別輞川別業 輞川の別業に別る 王 維
依遅動車馬 依遅いちとして車馬しゃばを動かし
惆悵出松蘿 惆悵ちゅうちょうとして松蘿しょうらを出ず
忍別青山去 忍しのんで青山せいざんに別れ去るとも
其如緑水何 其それ緑水りょくすいを如何いかんせん
のろのろと 馬車を動かし
うなだれて 松かずらの茂る林を出る
たとえ青山との別れを耐え忍ぶとも
流れ去る緑の水はどうしようもない
「別業」べつぎょうというのは別荘のことです。泰平の世ですので、武器庫を管理する庫部員外郎は閑職であったと思われますが、勤めを持つ身であれば、いつまでも輞川にとどまっていることはできません。
いやでも都にもどる必要があり、王維はのろのろと馬車を動かし、「松蘿」(松にまといつく蔓)の茂る林を抜けて都への道をたどってゆきます。五言絶句は王維の特色となる詩形ですので、それがこのような形で現れはじめたことに留意してください。
和太常韋主簿五郎温湯寓目
太常韋主簿五郎の「温湯寓目」に和す 王維
漢帝の離宮は 驪山の露台に接し
秦川の平野は 半ば夕陽に照らされている
みどりの山に 皇帝の旗ははためき
谷川の水は 宮殿の陰から走り出る
新豊の街の木陰を 旅人が行きかい
小菀の城の辺を 狩猟がえりの騎馬がゆく
聞けば 甘泉賦のような秀作を献上されたとか
揚雄にも比すべき才能を 遠くから信じて見ています
玄宗と楊貴妃は毎年十月から十二月の末まで驪山りざんの離宮で過ごすようになり、この三か月は朝廷が新豊しんぽうに移動したような騒ぎです。太常寺の主簿(従七品上)で韋郎いろうという詩人が離宮に扈従して「温湯寓目」おんとうぐうもくという詩を天子に捧げました。
王維はそのことを長安で耳にして、それに和する詩を作りました。
「子雲」は漢代の詩人揚雄ようゆうの号で、「甘泉賦」かんせんふは揚雄の作品として有名でした。太常寺というのは九寺(行政の執行機関)のひとつで、国の祭祀を司る役所です。王維は武器庫担当の員外郎ですので、特に召されなければ驪山に扈従する必要がなかったものと思われます。王維は宮廷詩をあまり好きでありませんので、代わりの詩人が出てきたので励ましているのかも知れません。
また「韋五」と排行で呼んでいますので、親しい詩人であり、お祝いを言っているのかも知れません。