和賈舎人早朝大明宮之作 王 維
           賈舎人の「早に大明宮に朝す」の作に和す

 絳幘雞人報暁籌
  絳幘こうさくの鶏人 暁籌ぎょうちゅうを報じ
 尚衣方進翠雲裘  尚衣しょういまさに進む 翠雲の裘きゅう
 九天閶闔開宮殿  九天きゅうてんの閶闔しょうこう 宮殿を開き
 万国衣冠拝冕旒  万国の衣冠いかん 冕旒べんりゅうを拝す
 日色纔臨仙掌動  日色纔わずかに仙掌せんしょうに臨んで動き
 香煙欲傍袞龍浮  香煙傍わんと欲して袞龍こんりゅう浮ぶ
 朝罷須裁五色詔  朝ちょうんで須らく裁すべし 五色の詔
 佩声帰到鳳池頭  佩声はいせいは帰り到る 鳳池の頭ひとり
赤い制帽の鶏人けいじんが 夜明けの時刻を告げると
天子は尚衣を召して 翠雲の御衣ぎょいを着す
立ち並ぶ九天の宮みや 宮殿は大門を開き
万国の臣下は 衣冠を正して天子を拝する
朝の光は 仙掌盤のあたりをほのかに照らし
香の煙のただようなか 天子は厳かに出御なさる
朝賀の礼が終わると 詔勅の案を起草するため
佩玉の音を鳴らして 鳳池の役所にもどるのだ

 十二月には上皇玄宗も蜀から都にもどってきました。
 翌至徳三載(七五八)は二月に改元があり、載も年に改められて乾元元年になります。安慶緒はまだ河北にあって兵を集めていますが、長安は都回復の喜びに満ちています。
 この春、王維おうい、賈至かし、岑参しんじん、杜甫とほ、四人の詩人が中書省と門下省に揃っており、杜甫も生涯で一番幸福な時期です。
 王維は太子中允からすぐに中枢にもどり、中書舎人(正五品上)になっています。同僚の賈至が伝統的な七言律詩で宮廷風の詩を作りましたので、他の三人がそれに和しています。
 ここでは王維の和する作をかかげました。


 終南別業      終南の別業   王 維
中歳頗好道    中歳ちゅうさいやや道を好みしが
晩家南山陲    晩ばんに南山の陲ほとりに家いえ
興来毎独往    興きょう来れば毎つねに独り往き
勝事空自知    勝事しょうじ 空しく自ら知りぬ
行到水窮処    行きては水の窮きわまる処に到り
坐看雲起時    坐しては雲の起こる時を看
偶然値林叟    偶然 林叟りんそうに値
談笑無還期    談笑して還かえる期とき無し
中年の頃から いささか仏道に心をひかれ
晩年になって 南山のほとりに住みつく
気が向けば いつもひとりで出かけ
勝れたことは ただひとり頷くだけである
歩きまわって いつか流れの果てに着き
腰をおろして 雲の湧き出るさまをみる
たまたま 樵きこりの老人に出会うと
話がはずんで 帰るときを忘れてしまう

 乾元元年、詩人たちの希望に満ちた日は永くはつづきませんでした。粛宗の朝廷には霊武に同行した即位前からの直臣と即位後に参加した玄宗時代からの朝臣があり、両者は政府の主導権をめぐって対立していました。賈至も杜甫も岑参もほどなく地方に左遷され、王維だけがひとり残されました。王維は脅従官(偽官)の汚名を背負っていましたので遠慮した動きをしていたのでしょう。
 それに王維は当時、都で第一の著名詩人でしたので、宮廷としても手放したくない理由があったと思います。
 しかし、本人としては居心地のいい状況ではありません。王維はこのころから終南山の別業(別荘)に親しむようになりました。

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