観 猟       観 猟      王 維
風勁角弓鳴   風勁つよくして角弓かくきゅう鳴り
将軍猟渭城   将軍 渭城いじょうに猟りょう
草枯鷹眼疾   草枯れて鷹眼ようがん
雪尽馬蹄軽   雪尽きて馬蹄ばていかろ
忽過新豊市   忽ち新豊しんぽうの市を過ぎ
還帰細柳営   還た細柳さいりゅうの営えいに帰る
廻看射雕処   雕ちょうを射し処を廻看かいかんすれば
千里暮雲平   千里 暮雲ぼうん平らかなり
厳しい風 角筈つのはずの弓が鳴り
将軍は渭城で狩りをする
草は枯れ 鷹の目は鋭く
雪は消え 馬は軽やかに進む
たちまち 新豊の町を過ぎ
また細柳の陣屋までもどる
鷲を射たあたりを振り返ると
遥か千里 日暮れの雲は平らかである

 王維の新楽府しんがふに「燕支行」えんしこうという作品があります。
 題注に「時年二十一」とありますので、開元七年(七一九)、王維が進士に及第し、太楽丞に任官した年の作品です。
 新楽府というのは古い楽府題を用いず、創作による歌謡形式の詩という意味で、王維には若くしていろいろな形の詩を作る能力があったのです。「燕支行」は七言二十四句の大作なので省略しますが、内容はある将軍を漢代の名将たちにも劣らないと褒めたたえるものです。
 かわりに掲げた「観猟」かんりょうは制作年代の特定できない作品ですが、詩中に含まれている「渭城」「新豊」「細柳」といった地名は長安の東と西にあり、長安近郊を馬に乗って東西に狩猟したことになります。
 当時はたとえ文官であっても、騎馬と狩猟は士身分の者の必要なたしなみでした。王維も親しい将軍のお供をして鷹狩りに興ずることがあったとわかる詩です。


登河北城楼作   河北の城楼に登りて作る 王 維
井邑傅巌上    井邑せいゆうあり 傅巌ふがんの上ほとり
客亭雲霧間    客亭あり 雲霧うんむの間かん
高城眺落日    高城に落日を眺むれば
極浦映蒼山    極浦きょくほは蒼山そうざんを映せり
岸火孤舟宿    岸の火に 孤舟は宿やど
漁家夕鳥還    漁家に夕べの鳥は還かえ
寂寥天地暮    寂寥せきりょうたる天地の暮れ
心与広川閑    心は広川こうせんと与ともに閑しずけし
村があり 傅説ふえつの岩屋のあたりであろう
夕靄の中に駅亭の宿舎がみえる
城楼に登って 落日を眺めると
みどりの山が 遥かな入江に影をさす
岸辺の篝火は 孤舟の宿
漁家の上を 夕べの鳥が帰りゆく
寂しくも暮れゆく天地
心は広々として川のように静かである

 順調に官途を歩むかにみえた王維ですが、二十二歳になった開元八年(七二〇)の秋、思いがけない災難が降りかかってきます。
 突然の人事異動で済州(山東省荏平県)の司倉参軍(しそうさんぐん)へ転勤を命ぜられたのです。荏平(しへい)県は現在の済南市の西六十七`bのところにあり、当時は済水の南岸に沿う町であったようです。
 司倉参軍の品階は下州ならば従八品下で太楽丞と同じですが、地方の役所の倉庫を管理する係りに転勤させられたのですから、明らかに左遷です。王維は岐王の取り巻きのひとりとして派手な詩作活動をしていましたので、皇弟のもとに人材が集まるのを警戒する高官の一部から睨まれたのかも知れません。王維は晩秋のころ長安を発って、多分、故郷の蒲州に立ち寄り、陸路を河陽の方へ向かったようです。
 掲げた詩の河北城というのは陝州(せんしゅう)河北県(山西省平陸県の東北)のことで、その城楼に登って夕暮れの景を詠っています。
 第一句の「傅巌」は(いん)武丁(ぶてい)が捜し出して宰相にしたという傅説(ふえつ)が隠れていた伝説の岩窟で、平陸県の北七里(唐里)のところにあったといいます。結びの句で「心は広川と与に閑けし」と詠うことによって、王維は憤懣やるかたない自分の心を鎮めているようです。

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