渭城朝雨浥軽塵 渭城の
送元二使安西 元二の安西に使いするを送る 王維
渭城に朝の雨が降り 軽塵もしっとり
客舎の柳青々として 気持ちも新しい
さあ 飲みたまえ もう一杯…
西のかた陽関を出れば 語り合う友はいない
この詩はとても有名な作品で、知っている人は多いと思います。
しかし、この詩が王維の作品であると知っている人は少ないかも知れません。というのは、王維の詩は生涯のあいだにたいへん変化していて、王維という人の詩の一般的なイメージと違うからです。
実はこのことは唐代も同じで、人々は王維の作品と知らずに、この詩を口ずさんでいたと思われます。
この詩は「
三畳というのは三回重ねて歌うことで、四句のうちあとの三句を二回ずつ繰り返して歌う場合と、最後の一句だけを三回繰り返す歌い方がありました。前者はにぎやかに送ることに重点があり、後者は別れを惜しむことに重点を置くことになるでしょう。
送別会のはじめには前者で座を賑やかにし、最後は後者でしんみりしたのかも知れません。それほどの流行歌でした。
詩中の「
唐代では西に旅立つ人を見送る場合、渭橋まで送るのが常でした。
最後の句の「
題友人雲母障子 友人の雲母障子に題す 王維
君家雲母障 君が家の雲母うんもの障
持向野庭開持 して野庭 に向かいて開く
自有山泉入自 ら山泉 の入る有り
非因彩画来彩画 に因りて来 るに非ず
君の家の雲母の屏風
持って帰って わが家の庭に向けて開く
山水の景が 屏風に映っているが
絵を描いたからではなく ひとりでに入って来たのだ
現代でも同じと思いますが、名を成すほどの詩人は若いころに多くの詩を書いています。しかし、詩人としての自覚が高まると、若いころの稚拙な作品は破棄されてしまいます。
王維は九歳のときから詩をつづったと言われるほどの早熟な少年でしたので、多くの若年の作があったと思いますが、ほとんど残っていません。その中で幾つかの詩について「時年十五」という風に制作年を注記して残しています。うえの詩はその最もはやいもので、題注によると十五歳のときの作品です。この一見単純に見える詩を、王維はなぜわざわざ残しておいたのでしょうか。それは王維の後年の詩作の理念が、はからずも十五歳のときのこの詩に現れていたからだと思います。
転結句(三句、四句)がそれで、自然の存在に対していると描きもしないのに自然のほうから自分の心にひとりでに自然が入ってくるという思想です。なお、第一句(起句)は相手の「障」(屏風)をほめる言葉で、ほめるのは気に入ったからくれないか、という意思表示になります。
王維は屏風をもらって家に持って帰り、「野庭」(自分の家の庭を謙遜して言ったもの)に向けて開いたら、庭の築山や池が屏風の雲母で飾った部分に映っていました。王維はそのことを詩につづって屏風のお礼のつもりで友人へ贈ったのでしょう。
過秦始皇墓 秦の始皇が墓を過ぐ 王維
古墓成蒼嶺古墓 は蒼嶺 を成し
幽宮象紫台 幽宮は紫台 を象 る
星辰七曜隔星辰 を七曜に隔 て
河漢九泉開河漢 を九泉 に開けり
有海人寧渡 海有れど人は寧 ぞ渡らん
無春雁不迴 春無ければ雁がんは迴かえらず
更聞松韻切 更に松韻 の切なるを聞けば
疑是大夫哀 疑わる 是れ大夫 の哀しめるかと
墳丘 は山のように大きく
墓室 は帝王の宮殿に擬す
星座を日月五星の間にちりばめ
銀河を九泉の地下に開く
海はあっても人はどうして渡れようか
四季がないので雁も帰る時がない
松風のせつせつと鳴る音 を聞けば
五大夫の松 哀しむ声かと思われる
王維は
蒲州は現在の山西省西南部にあり、河套(オルドス)を北へ迂回したあと南流する黄河が、東へ屈折する地点の左岸にあります。
王維の家は代々州の司馬(次官)を勤める家柄で、父親の
唐代の州は数県を管轄する地方行政機関で、大きな県城(中国では県は日本の市や町に相当する基礎的な地方自治体)に州府を構えていました。だから王維の家は地方官の家柄と言っていいでしょう。
王維は十五歳の秋に蒲州を発って、勉学のため長安に出ました。
蒲州から長安まで西に百六十㌔㍍ほどあります。
その途中、秦の始皇帝陵のそばを通って作ったのがこの詩です。
この詩にも「時に年十五」の題注があり、王維が特に残した詩です。
始皇帝陵の内部を見た人はいまもいませんが、『史記』などの書に記述されているので、水銀で川や海を造り、天井には星座がちりばめられて豪奢なものであったことはよく知られています。
十五歳の王維は、死後の王墓の無意味な贅沢を批判しています。
なお、詩の最後の句に「大夫」とありますが、「大夫」は五大夫のことで秦代の官位です。始皇帝が泰山で封禅の儀を行ったとき、生えていた松に五大夫の爵位を与えたという話は『史記』に出ています。