勅借岐王九成宮避暑 応教 王維
     勅して岐王に九成宮を借して暑を避けしむ 応教

 帝子遠辞丹鳳闕  帝子は遠く辞す 丹鳳(たんぽう)(けつ)
 天書遥借翠微宮  天書は遥かに借す 翠微(すいび)(きゅう)
 隔窗雲霧生衣上  (まど)を隔てて 雲霧は衣上(いじょう)に生じ
 巻幔山泉入鏡中  (まん)を巻けば 山泉(さんせん)は鏡中に入る
 林下水声喧語笑  林下の水声 語笑(ごしょう)(かまびす)しく
 巌間樹色隠房櫳  巌間の樹色 房櫳(ぼうろう)を隠せり
 仙家未必能勝此  仙家(せんか)も未だ必ずしも能く此に勝らんや
 何事吹笙向碧空  何事ぞ (しょう)を吹いて碧空に向かう
皇子は丹鳳門(たんぽうもん)に遠く別れを告げ
勅許を得て 薄みどり棚引く離宮に遊ばれる
窓外の雲霧は (ころも)から生ずるように湧き
垂帳(とばり)を巻けば 山泉が鏡の中に飛び込んでくる
林の下の谷川は 笑いさざめきながら流れ
岩の間の樹々は (れんじ)子の窓に見え隠れする
仙人の住まいも ここに勝るとは限らないのに
王子喬は笛を吹き なぜに天上に行かれたのだろう

 開元七年(七一九)の春、王維は二十一歳で進士に及第し、太楽丞(従八品下)になりました。当時としては非常に若い任官です。
 宮廷の音楽を司る官ですが、王維が琵琶に巧みなのが考慮されたのかもしれません。王維はそのころ岐王のお供をして、いろいろな貴顕の家で「応教(おうきょう)」の詩を作っています。
 「応教」というのは皇子の命に応じて作るという意味で、かかげた七言律詩は岐王が避暑のために九成宮(岐山の北にあった朝廷の離宮)に滞在したとき、岐王の命に応じて作ったものです。
 応教の詩はほかにもありますが、宮廷詩ですので面白味がありません。この詩では、四句目で「山泉入鏡中」(山泉は鏡中に入る)と十五歳のときに作った雲母障子の詩の一句を応用しているのが、ほほえましいと思います。訳中にある「王子喬」は周の霊王の太子でしたが、笙を吹いて伊洛の間に遊び、白鶴に乗って天空に去ったという人物で、
「吹笙向碧空」(笙を吹いて碧空に向かう)といえば王子喬のことであると分かるほど有名な伝説の仙人でした。


少年行四首 其一   少年の(うた)四首 其の一 王維
新豊美酒斗十千  新豊(しんぽう)の美酒は斗に十千(じゅっせん)
咸陽遊侠多少年  咸陽(かんよう)遊侠(ゆうきょう)は少年多し
相逢意気為君飲  相逢(あいあ)える意気よ 君が為に飲まん
繋馬高楼垂柳辺  馬を繋げり 高楼の垂柳(すいりゅう)(ほとり)
新豊の美酒は 一斗で一万銭
都に多い若者は 遊侠気どりで闊歩する
出逢っては 大いに飲もうと意気が合い
馬を繋いだ高楼の しだれ柳の陰のあたりに

 このころの王維の詩才は、ゆくところ可ならざるはない勢いでした。
 「少年行四首」は長安の人士の喝采を浴びたでしょう。
 「少年行」というのは楽府(がふ)の雑曲の題で、盛唐の詩人の多くが同題の詩を作っていますが、王維の四首は年代的に見て嚆矢の可能性があります。「新豊」の街は長安の東にあり、美酒の産地として有名でした。
 「咸陽」は秦の都だったところですが、漢代には都長安の衛星都市として貴顕の人々の多く住む住宅都市でした。
 王維は都の若者が意気揚々と馬に乗って酒楼に乗り込むようすを描いていますが、高楼のほとりの柳の木に馬をつないだというだけで、その先は余韻を残しています。


少年行四首 其二   少年行四首 其の二  王 維
  出身仕漢羽林郎  出身(しゅっしん)して漢に仕える羽林郎
  初随驃騎戦漁陽  初めて驃騎(ひょうき)に随って漁陽に戦う
  孰知不向辺庭苦  (たれ)か知らん 辺庭に向かわざるの苦しみを
  縦死猶聞侠骨香  (たと)い死すとも猶お侠骨の香を聞かしめん
官職に就き 漢に仕えて羽林郎
驃騎将軍に従い 漁陽に出陣する
辺境の戦に出たいが 行けぬ苦しみは誰にもわかるまい
たとえ死んでも 勇者の誉れだけは顕わすのだ

 王維の「少年行四首」は四場面の劇のような構成になっています。
 時代は漢を借りています。「出身」というのは世に出ることですが、唐代では官吏になることを意味しています。
 「羽林郎(うりんろう)」は漢の武官名で関中(都のある地域)の六郡の良家の子弟から選ばれる名誉の職でした。
 驃騎将軍霍去病(かくきょへい)に従って漁陽(ぎょよう)(北京の近所)に出陣してきましたが、最前線に出してもらえない。この苦しみは誰にもわかるまい。
 死んでもいいから勇者の誉れを顕わしたいのだと元気一杯です。


少年行四首 其三   少年行四首 其の三  王 維
一身能擘両彫弧  一身()()ける両彫弧(りょうちょうこ)
虜騎千重只似無  虜騎(りょき)千重(せんじゅう) 只無きに似る
偏坐金鞍調白羽  金鞍(きんあん)に偏坐して白羽(はくう)を調し
紛紛射殺五単于  紛紛として射殺せり五単于(ごぜんう)
二人張りの強弓を 立てつづけに引き絞る
千万の夷狄の騎馬も いないに等しい
鞍の上で身をよじり 白羽の矢を繰り出して
つぎつぎと 五人の単于を射殺(いころ)した

 第三場面では、いよいよ最前線に出て戦います。
 「単于(きょうど)」は匈奴の王ですが、漢の宣帝のころ、匈奴は五つの集団に分裂して、五人の単于が立って互いに攻め合っていました。
 これらの「五単于」をつぎつぎにやっつけたという勇壮な場面です。
 場面は劇的に集約されています。
 音楽に合わせて詠いながら、演舞をしたのではないか。


少年行四首 其四   少年行四首 其の四  王 維
漢家君臣歓宴終  漢家(かんか)の君臣 歓宴(かんえん)を終え
高議雲台論戦功  雲台(うんだい)高議(こうぎ)して 戦功を論ず
天子臨軒賜侯印  天子は(けん)に臨みて侯印(こういん)を賜い
将軍佩出明光宮  将軍は佩びて出でゆく明光宮(めいこうきゅう)
漢の君臣は 戦勝の祝宴を終え
雲台宮で議して 戦功を論ずる
天子は出御して 諸侯の印を賜わり
将軍は印綬を帯びて 明光宮を退出する

 最終場面は都に凱旋して戦勝の祝宴があり、戦功が論ぜられます。最後に天子がお出ましになって封爵の褒美が与えられ、将軍たちは封侯の印綬を帯びて明光宮を出ていくという次第です。
 最終場面は宴席で詠われるのにふさわしく、若い王維の詩人としての得意満面の顔が目に浮かぶようです。

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