奉和聖製慶玄元皇帝玉像之作 応制 王 維
    聖製「玄元皇帝の玉像を慶ぶの作」に和し奉る 応制
明君夢帝先   明君 帝先ていせんを夢みたまう
宝命上斉天   宝命ほうめいは 上かみ 天に斉ひと
秦后徒聞楽   秦后しんこういたずらに楽がくを聞き
周王恥卜年   周王 年としを卜ぼくするを恥ず
玉京移大像   玉京ぎょくけいに大像たいぞうを移し
金籙会群仙   金籙きんろくに群仙ぐんせんを会す
承露調天供   露つゆを承けて天供てんきょうを調ととの
臨空敞御筵   空そらに臨んで御筵ぎょえんを敞あらわ
斗廻迎寿酒   斗めぐりて 寿酒じゅしゅを迎え
山近起炉煙   山近くして 炉煙ろえん起こる
願奉無為化   願わくは 無為むいの化を奉じ
斎心学自然   斎心さいしん 自然を学ばん
天子は御先祖老君の夢をみられた
老子の命令は上天じょうてんの命にひとしい
かつて秦の穆公ぼくこうは 鈞天の広楽を聞き
周の成王は天命を占ったが 物の数ではありません
老子の大像を興慶宮こうけいきゅうに移し
大斎たいさいを催して多くの仙人を集め
天の露を受けて供え物を調理し
天空に臨んで筵席えんせきを延べると
北斗星はめぐって祝いの酒を迎え
終南山の近くに めでたい炉の煙が昇る
できれば 無為にして化する老君の道を奉じ
清い心で 自然の教えを学びたいものです

 開元二十九年(七四一)の春、玄宗皇帝は玄元皇帝、つまり老君(老子)から夢のお告げがあり、楼観山の山中で老子の大像を発見しました。玄宗はその老子像を興慶宮に祀り、「玄元皇帝の玉像を慶ぶの作」という詩を作りました。王維は召されて御製に奉和する詩(応制の詩)を作っていますが、掲げた詩がそれです。
 王維はその後も幾つかの応制の詩をつくっており、宮廷詩人としても重きをなすようになります。しかし、容儀を整える必要のある応制の詩は王維としても気骨の折れる仕事であったようです。
 翌天宝元年(七四二)に王維は殿中侍御史から中書省の右補闕(従七品上)になっています。官品は同じですが、もとの職場の中書省に復帰したことになります。
 天宝元年は当年二十四歳であった楊太真が玄宗の寵愛を受けはじめたころで、王維は驪山の温泉宮への行幸にも扈従こじゅうしています。


  寒食 城東即事    寒食 城東即事    王 維
 清渓一道穿桃李  清渓せいけい 一道 桃李とうりを穿うが
 演漾緑蒲涵白芷  演漾えんようたる緑蒲 白芷はくしを涵ひた
 渓上人家凡幾家  渓上けいじょうの人家 凡およそ幾家ぞ
 落花半落東流水  落花 半なかば落つ 東流の水
 蹴鞠屢過飛鳥上  蹴鞠しゅうきくしばしば過ぐ 飛鳥の上
 鞦韆競出垂楊裏  鞦韆しゅうせん 競い出づ 垂楊すいようの裏
 少年分日作遨遊  少年 日を分ちて遨遊ごうゆうを作
 不用清明兼上巳  用いず 清明せいめいの上巳じょうしを兼ぬるを
清らかな川 道は桃李の林をつらぬき
川やなぎは よろい草を蔽って茂る
川のほとりに 人家はいくらもなく
落花は半ば 東の流れに散る
蹴鞠けまりは 飛鳥よりも高く飛び
鞦韆ぶらんこは 競ってしだれ柳の陰から出る
若者たちは 時を忘れて遊び
清明節と上巳節が いっしょにくるのを喜ばない

 宮廷で堅苦しい詩をつくっている王維も、宮廷の外に出ると自然の美や世のさまをのびのびと詠います。
 この詩は清明節と上巳節が重なることから、天宝二年(七四三)の寒食節に際しての詩と推定されています。
 節日の前後は休日で、気候のいい季節ですので、人々は踏青(野外での遊び)に出かけるのです。王維も東の郊外に出かけたようです。
 しかし、一見自然描写のようですが、最初の二句「清渓 一道 桃李を穿ち 演漾たる緑蒲 白芷を涵す」は『史記』や「楚辞」に出てくる語句を踏まえていて、清廉な生き方を求める王維の当時の政界に対する批判が込められているように思われます。
 このころ宰相李林甫の権力は強くなり、反対派排除の強引なやり方は正義感の強い王維の心を暗くするものでした。
 「けまり」や「ぶらんこ」は当時の若者の好む遊びでしたが、のんきに遊び呆けている若者たちへの批判の気持ちものぞかせています。

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