若いころは むやみに名声を求めていた
だが 万民に役立つほどの学問はない
浮雲のようだと 怠惰な自分を一笑したが
突然の風に吹かれ 吹かれるままに行動する
龔自珍の博学と才気は早くから有名でしたが、急進的な思想を抱き、科挙にはしばしば落第しました。進士になったのは宣宗の道光九年(一八二九)、三十八歳のときでした。
詩は嘉慶二十四年(一八一九)、己卯年の春から夏の間、京師(北京)にあって十四首の詩を作ったと題詞にありますので、二十八歳のときの作品です。この年、イギリスはシンガポールを領有し、英国の東洋進出が本格化します。詩中の「学術」はここでは儒学のことで、治国平天下の学問のことでしょう。
中国の生気を回復するには 試練こそが恃みの綱
皆が押し黙っている現状は 悲しむべき限りである
わたしは天の神に祈りたい 体をひとゆすりして
資格などにこだわらず 破格の人材を降し給えと
進士に及第した龔自珍は礼部主事になりましたが、十年在職して道光十九年(一八三九)、四十八歳で職を辞し、郷里に帰りました。
四月に北京を発って十二月に故郷の仁和(浙江省杭州市)に帰り着くまでに三百十五首の詩を作りましたが、掲げた詩はそのひとつです。
宣宗(道光帝)の道光十九年(己亥年)は、林則徐がアヘン二万箱を没収し、広州で焼却した年で、アヘン戦争開始の前年です。
国家の将来を憂えて、居ても立ってもおれない心情がうかがわれます。
若いころは 喜怒哀楽がはげしくて
訳もなく歌い 悲憤したが ひとつひとつは真実だった
壮年になって世間と交わり 愚かさと悪知恵が混在する
純真無垢の一念は 夢るだけの男となった
己亥雑詩三百十五首を書きながら帰郷した二年後の道光二十一年(一八四一)に、龔自珍は五十歳で急死しました。
一説によれば、龔自珍は清の親王
このときアヘン戦争ははじまって二年目、イギリス軍は廈門・定海・鎮海・寧波を占領し、翌年には南京条約(香港割譲)が結ばれます。
我是東西南北人 我れは是れ東西南北の人
平生自号風波民 平生 自ら風波 の民と号す
百年過半洲遊四 百年半ばを過ぎ洲 は四つに遊ぶ
留得家園五十春 留め得たり家園 五十の春
東西南北 忙しく飛びまわってきた
だから自分を「風波の民」と称している
生涯の半ば過ぎまで 四大洲を巡りあるき
五十歳になって 故郷の春を楽しんでいる
光緒三年は明治十年で、二月に西南戦争が始まりますので、その決着を見て来日したのでしょう。以後、四年余在日しますので、西南戦争後の日本をつぶさに見たことになります。
その後、駐英参賛などを経て帰国しますが、
詩は帰郷した翌年、五十二歳のときの作品で、