれる。
 かうして、とうとう合戰小屋にたどり着いたのが午前十一時、みんなはずゐぶんつかれてゐた。ここで辨當をたべる、そのおいしいこと。
 空がしだいに曇つて來た。霧もだんだん深くなる。しかし、小屋の人は、
「天氣は大丈夫です。」と、先生たちにいつてゐた。
 それからも、しばらく道が急だつた。
 霧の間に、「さうしかんば」の林が續く。
 道端には、ささがめづらしく花をつけてゐた。
 いつのまにか大木が少くなつて、せいの低い細い木が目につくやうになつた。つひにはそれもなくなつたと思ふと、眼界が急に開けて、山腹の斜面に、低い緑の「はひまつ」が波のやうに續いて見えた。みんなが、わいわい歡聲をあげた。
 道は、ややなだらかになつた。
「三角點。」といふ聲がする。ぼくらは、胸がをどつた。
 やや廣く平なところに、三角點を示す石があつた。
 そばに腰掛が何臺かある。中房温泉から四・六キロと記した道標が立つてゐる。頂上まであと二キロだ。晴れてゐれば、ここから、今登らうとする燕の絶頂も、槍岳やりがたけその他の山々も見えるさうだが、今日は何も見えない。
 行手の道も「はひまつ」も、すべて夢のやうに霧の中に薄れてゐる。
 ただ、天地がいかにも明かるかつた。
 それからは尾根傳ひに、なだらかな道が續いた。
 薄日がぽかぽかとせなかを温める。
 道端は、「いはかがみ」の花盛りであつた。
 小さなすみれや、蘭らんもところどころに咲いてゐる。
 どれもこれも、すき通るほどあざやかな色であつた。
 ふと「はひまつ」の間に、高さ一メートルにも足らない「たかねざくら」が、今を盛りと咲いてゐるのを見た。眞夏に櫻の滿開である。
「山は、今春なのだ。」と、石川先生がいはれた。
 みつばちが、盛んに花から花へ飛んでゐた。
 行くにしたがつて、花は美しかつた。
 右手に見おろす斜面に咲き續く黄色な花は、大きなのが「しなのきんばい」、小さなのが「みやまきんぽうげ」であつた。その間々に、白い「はくさんいちげ」や、深紅の「べにばないちご」などが、點々と入り亂れてゐた。
 お花畠は、まるで滿天の星のやうに美しかつた。
 その邊から、ところどころに殘雪があつた。
 みんなが、うれしがつて雪をすくつた。
 つひに、霧の中に近く山小屋を見あげるところへ來た。
 下から風が強く吹きあげる。
 足もとには、かなり大きな雪溪せつけいが見おろされた。
 先頭は、もう山小屋の右下の鞍部あんぶにたどり着いた。
「早く來い。向かふは晴れて、山がすてきだぞ。」と、だれかが帽子を振りながら、ぼくらに叫んでゐる。やがてそこへ登り着いたぼくらは、何といふすばらしい景色を、西の方に見渡したことであらう。
 左端の穗高に續いて、槍岳が、それこそ天を突く槍の穗先のやうに突き立つてゐる。更に右へ右へとのびる飛騨ひだ山脈が、蓮華れんげ・鷲羽わしは・水晶・五郎と、大波のやうに、屏風びやうぶのやうに、紫紺のはだあざやかにそそり立ち、うねり續く雄大莊嚴な姿。ところどころに白雲がただよつて、中腹をおほひ、峯をかくし、谷々の雪溪と相映じて、山々を奥深く見せる。
 ぼくらが今立つてゐるところと向かふの山脈との間は、千丈の谷となつて、その底に高瀬たかせ川の鳴つてゐるのが、かすかに聞えて來る。
 この大自然がくりひろげる景觀に打たれて、ぼくらは、ほとんど一種の興奮を感じるほどであつた。そこから右へ縱走して、燕の絶頂をめざした。
 馬の背のやうに、峯傳ひの道が續いてゐた。ややもするとくづれようとする砂と岩との間を、「はひまつ」にすがりながら進んだ。右下から吹きあげる風は、もうもうと雲を巻きあげて、それがこの尾根を界に消散する。
 それは、ふしぎに思へるほどはつきりとしてゐた。
 左は、急な斜面が神祕な谷底へ深く落ち込んでゐる。
 とうとう、燕の絶頂が來た。
 それは、大空の一角にそそり立つ御影石の岩塊である。
 そこは、十人とは乘れないほどせまかつた。
 今こそ、二千七百六十三メートルの最高點に立つたのである。さつきの槍岳が、「ここまでお出で。」といふやうに、しかしいかにも嚴然とそびえてゐる。
 あの絶頂へ登る傾斜は、少くとも四十五度以上はあらう。
「あんな山へ登れる人があるのかなあ。」といふと、元氣な山田先生は、
「もう二三年たつたら、きみたちも槍へ登れるよ。」といはれた。
 東も北も一帶に雲がとざして、ぼくらの村はもとより、富士・淺間白馬しろうま・立山等の姿を見ないのが、まつたく殘念であつた。
 午後二時、下山の途についた。「山は廣い。」と、ぼくはつくづく思つた。
 さうして何年かののちに、きつとあの槍に登らうといふ希望をいだきながら、山をくだつた。

    十四 北千島の漁場

 北海道本島でにしんの漁期の終る五月下旬から、そろそろ北千島の漁場が活氣を帶びて來る。その前後けなげにも、十人乘りそこそこの發動機船が、本島をあとに、六百海里の北を望んで、續々と出て行く姿を見るであらう。
 幸ひにしてこのころは、割合ひなぎの日が多い。ここ北千島の一角を根據地とする二百隻の流し網出漁船は、いま出動準備の最中である。
 發動機の調子をしらべたり、網の支度をしたり、特に船長たちは、晴雨計と空模樣もやうを熱心に見比べてゐる。
 見渡す限りは、午後の靜かな海である。
 やがて、船は爆音高く根據地を出て行く。
 思ひ思ひに沖へ快走してかれこれ三時間、もつぱらさけやますの泳ぎまはつてゐさうな場所をさがして、投網にかかる。
 ぐつと速度を落しながら一直線に進む船のともから、網がしだいにくり出されて、その長さが約五千メートル。この作業が終るころは、日沒のおそい北洋にも夕暮がだんだんせまつて、濃霧が一面に立ちこめる。
 たまたま、遠くからただよふやうに汽笛が聞えて來るのは、カムチャッカ沿岸へ行く汽船であらうか。一種のあこがれに似たなつかしさを覺えさせる。
「網の綱をしつかりつないでおくんだぞ。今夜はなぎらしいが、水温や潮の流れはどうだい。」
「水温は紅ますに適度、潮の流れは餘り速くないやうです。」
「ゆうべより少し沖へ出たな。きつと大れふだぞ。」
 濃霧がもうもうと立ちこめて、網の綱の端につけた目じるしのランプも、光がぼんやりと見える。船は發動機を止めたまま、網もろともに、夜明けまで潮のまにまに任せるのである。かうして、北洋にただよふ小船のせま苦しい船室に、しばしの夢が結ばれる。
 午前二時ごろ、もう東の空が白み始める。
「おい、網をあげるんだ。」
 船長の聲に、防水具に身を固めた若者たちが、船室から出て來る。
 明け方の風は、いやといふほどつめたい。
「よいしよ、こらしよ。」
 元氣のよい掛聲だ。網を引きあげる片端から、海面にさざ波が起る。
 網の糸も切れるばかり、大きなますや、さけがかかつてゐるのだ。
 力強くたぐりながら、なれた手つきで魚をはづす。
 見る見る甲板かんぱんはます・さけの山。
 かうした作業が五時間も續いて、一萬尾に近い漁獲に船は滿載である。
 濃霧がだんだん薄れて、太陽が洋上ににぶい光を投げかける。
 船は、思ひ切り吃水きつすゐ深く、殘雪をいただく島山の峯を目當てに、根據地へと波を切つて行く。

        十五 われは海の子

    われは海の子、白波の
  さわぐいそべの松原に、
  煙たなびくとまやこそ、
  わがなつかしき住みかなれ。

  生まれて潮にゆあみして、
  波を子守の歌と聞き、
  千里寄せくる海の氣を
  吸ひて童となりにけり。

  高く鼻つくいその香に、
  不斷ふだんの花のかをりあり。
  なぎさの松に吹く風を、
  いみじき樂とわれは聞く。

  丈餘のろかい操りて、
  ゆくて定めぬ波まくら、
  ももひろちひろ海の底、
  遊びなれたる庭廣し。

  いくとせここにきたへたる
  鐵より堅きかひなあり。
  吹く潮風に黑みたる
  はだは赤銅しやくどうさながらに。

  波にただよふ氷山も、
  來たらば來たれ、恐れんや。
  海巻きあぐる龍巻も
  起らば起れ、おどろかじ。

  いで大船を乘り出して、
  われは拾はん海の富。
  いで軍艦に乘り組みて、
  われは護らん海の國。

     十六 月光の曲

 ドイツの有名な音樂家ベートーベンが、まだ若い時のことであつた。
 月のさえた夜、友人と二人町へ散歩に出て、薄暗い小路を通り、ある小さなみすぼらしい家の前まで來ると、中からピヤノの音が聞える。
「ああ、あれはぼくの作つた曲だ。聞きたまへ。
 なかなかうまいではないか。」
 かれは、突然かういつて足を止めた。
 二人は戸外にたたずんで、しばらく耳を澄ましてゐたが、やがてピヤノの音がはたとやんで、
「にいさん、まあ何といふいい曲なんでせう。私には、もうとてもひけません。ほんたうに一度でもいいから、演奏會へ行つて聞いてみたい。」と、さも情なささうにいつてゐるのは、若い女の聲である。
「そんなことをいつたつて仕方がない。家賃さへも拂へない今の身の上ではないか。」と、兄の聲。
「はいつてみよう。さうして一曲ひいてやらう。」
 ベートーベンは、急に戸をあけてはいつて行つた。
 友人も續いてはいつた。
 薄暗いらふそくの火のもとで、色の靑い元氣のなささうな若い男が、靴を縫つてゐる。そのそばにある舊式のピヤノによりかかつてゐるのは、妹であらう。
 二人は、不意の來客に、さも驚いたらしいやうすである。
「ごめんください。私は音樂家ですが、おもしろさについつり込まれてまゐりました。」と、ベートーベンがいつた。
 妹の顔は、さつと赤くなつた。
 兄は、むつつりとして、やや當惑たうわくのやうすである。
 ベートーベンも、われながら餘りだしぬけだと思つたらしく、口ごもりながら、
「實はその、今ちよつと門口で聞いたのですが──あなたは、演奏會へ行つてみたいとかいふことでしたね。
 まあ、一曲ひかせていただきませう。」
 そのいひ方がいかにもをかしかつたので、いつた者も聞いた者も、思はずにつこりした。
「ありがたうございます。しかし、まことに粗末なピヤノで、それに樂譜もございませんが。」と、兄がいふ。ベートーベンは、
「え、樂譜がない。」といひさしてふと見ると、かはいさうに妹は盲人である。
「いや、これでたくさんです。」といひながら、ベートーベンはピヤノの前に腰を掛けて、すぐにひき始めた。
 その最初の一音が、すでにきやうだいの耳にはふしぎに響いた。
 ベートーベンの兩眼は異樣にかがやいて、その身には、にはかに何者かが乘り移つたやう。
 一音は一音より妙を加へ神に入つて、何をひいてゐるか、かれ自身にもわからないやうである。
 きやうだいは、ただうつとりとして感に打たれてゐる。
 ベートーベンの友人も、まつたくわれを忘れて、一同夢に夢見るここち。
 折からともし火がぱつと明かるくなつたと思ふと、ゆらゆらと動いて消えてしまつた。ベートーベンは、ひく手をやめた。
 友人がそつと立つて窓の戸をあけると、清い月の光が流れるやうに入り込んで、ピヤノのひき手の顔を照らした。
 しかし、ベートーベンは、ただだまつてうなだれてゐる。
 しばらくして、兄は恐る恐る近寄つて、
「いつたい、あなたはどういふお方でございますか。」
「まあ、待つてください。」
 ベートーベンはかういつて、さつき娘がひいてゐた曲をまたひき始めた。
「ああ、あなたはベートーベン先生ですか。」
 きやうだいは思はず叫んだ。
 ひき終ると、ベートーベンは、つと立ちあがつた。三人は、
「どうかもう一曲。」としきりに頼んだ。
 かれは、再びピヤノの前に腰をおろした。
 月は、ますますさえ渡つて來る。
「それでは、この月の光を題に一曲。」といつて、かれはしばらく澄みきつた空を眺めてゐたが、やがて指がピヤノにふれたと思ふと、やさしい沈んだ調べは、ちやうど東の空にのぼる月が、しだいにやみの世界を照らすやう、一轉すると、今度はいかにもものすごい、いはば奇怪な物の精が寄り集つて、夜の芝生しばふにをどるやう、最後はまた急流の岩に激し、荒波の岩に碎けるやうな調べに、三人の心は、驚きと感激でいつぱいになつて、ただぼうつとして、ひき終つたのも氣づかないくらゐ。
「さやうなら。」
 ベートーベンは立つて出かけた。
「先生、またおいでくださいませうか。」
 きやうだいは、口をそろへていつた。
「まゐりませう。」
 ベートーベンは、ちよつとふり返つてその娘を見た。
 かれは、急いで家へ歸つた。さうして、その夜はまんじりともせず机に向かつて、かの曲を譜に書きあげた。
 ベートーベンの「月光の曲」といつて、不朽の名聲を博したのはこの曲である。

     十七 いけ花

 まさえさん、この間は、お手紙をありがたうございました。
 おとうさんも、おかあさんも、お元氣ださうで安心しました。
 こんなに遠く離れてゐると、うちのことが何よりも知りたいのですよ。
 私も、こちらへ來てからもう一年近くなりますが、これまで病氣一つしませんでした。毎日毎日畠へ出て働いてゐることが、私をこんなに丈夫にしてくれたのでせう。それとも、大陸の氣候が私に合ふのかも知れません。
 この一年間は、何を見ても、何をしても、始めてのものばかりで、めづらしいやら樂しいやら、まるで夢のやうに過して來ました。
 この春植ゑつけた野菜類は、たいそうよくできて、この間一部分だけ收穫しました。その時にうつした寫眞を同封しておきましたから、見てください。
 いろいろな野菜がありますから、何だかあててごらんなさい。
 お手紙によると、このごろまさえさんは、熱心にいけ花のおけいこをしてゐるさうですね。せんだつて、おかあさんからのお手紙にも、そのことが書きそへてありました。私のおいて來た花ばさみや花器などが、そつくりまさえさんの手で、かはいがられてゐると思ふと、たいそううれしい氣がします。
 私もいけ花がすきなので、いそがしい中にも、ずつと續けてやつてゐます。
 つい四五日前も、野原でききやうの花を見つけたので、それを摘んで來ていけてみました。こんなにして野の草花をいけたりすると、その昔、まさえさんと二人で、野原へ花摘みに行つた時のことが、なつかしく思ひ出されました。
「はらんを、何度も何度もいけるのは、あきてしまひました。」と書いてありましたが、あれは、いけ花のいちばんもとになるものですから、しつかりとおけいこをしておかなければなりませんよ。
 何を覺えるにしても、そのもとをのみこむことが大切だと思ひます。もとといつても、形ばかりでなく、いつも自分の心がこもつてゐなければなりません。
 いけ花ほど、いける人の氣持のよく現れるものはないと、自分ながらびつくりすることがあります。例へば、何か氣にさはることがあつて心の落ち着かない時には、いくらいけようと思つても、花はいふことをききません。
 晴れ晴れとして心の樂しい時には、花の方から、進んで動いてくれます。
 さうして、できあがつたものにも、その時、その人の氣持が、そつくりそのまま現れるやうに思はれます。
 いつか隣りのお子さんをつれて、ニュース映畫を見に行きました。
 映畫の中に、日本の兵隊さんが、山の谷あひを長い列になつて、進軍して行くところが寫りました。
 みんな銃をかついで、重さうな背嚢はいなうを背負つて歩いてゐました。
 よく見ると肩のところに、野菊の枝をつけてゐる兵隊さんがゐました。
 それも一人でなく、何人も何人も、つけてゐました。
 あの強い日本の兵隊さんが、こんなものやさしい心を持つてゐられるのかと、ふと思ひました。さうして、ほんたうに勇ましい人の心の中には、かうしたやさしい情がこもつてゐるのだと考へさせられました。
 それでこそ、世界の人々をびつくりさせるやうな大東亞戰爭を、戰ひぬくことができるに違ひありません。それにつけても日本の女たちは、もつともつと心をやさしくし、心を美しくしたいものだと、つくづく思ひました。
 どうかまさえさんも、いけ花をみつしりけいこして、日本の少女らしい、つつましやかな心を育ててください。
 今、こちらはいちばんよい時候で、空がどこまでも高く澄んでゐます。
 では、おとうさんとおかあさんに、よろしくお傳へください。さやうなら。

     十八 ゆかしい心

      長唄ながうた
 第一線のある夜のことであつた。ラジオを敵の陣地へ放送する宣傳班員は、ざんがうの暗がりの中で、擴聲器の點檢をしてゐた。
 そのうち偶然にも、東京放送局からの電波がはいつて來た。
 長唄の調べである。
「フィリピンのざんがうの中で、日本の長唄を聞くなんて、うれしいことだね。」と、みんなはにこにこしながら、長唄の音に耳を傾けてゐた。

      猫
 澄みきつた大空のもとに、ナチブ山が靑々とそびえてゐる。
 ナチブ山の項には敵の砲兵觀測所があるが、山全體が熱帶の森林におほはれてゐるので、飛行機からの偵察でもはつきりわからない。まして平原にある友軍陣地からは、それがどの邊にあるか、ほとんど見當がつかない。
 バランガへ通じる白い道は、その觀測所から手に取るやうに見えるので、わが軍の貨物自動車は、一臺一臺正確な射撃にみまはれる。しかし、この道以外に部隊の進撃路はないので、どうしてもこの難關を突破しなければならない。
 トラックや戰車は、全部木かげにかくして、敵の砲撃の目標になることを避けてゐる。みかたの砲兵は、畠の中へずらりと放列をしいて、ナチブ山の頂をにらんでゐる。このはりつめた第一線の陣中で、ふと猫の鳴き聲を耳にした。
 こんなところに猫がゐるはずはないと思つて、あたりを見まはすと、かたはらの貨物自動車の上に、三毛猫がうずくまつてゐる。
 兵隊さんが、どこからかつれて來て、かはいがつてゐる猫であつた。

      俳 句
 第一線に近い宿營に、待機してゐた時のことであつた。
 すぐ隣りの宿營にゐた一人の兵隊さんが、俳句を作つたから見てくれといつて、夜中にやつて來た。夜、燈火を用ひることは堅く禁じられてゐるので、窓から流れ込む空の明かるさで、兵隊さんの顔もやつとわかるほどであつた。
 兵隊さんがさし出す紙切れを手に取つて、一字一字薄あかりにすかしながら讀んだ。
 彈の下草もえ出づる土嚢どなうかな
 密林をきり開いては進む雲の峯
といふ二句であつた。四十近いこの兵隊さんは、前線への出發を明日に控へながら、その前夜、自作の俳句を讀んでくれと、わざわざやつて來たのである。
「陣中新聞に發表してはどうですか。」とすすめると、
「いや、そんな氣持はありません。」と答へた。
「あなたの名前は。」とたづねても、だまつたまま笑つてゐた。兵隊さんは、俳句を讀んでもらつた滿足を感謝のことばに表して、部屋から出て行つた。

     十九 朝顔に

                 千代ちよ
 朝顔につるべ取られてもらひ水
 木から物のこぼるる音や秋の風
 何着ても美しうなる月見かな
 ころぶ人を笑うてころぶ雪見かな

                 一茶いつさ
 雀の子そこのけそこのけお馬が通る
 やせ蛙まけるな一茶これにあり
 やれ打つなはへが手をする足をする

     二十 古事記

 元明天皇の勅命によつて、太安萬侶おほのやすまろは、稗田阿禮ひえだのあれがそらんじるわが國の古傳を、文字に書き表すことになつた。
 阿禮は、記憶力の非凡な人であつた。
 かれが天武天皇の仰せによつて、わが國の正しい古記録を讀み、古いいひ傳へをそらんじ始めたのは、三十餘年前のことである。當時二十八歳の若盛りであつた阿禮が、今ではもう六十近い老人になつた。
 この人がなくなつたら、わが國の正しい古傳、つまり神代以來の尊い歴史も文學も、その死とともに傳はらないでしまふかも知れないのであつた。
 勅命の下つたことを承つた阿禮は、それこそ天にものぼるここちであつたらう。さうして、長い長い物語を讀みあげるのに、ほとんど心魂をささげ盡くしたことであらう。ところで、これを文字に書き表す安萬侶の苦心は、それにも増して大きいものであつた。
 そのころは、まだかたかなもひらがなもなかつた。
 文字といへば漢字ばかりで、文章といへば、漢文が普通であつた。
 しかるに、阿禮の語るところは、すべてわが國の古いことばである。
 わが國の古語を、漢字ばかりでそのままに書き表すことが、安萬侶に取つての大きな苦心であつた。
 試みに、今日もし、かたかなもひらがなもないとして、漢字ばかりで、われわれの日常使ふことばを書き表さうとしたら、どうなるであらう。
 「クサキハアヲイ」といふのを漢字だけで書けば、さし當り「草木靑」と書いて滿足しなければなるまい。
 しかし、これでは、漢文流に「サウモクアヲシ」と讀むこともできる。
 そこで、ほんたうに間違ひなく讀ませるためには、「久佐幾波阿遠以(クサキハアヲイ)」とでも書かなければならなくなる。
 だが、これではまたあまりに長過ぎて、讀むのにかへつて不便である。
 安萬侶は、いろいろの方法を用ひた。例へば、「アメツチ」といふのを「天地」と書き、「クラゲ」といふのを「久羅下(クラゲ)」と書いた。
 前者は「クサキ」を「草木」と書くのと同じであり。
 後者は「久佐幾」と書くのと同じである。
 「ハヤスサノヲノミコト」といふのを「速須佐之男命(ハヤスサノヲノミコト)」としたのは、「草木」と「久佐幾」と二つの方法をいつしよにしたのである。
 これらは名前であるから、割合ひ簡單でもあらうが、長い文章になると、その苦心は一通りのことでなかつた。しかし、かうした苦心はやがて報いられて、阿禮の語るところは、ことばそのまま文字に書き表された。
 安萬侶はこれを三巻の書物にまとめて、天皇に奉つた。
 古事記といつて、わが國でも最も古い書物の一つになつてゐる。
 和銅わどう五年正月二十八日、今から一千二百餘年の昔のことである。
 天の岩屋、八岐やまたのをろち、大國主神、ににぎのみこと、つりばりの行くへ等の神代の尊い物語を始め、神武天皇や日本武尊やまとたけるのみことの御事蹟、その他古代のいひ傳へが、古事記に載せられて今日に傳はつてゐる。
 それは、要するにわが國初以來の尊い歴史であり、文學である。殊に大切なことは、かうしてわが國の古傳が、古語のままに殘つたことである。
 古語には、わが古代國民の精神がとけ込んでゐる。われわれは今日古事記を讀んで、國初以來の歴史を知るとともに、そのことばを通して、古代日本人の精神を、ありありと讀むことができるのである。

     二十一 御民われ

 御民われ生けるしるしあり天地の榮ゆる時にあへらく思へば
 天地の榮えるこの大御代に生まれ合はせたのを思ふと、一臣民である自分も、しみじみと生きがひを感じるとよんでゐます。
 その大きな、力強い調子に、古代のわが國民の素朴な喜びがみなぎつてゐます。
 昭和の聖代に生をうけた私たちは、この歌を口ずさんで、更に新しい喜びを感じるのであります。
 ひさかたの光のどけき春の日にしづこころなく花の散るらん
 のどかな春の日の光の中に、あわただしく散つて行く櫻の花をよんだ歌で、優美の極みであります。平安時代の大宮人たちは、かうした心持を心ゆくまで味はつて、都の春を樂しんだのでした。
 箱根路をわが越えくれば伊豆いづの海や沖の小島に波のよる見ゆ
 源實朝みなもとのさねともは、鎌倉かまくら時代のすぐれた歌人でありました。
 箱根山から伊豆山へ越えて行くと、向かふの沖の初島はつしまに、白い波が打ち寄せてゐるのが見えるといふ、繪のやうな歌です。
 敷島のやまとごころを人とはば朝日ににほふやまざくら花
 さしのぼる朝日の光に輝いて、らんまんと咲きにほふ山櫻の花は、いかにもわがやまと魂をよく表してゐます。本居宣長もとをりのりながは、江戸時代の有名な學者で、古事記傳を大成して、わが國民精神の發揚につとめました。
 まことにこの人にふさはしい歌であります。
 ひとつもて君を祝はんひとつもて親を祝はんふたもとある松
 明治時代の學者であり、歌人であつた落合直文おちあひなほぶみが、元旦に門松をよんだ歌です。二本の門松のうち、その一本を以て聖壽の萬歳を祝し奉り、その一本を以て親の長壽を祈らうといふ意味で、新年に持つわれわれ日本人の心持が、すらすらと品よくよみ出されてゐます。私たちはこの歌を聲高く讀んで、その何ともいへないほがらかな、つつましい心を味はひたいものです。

   碎 塊 豫 粒 装 宿 粗 彼 我 慈 袖 控
   化 述 謙 遜 混 適 至 誠 夢 才 偉 扇
   雀 佛 櫛 誌 此 算 損 如 紺 熊 略 遙
   綱 限 濃 晶 絹 兆 羊 曇 層 俳 性 緑
   鳩 樹 登 泉 霧 辨 莊 奮 秘 旬 據 沿
   獲 載 童 龍 賃 譜 盲 奇 怪 穫 封 摘
   擴 偶 偵 憶 凡 録 蹟 朴 優 輝 揚 旦
   壽

    附 録

    一 ジャワ風景

     一
 自動車に乘つて、タンジョン・プリヨクの港から、ジャカルタの町へ向かつて行く。道は運河にそつてゐる。運河には、いろいろな模樣もやうをかいた小さな船が、三角の帆をあげて靜かに浮かんでゐる。
 野原には、山羊やぎの群があちらこちらにゐる。
 眞靑な空には、白い雲が光を帶びて流れてゐる。
 自動車の運轉手は、若いジャワ人で、びろうどのづきんをかぶり、風のやうな速さでタマリンドの並木路を走り續ける。
 その緑の木かげにも、山羊の群がたくさんゐる。
 白い山羊もゐれば、黑いのもゐる。まだらの山羊もゐる。
 これを追つてゐるのは、みんなジャワの少年たちであつた。
     二
 ジャワは、果物くだものの島。果物の女王と呼ばれるマンゴスチンがある。
 形は、まくはうりのやうで、味は、熟し柿そつくりのマンゴーがある。
 じやがいものやうなかつかうで砂糖のやうにあまいサオ、一面にとげの生えた鬼の頭のやうなドリヤン。
 世界でいちばん大きな果物といはれるノンコの實もある。
 そのほか、パイナップルや、ザボンや、パパイヤなどもあつて、それが、みんな目のさめるほどみごとなものばかりである。
 バナナに至つては、その種類の多いことだけでもびつくりさせられる。
     三 
 ジャワ人たちは、男でも女でも、サロンを腰に巻いてゐる。
 いはゆるジャワ更紗さらさで、赤や靑や緑などで、花鳥くわてうを染め出したはなやかなものが、いつぱんに用ひられてゐる。
     四
  中央ジャワの高原にあるマゲランといふ町へ行く。
 さわやかな山道を、汽車は鐘を鳴らしながら登る。小さな山の驛に着くたびに、かごを頭に載せた女たちが、窓のところへ物賣りにやつて來る。ばせうの葉に包んだ御飯や、バナナのあげものや、山羊やぎの燒肉などがある。
 葉に包んだ御飯は、日本のかしは餅を思はせる。
 高原にも牛や羊ひつじや水牛がゐる。
 スチャンといふ驛で乘りかへた時、ジャワ人の品のよい一家族が乘つて來た。
 その靜かなたちゐふるまひを見て、このあたりがいちばんジャワらしい風習の殘つてゐるところだといふことを思ふ。
 百年ばかり前、ジャワが、オランダと戰つたことがある。
 その時、ジャワの英雄ジポ・ヌガラが現れて、五年間も守り續けた。
 その英雄を生んだのが、この地方である。まもなく、汽車はマゲランの町にはいり、市内電車のやうに町の中をどんどん走る。
 止つたところは商店街の眞中である。その夜は、高原の町マゲランにとまる。
 虫の聲を聞きながら、遠くムラピ山から立ちのぼる赤い火を眺めた。

    二 ビスマルク諸島

       ニューアイルランド島
 汽船に乘つて、わ南洋のトラック島を出發し、眞南へくだつて行くと、一日半ぐらゐで赤道に達する。
 それからまた一日半ぐらゐ南へ航海を續けると、一つの島が見えて來る。
 ニューアイルランド島である。汽船をこの島へ寄せるとしたならば、だれでもその北端にあるカビエングといふ港をえらぶであらう。
 そこには、緑靑ろくしやうを薄くとかして流したやうな、美しい靜かな海が奥深く入り込み、目もさめるやうな緑の葉の椰子やしの木や、鳳凰木はうわうぼくなどが茂り、その間に、眞赤な佛桑華ぶつさうげの花が咲き亂れてゐる。
 空は紺靑こんじやうに澄み渡り、せたけの十倍二十倍もある樹木のかげを行くと、梢には赤・黄・靑などの美しい羽をしたいろいろな小鳥が、聞きなれない鳴き聲をして飛びまはつてゐる。
 黄色に熟したレモンが鈴すずなりになつてゐる畠の向かふには、靑いパパイヤが、手を延せばとどきさうなところに、千なりべうたんのやうにぶらさがつてゐる。パイナップルも、道のすぐそばで、にこにこした顔を見せてゐるし、南洋りんごと呼ばれる小さなトマトぐらゐの大きさの實の生つてゐる木が、早くたべてくださいといはんばかりに、往來まで枝をさしのべてゐる。
 もぎ取つて口へ入れると、かすかすと齒ごたへがして、乾ききつたのどへ、あまずつぱい汁が流れ込む。附近には、わづかな住民の家がところどころに點在し、内地のゐなかの村を歩いてゐるやうな靜かさである。
 住民はパプア族で、色は黑檀こくたんのやうに黑くてつやつやしてをり、髮はちぢれて、四五センチ以上にはのびない。腰にラップラップといふ短い腰巻を着けてゐるばかりで、いつもはだかで暮してゐる。
 せいは日本人よりもずつと高く、力も強い。しかし氣立てはやさしく、日本人を心から尊敬して、なかなか勤勉に働く。
 昭和十七年一月二十三日、わが海軍特別陸戰隊が、この土地に敵前上陸して、濠洲がうしう兵を追ひ拂ひ、日本領の標柱を打ちたてた當時から、住民たちは、日本軍の強さと心のやさしさを知つて、すつかりなついてしまつた。
       ニューブリテン島
 ニューアイルランド島をあとにして、更に南へ航海を續けると、半日もたつたのち、南へずつと連なる大きな島が見えて來る。ニューブリテン島である。
 島の北の端に、深い水をたたへた廣い灣があつて、その灣の奥に、ラバウルといふりつぱな町がある。朝夕、町の姿をうつすこの廣い灣は、ラバウルの生命で、一萬トン級の船が百五十隻ぐらゐはらくにはいれる。
 パプア島にも、ソロモン諸島にも、濠洲の東北部にも、これと肩を並べるやうな港はない。赤道をさしはさんで、わが南洋のトラックを北の最良の港とすれば、南の最良港はこのラバウルである。
 港がよければ、しぜん政治せいぢ・交通かうつう・産業の中心となるので、以前はここにニューギニア州の總督そうとくが住んでゐた。しかし今では、日本軍がここにどつかり腰をすゑて、濠洲のかなたまでじつとにらみつけてゐるのだ。
 この島の中央を、屋根のやうな山脈が走つてゐる。
 ラバウルの町も、その後にこの山脈を控へ、神戸かうべや横須賀よこすかなどと同じく、ひな壇だんのやうに家々が山の中腹に並んでゐる。ラバウルは、南洋の町としてはりつぱであるが、戸數は五六百を數へるに過ぎない。西洋人の殘して行つた家は床が高く、その下を立つたままでらくに通行することができる。
 窓も廣く、金網を張つて壁の代りにしてゐるが、これらはみんな風通しをよくするためである。家の軒下には、直徑一メートルもある、トタンで作つた圓筒ゑんとう形の天水桶てんすゐをけが並べてある。このあたりの島々は珊瑚礁さんごせうからできてゐるせゐか、井戸をほつても水は出て來ない。
 屋根に落ちる雨水は、樋とひで殘らずこの桶にたくはへておくやうにする。
 船がラバウルの灣の入口にさしかかつた時、目の前に立ちふさがつてゐる火山が、白い煙を吐いてゐたが、時々この火山が爆發して、火山灰をラバウルの町へふりまく。殊に、季節きせつ風が南西にかはる三月ごろから始つて、十一月ごろまではよく灰が降り、植物は枯れ、名物のほたるまでが死んでしまふ。
 皇軍がこの島を治めるやうになつてから、火山灰の降らないところに、新ラバウルの市街を作ることになつてゐる。
 この島の住民の數は九萬人餘りで、みんなパプア族である。パンの實、バナナ・タロいもを常食としてゐる。魚を取ることも上手である。
 子どもが、椰子の梢にのぼつて實を取つてゐることがある。
 椰子の實からコプラを取るためである。その木かげで豚ぶたが遊び、あちらこちらに鷄の鳴き聲が聞かれるのも、のどかな風景である。

    三 セレベスのゐなか

      一
 セレベスの島影は、どこか日本の山を思はせるやうな姿で、地平線の上に浮かびあがつて來た。
 赤道を越えて南半球へはいると、だれしも遠く來たものだと思はないではゐられないが、今目の前に現れて來た陸地の姿や、木々の色が、フィリピンの島々よりもかへつて日本に近いものを感じさせるのは、意外だつた。
 ただ、海の色と、空の明かるさと、雲の形が、日本の内地に比べてすばらしくあざやかである。
 南にウォウォニ島を見ながら、船は靜かにスタリン灣へはいる。だが、想像してゐたココ椰子やしの林も、船着き場も、家らしい家さへも見えない。ところで、一面マングローブの林のやうに見える岸べから、せまい水道を通つて、更に袋のやうにひろがつた灣内へはいると、そこにケンダリといふ小さな町があつた。
 船は、淺い珊瑚礁さんごせうを警戒していかりをおろした。
 日は、もう山の端にかくれた。陸地の方から、果物くだものの香氣のやうなにほひをふくんだそよ風が流れて來る。あたりには、まだたそがれのかすかな光がただよつてゐて、空と海とが、刻々に千變萬化の美しさを見せる。
 住民たちが、丸木舟でわれわれの船に近づいて來て、
「バナナ、バナナ。」といひながら、太いバナナの房ふさをささげる。
 日本人のバナナがすきなことを知つて、賣りに來るのである。
「あれは、馬に食はせるバナナだ。とても、なまではまづくてたべられやしないよ。」と、以前セレベスにゐた人が笑つて敎へてくれた。
      二
 「この道はいつか來た道。」と歌ひたくなるのが、セレベスのゐなか道であつた。
 耕されてゐないこんな廣い原野といふものになじみのないわれわれには、森や林の間にひろびろとひろがつてゐる草原が、ふと麥畠のやうに感じられる。
 ただところどころに、ニッパ椰子や、サゴ椰子や、びんらうが生えてゐるけれども、ここがセレベスだとは思へないほど日本内地の風景によく似てゐる。
      三
 セレベスには、猛獸毒蛇まうじうどくじやがゐないといふ。だが、家の中の机の上に、大きなとかげがちよこんと頭をもたげてすわつてゐたり、大男の手のひらほどもある、黑と黄色のだんだらの蜘蛛くもとも蚊とんぼともつかないものが、ふはふは飛んで來たり、毒々しいまでに朱色しゆいろのとんぼが、壁に止つたりしてゐるのを見ると、あの内地の山によく似た山脈の森の中には、どんな動物がゐるのか想像がつかない。朝日の出前から、うつそうと茂つた林の中では、うぐひすそつくりな鳥の聲や、今まで聞いたこともない笛を吹くやうな調子で鳴く奇妙な鳥の聲がする。朝の涼しさは、その鳥の聲とともに内地の春を思はせるのであるが、やがてぎらぎらと太陽が中天にのぼると、燒けつくやうな暑熱しよねつが地上を支配する。この炎天えんてんのもとのはるかな草原に、大きなすすきの穗が波のやうに搖れ、とんぼが飛びかふのを見てゐると、これが夏なのか秋なのかと考へてみたくなる。
      四
 夜が來て、山脈の上の黑水晶のやうにつやつやした大空に、南十字星がかかつて、あたり一面が虫の聲に滿たされ、木々の間に無數のほたるが群がつて靑白い光を見せ始めると、世界は太古のやうな靜けさの中へはいつて行く。
 住民のまばらな、廣大なセレベスの夜の靜けさは、内地の都會や町に住む人々には、想像もつかないであらう。
 今は二月、内地ではまだ寒い風が吹いてゐるであらうに、四季しきのないセレベスのゐなかでは、窓を開けはなし、かやをつつて、きらきらと輝く南半球の星を眺めながら寝につくのである。

    四 サラワクの印象

      一 
 赤道下のボルネオにも、こんなに氣持のよい町があつたのかと驚かされるのがクチンである。クチンは、ボルネオ島の北西岸、海に面して細長くのびた舊サラワク王國の首都である。
 サラワク川の川口から、廣々と流れる濁流だくりうをさかのぼること約三四時間、右岸一帶に打ち續くうつそうとした密林が切れて、白い壁に赤い屋根の建物がずらりと川岸に立ち並んで見える。これがクチンである。川にそつて作られた數本の鋪装ほさう道路の兩側には、雜貨店と呉服ごふく店を中心に、南洋のどこの町にも見られるあの支那風の商店が、ぎつしりと軒を並べてゐる。
 さうして、この町も他の町々と同じやうに、商店の持主はほとんど華僑くわけうである。その店先は、赤や黄色のあざやかな花模樣もやうを散らした更紗さらさ地と、すきとほるやうな水色や、赤や、緑の薄いきれ地などがいつぱいにかざられ、それが強烈な南洋の光線に照り映えて、まぶしい色どりをただよはしてゐる。町を歩いてまづ感じることは、このやうな商店街が思つたよりも淸潔せいけつであり、きちんと整つてゐることである。上海しやんはいや廣東かんとんあたりの支那街の、あのごつた返したやかましさは見られない。
 商店街からのびた數本の鋪装道路は、町とせなか合はせに續いてゐる美しい傾斜面と、緑濃いゴム林におほはれた公園地帶の間を走つてゐる。
 さうして、赤屋根の住宅が、あちらこちらの緑の中に點在してゐる。
 サラワク特産のオランウータンの子どもが、大きな頭を振りながら時々現れて來ては、日本の兵隊さんたちを喜ばすのもこのあたりである。
 これはたいてい人に飼ひならされたもので人を見るとへうきんなかつかうをして、なつかしげに近寄つて來る。オランウータンは猿さるの一種で、その一擧一動がをかしいほど人間に似てをり、舊サラワク王國時代には、これを國外へ出すことを禁じて保護してゐたものである。
        二
 住宅の周圍には、すくすくとのびたゴムの木立が緑色の涼しいかげを作つてをり、木立の間を流れる空氣はひえびえと澄みきつて、パイナップルのにほひがあたりに滿ちてゐる。ここの住宅地に明け暮れを送ると、しばしば北緯一度半の熱帶にゐることを忘れてしまふ。
 あの不愉快な蚊もゐなければ、蠅はへもゐない。
 燒けつくやうな眞晝の暑さは、緑色の涼しい木かげでさへぎられ、夜になると、窓から山のいぶきが水のやうに流れ込んで來る。
 家のまはりのゴム林には、名も知れない鳥が來て鳴き始める。それは、明け方になるにつれて激しく、夜明け前の一時間ぐらゐに最高潮に達する。
 何千何百といふ數知れない小鳥たちが、いつせいに歌を奏する。よく晴れた朝など、この一大交響樂かうきやうがくにしばしば目をさまされることがある。
 ボルネオの雨季うきは、十月に始つて三月ごろに終る。このころになると、北東の季節風が吹き始め、一日に何回となく激しいスコールがおとづれる。
 中でもクチンのスコールは、よそでは見られないほど猛烈なものである。
 大粒の雨が、ものすごい音をたててゴムの葉をたたき、しぶきをあげ、一間先も見えなくなるくらゐ降り續く時は、息苦しくさへなつて來る。
 それに雷が多い。
 今にも頭上に落ちかかるかと思はれるやうな、激しい雷が鳴り響く。スコールの荒れる夜など、すぐ目の前のゴムの木の根へ、耳をつんざくやうな雷鳴とともに、幅廣い稻妻が鋭く切り込む時など、實にすさまじい光景である。
        三
 ボルネオの住民であるダイヤ族は、クチンでも大部分を占めてゐる。
 ダイヤ族には、陸ダイヤと海ダイヤとの二種族がある。海ダイヤ族は、男女ともに胸から兩手・顔にかけて、たくさんの入れ墨をしてゐる。
 主として海べに住み、すなどりを業としてゐるが、性質が荒つぽく、海賊を働いたり、今でも人の首を取つたりする惡習が殘つてゐる。
 陸ダイヤ族は、これに反し性質が從順なので、海ダイヤ族に追はれて陸地深く逃げ込み、農耕のうかうをしてゐる。クチンあたりに住んでゐるのは、入れ墨も少く、小がらで柔和にうわな顔をしてゐる。
 かれらは、二三百戸ほどづつ集つて生活してゐる。
 毒虫どくむしと濕氣しつきから逃れるために、部落全體は、高さ一丈ぐらゐの竹で作つた床の上にできてゐる。
 廣い竹張りの廊下らうかが部落の眞中を走り、その兩側に、竹と椰子やしの木で作つた長屋がずらりと並んでゐる。
 どの家も同じ作りで、家の中に小さな通路があり、廊下へ出なくてもその通路をくぐれば、部落全體の家をたづねることができる仕組みになつてゐる。
 床下には、豚ぶたや、鷄が飼つてある。廊下は、いはば部落の大通である。
 女たちは、勤勉に働いて家を守つてゐる。
 廊下にもみを干し、小さな木臼きうすを圍んで米をつく。
 そのきねは、月の世界の兎がつく餅つきのきねとそつくりである。女たちは、すわつて針仕事もすれば、陸稻をかぼの草取りから刈入れまでする。
 かれらは水浴がすきである。朝夕、部落のほとりを流れる淸流せいりうにはいつて、部落の人たちがそろつて水浴する眺めは壯觀である。その他、マライ人がたくさん住んでゐる。マライ人はいちばん進んでゐて、勢力もある。
 男女ともサロンをまとひ、女は日本風のじゆばんを着てゐる。
 髮も束髮そくはつのやうに結つてゐる。
 マライ人の女たちが、夕方など、こんな姿で子どもをだいて門口に立つてゐるのを見ると、ふと九州のゐなかへ行つたやうな氣持になることがある。
 それほど日本人に似た姿である。そればかりではない。
 何十年も昔から、ほんたうの日本人も住んでゐる。この地に住みついた日本人の男女を見ると、マライ人とほとんど區別くべつがつかないほどである。
 マライ人も水浴がすきである。かれらは、これをマンデーと呼んでゐる。
 夕方小川などは、サロンのままマンデーをするマライ人でいつぱいである。
 支那人は、どこへ行つてもさうであるやうに、ここへも支那の生活をそのまま持ち込んでゐる。團結力の強いかれらは、またたくまに支那街を作り、そこに支那でやつて來たのとそつくりそのままの生活と習慣しふくわんとをくりひろげる。土地の習慣や生活には目もくれない。
 かれらは、自分たちだけの世界を築きあげる。
 それは、見てゐると自信に滿ちた生活ぶりである。 

      注

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