上張令公    張令公に上たてまつる 王 維
珥筆趍丹陛   筆を珥はさみて丹陛たんぺいに趍はし
垂璫上玉除   璫たまを垂らして玉除ぎょくじょに上る
歩簷青琑闥   歩簷ほえんすれば青琑せいさの闥たつ
方幰画輪車   方幰ほうけんたるは画輪がりんの車
市閲千金字   市には千金せんきんの字を閲えつ
朝開五色書   朝ちょうには五色ごしきの書を開く
致君光帝典   君を致して帝典ていてんを光かがやかせ
薦士満公車   士を薦すすめて公車こうしゃに満たしむ
伏奏廻金駕   伏奏ふくそうして 金駕きんがを廻らせ
横経重石渠   経けいを横たえて石渠せききょに重し
従茲罷角抵   茲れより角抵かくていを罷
希復幸儲胥   復た儲胥ちょしょに幸すること希なり
耳に筆をはさんで宮廷に出入りし
冠の玉を鳴らして宮殿の階を上る
歩廊を進むとやがて青瑣の門
四角い幌は天子の乗る画輪車
市場には千金の価値ある書を並べ
朝廷では五色の詔書をご覧になる
天子を輔けて法典に光をあたえ
有能の士を推薦して公用を満たす
天子を諫めて無用の出駕をとどめ
経典を講じて石渠閣に重きをなす
以後 宮廷の雑技の遊びは廃され
儲胥の離宮へのお出ましも稀になった

 妻を亡くした王維は田園の閑居にも意味がなくなり、母や弟妹をかかえて生活にも困窮する面があったのでしょう。妻の三年の喪があけると、張九齢を頼って再び官途につく運動をはじめました。
 張九齢は王維より二十一歳の年長で、開元二十一年(七三三)に五十六歳で中書侍郎(正四品上)同中書門下平章事に任ぜられ、宰相になりました。
 翌年の四月には中書令(正三品)に昇進しています。
 王維の詩題は「上張令公」となっていますので、張九齢が中書令になった開元二十二年(七三四)四月以後に出されたことがわかります。
 五言古詩は書信(手紙)と考えてよく、詩は張九齢の勤める宮廷のようすからはじまり、その学才と功績をほめる言葉で埋めつくされています。相当に難しい言葉を使って、文才の高いことを示していますが、これが当時の仕来りとして礼儀にかなった献詩の書き方であったのでしょう。

天統知堯後   天統てんとうぎょうの後たるを知らしめ
王章笑魯初   王章おうしょうの初しょを笑う
匈奴遥俯伏   匈奴きょうどは遥かに俯伏ふふく
漢相儼簪裾   漢相かんしょうは簪裾しんきょげんたり
賈生非不遇   賈生かせいは不遇に非あら
汲黯自堪疎   汲黯きゅうあんは自おのずから疎なるに堪う
学易思求我   易えきを学びては我に求むるを思い
言詩或起予   詩を言えば或いは予を起こす
常従大夫後   常に大夫たいふの後のちに従わば
何惜隷人余   何ぞ 隷人れいじんの余なるを惜しまん
 皇統が聖帝堯の裔のちであることは明白となり
 王者の徴しるしは魯国の故事も笑止の沙汰となる
 匈奴は遥かにひれ伏し
 宰相の衣冠は厳然として威厳がある
 漢の賈誼かぎほどの有能の士で不遇の者はおらず
 汲黯は疎遠にされても安心しているでしょう
 易は私の方からお願いするようにと示しており
 詩については お話し相手になれると思います
 私は常に 閣下に従っていくつもりです
 例え奴僕の端であろうと ご奉公を厭うものではありません

 王維はこのとき三十六歳になっており、詩人としては有名でしたが若くはありません。
 張九齢は詩人としても『曲江集』を残すほどの人物で、都に集まる文人たちの面倒見もよかったので、王維も頼りにしたのでしょう。
 最後から五句目までは張九齢の功績に対する称賛の詩句の連続ですが、最後の二聯、つまり後の四句目から、易の卦によると王維の方から申し出てお願いするべきであると出ていることを述べ、詩についてはいささか話相手になれるでしょうと自信のほどをみせています。
 最後に閣下に従って国につくすつもりなので、奴僕の端にでも加えてほしいとへりくだっています。

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