九月九日憶山東兄弟 九月九日山東の兄弟を憶う 王維

 独在異郷為異客   独り異郷に在りて異客(いかく)()
 毎逢佳節倍思親   佳節に逢う毎に倍々(ますます)(しん)を思う
 遥知兄弟登高処   遥かに知る 兄弟(けいてい)の高きに登る処
 遍挿茱萸少一人   遍く茱萸(しゅゆ)(かざ)せど一人の少なきを
故郷を離れ 異郷でひとり暮らしていると
節句の度に 肉親のことを思い出す
兄弟たちは 茱萸をかざして丘につどうが
一人だけ欠けているのを 遥かに遠く偲ぶのである

 王維が十四歳の時の先天元年(七一二)八月に、唐の第六代皇帝玄宗が即位しました。杜甫はこの年に生まれていますので、王維より十三歳年少ということになります。
 その翌年、王維が上京した年の七月に玄宗は叔母の太平公主一派を粛清し、則天武后の残存勢力を一掃しました。
 そして十二月に開元と改元して新政を明らかにしました。
 玄宗の開元の盛世のはじまりです。
 詩は「時年十七」の題注がありますので、上京して二年後、開元三年(七一五)九月九日の作ということになります。この二年間、王維は長安のどこかの寺の宿坊に滞在して勉学に励んでいたと思われます。
 唐代では書巻は筆写が基本ですので、学生が利用できる本は主として寺院にありました。勉強をするには寺院に下宿するのが一番だったのです。九月九日は重陽節(ちょうようせつ)で、中国では兄弟や親しい友人が小高い丘に登り、菊の花びらを浮かべた菊酒を飲み、粽を食べて健康を祈ったものです。茱萸(「ぐみ」の一種)の枝をかざすのも、辟邪薬用の効果があると信ぜられていたからです。王維には弟四人のほか妹もいましたので、長安で二回目の重陽節を迎え、故郷が懐かしくなったのでしょう。
 この詩のいいところは王維の優しい人柄がにじみ出ているところですが、詩としてすぐれているのは転結句(三句、四句)です。
 「遥知」(遥かに知る)の二語によって、王維の思いは遥かな故郷に飛んでいきます。そして自分一人(いちにん)だけが故郷の重陽節の集まりにいないことを際立たせるのです。情景はいきいきと描かれ、詩人としての才能がなみでないことが分かります。


  息夫人      息夫人   王維
莫以今時寵   今時(こんじ)の寵をもって
能忘旧日恩   ()旧日(きゅうじつ)の恩を忘るる莫からんや
看花満眼涙   花を()ては 眼に涙を満たし
不共楚王言   楚王(そおう)(げん)を共にせず
現在の寵愛があるからといって
どうして昔の愛情を忘れることができようか
花を見ては 目に涙を満たし
楚王と言葉を交わそうとしない

 この詩には「時年二十」の題注がありますので、二十歳のときの作品です。「息夫人(そくふじん)」は日本人にはあまり馴染みがないかもしれませんが、『春秋左氏伝』荘公十年と荘公十四年に伝があり、唐代の知識人ならば誰でも知っている有名な挿話です。
 息夫人は陳の厲公(れいこう)の公女で、姫姓(きせい)の息侯に嫁いで息嬀(そくき)となります。
 ところが、その美貌を知った楚の文王が息(淮水中流にあった小国)をだまし討ちにして、息嬀を楚都の(えい)に連れ去りました。
 息夫人は文王とのあいだに二子を成しますが、楚王と口をききません。この詩も宴遊の席で出された詩題に王維が答えた作品と思われますが、王維は息夫人を現在の王の寵愛に感謝しながらも、昔の愛情を忘れない女性として描いています。この詩に感じたからかどうかわかりませんが、寧王はほどなく「対門の家」の女性を解放し、女性は寧王の邸を出てしばらく王維と暮らした可能性があります。

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