雑詩 己卯自春徂夏在京師作詩得十有四首 龔自珍
雑詩己卯の春より夏に徂び京師に在って詩を作る十有四首を得たり

 少小無端愛令名     少小 (はし)無くも令名を愛す
 他無学術誤蒼生     他た学術の蒼生(そうせい)を誤る無し
 白雲一笑懶如此     白雲 一笑す (らん)()くの如きを
 忽遇天風吹便行     忽ち天風の吹くに遇って便(すなわ)ち行く
若いころは むやみに名声を求めていた
だが 万民に役立つほどの学問はない
浮雲のようだと 怠惰な自分を一笑したが
突然の風に吹かれ 吹かれるままに行動する

 龔自珍(きょうじちん)は乾隆帝(高宗)の末期、乾隆五十七年(一七九二)に生まれました。父の龔麗正が古代言語学者段玉裁の女婿でしたので、幼少のころから外祖父の薫陶を受けました。
 龔自珍の博学と才気は早くから有名でしたが、急進的な思想を抱き、科挙にはしばしば落第しました。進士になったのは宣宗の道光九年(一八二九)、三十八歳のときでした。
 詩は嘉慶二十四年(一八一九)、己卯年の春から夏の間、京師(北京)にあって十四首の詩を作ったと題詞にありますので、二十八歳のときの作品です。この年、イギリスはシンガポールを領有し、英国の東洋進出が本格化します。詩中の「学術」はここでは儒学のことで、治国平天下の学問のことでしょう。


 己亥雑詩 其百二十五  己亥雑詩 其の百二十五 龔自珍

 九州生気恃風雷   九州の生気 風雷(ふうらい)(たの)
 万馬斉瘖究可哀   万馬 斉しく(おしだま)り 究に哀れむ可し
 我勧天公重抖擻   我れ天公に勧む 重ねて抖擻(とうそう)して
 不拘一格降人材   一格に(こだ)わらず 人材を(くだ)せと
中国の生気を回復するには 試練こそが恃みの綱
皆が押し黙っている現状は 悲しむべき限りである
わたしは天の神に祈りたい 体をひとゆすりして
資格などにこだわらず 破格の人材を降し給えと

 進士に及第した龔自珍は礼部主事になりましたが、十年在職して道光十九年(一八三九)、四十八歳で職を辞し、郷里に帰りました。
 四月に北京を発って十二月に故郷の仁和(浙江省杭州市)に帰り着くまでに三百十五首の詩を作りましたが、掲げた詩はそのひとつです。
 宣宗(道光帝)の道光十九年(己亥年)は、林則徐がアヘン二万箱を没収し、広州で焼却した年で、アヘン戦争開始の前年です。
 国家の将来を憂えて、居ても立ってもおれない心情がうかがわれます。


 己亥雑詩 其百七十   己亥雑詩 其の百七十  龔自珍

 少年哀楽過于人 少年の哀楽 人に過ぎ
 歌泣無端字字真 歌泣(かきゅう) (はし)無く 字字真なり
 既壮周旋雑痴黠 既にして壮なるや 周旋して痴と(きつ)を雑え
 童心来復夢中身 童心 来復(らいふく)す 夢中の身
若いころは 喜怒哀楽がはげしくて
訳もなく歌い 悲憤したが ひとつひとつは真実だった
壮年になって世間と交わり 愚かさと悪知恵が混在する
純真無垢の一念は 夢るだけの男となった

 己亥雑詩三百十五首を書きながら帰郷した二年後の道光二十一年(一八四一)に、龔自珍は五十歳で急死しました。
 一説によれば、龔自珍は清の親王奕絵(えきかい)の愛妾顧春(こしゅん)と私通していたため、毒殺されたとも言われています。
 このときアヘン戦争ははじまって二年目、イギリス軍は廈門・定海・鎮海・寧波を占領し、翌年には南京条約(香港割譲)が結ばれます。


己亥雑詩八十八首(録一)
               己亥雑詩八十八首(一を録す) 黄遵憲
我是東西南北人   我れは是れ東西南北の人
平生自号風波民   平生 自ら風波(ふうは)の民と号す
百年過半洲遊四   百年半ばを過ぎ (しゅう)は四つに遊ぶ
留得家園五十春   留め得たり 家園(かえん)五十の春
東西南北 忙しく飛びまわってきた
だから自分を「風波の民」と称している
生涯の半ば過ぎまで 四大洲を巡りあるき
五十歳になって 故郷の春を楽しんでいる

 黄遵憲(こうじゅんけん)は道光二十八年(一八四八)に嘉応州(広東省梅県)で生まれました。光緒二年(一八七六)に二十九歳で挙人に合格し、駐日公使館参賛(参事官)に任ぜられ、翌年末に東京に来ました。
 光緒三年は明治十年で、二月に西南戦争が始まりますので、その決着を見て来日したのでしょう。以後、四年余在日しますので、西南戦争後の日本をつぶさに見たことになります。
 その後、駐英参賛などを経て帰国しますが、康有為(こうゆうい)らの政治改良派と親交があったため、光緒二十四年(一八九八)の戊戌政変(ぼじゅつせいへん)に際して職を免ぜられ、郷里に帰って著述に専念します。
 詩は帰郷した翌年、五十二歳のときの作品で、龔自珍(きょうじちん)の己亥雑詩に倣って作ったものです。黄遵憲は光緒三十一年(一九〇五)に五十八歳で亡くなりますが、この年は明治三十八年で日露戦争が終わった年です。その六年後に辛亥革命が起こり、翌年一月に中華民国が成立し、二月に清朝は滅亡します。同じ年の七月に日本では明治天皇が亡くなられ、大正と改元されます。

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