真州絶句 真州絶句 王士禎
江干多是釣人居江干 多くは是れ釣人 の居
柳陌菱塘一帯疎柳陌 菱塘 一帯に疎なり
好是日斜風定後 好し是れ 日斜めに風定まりし後
半江紅樹売鱸魚半江 の紅樹鱸魚 を売る
長江の岸辺は どこも多くは漁師の村
柳の並木 菱の沼 あたりに疎らに見えている
なかでも好いのは 夕陽に映える河岸の並木
夕凪のなか 鱸魚を売っている漁師の風景
王士禎が官に就いてから三年後の順治十八年(一六六一)に康煕帝(聖祖)が即位し、清は繁栄の時代を迎えます。
詩は康煕二年(一六六三)、王士禎が三十歳のときに長江北岸の真州(江蘇省儀徴県)の港に舟泊まりしたときの作です。
「鱸魚」は「すずき」。王士禎は康煕帝の時代に詩壇の中心人物となり、官も刑部尚書に至って、康煕五十年(一七一一)に七十八歳で没しました。十一歳で明の亡国に遭いましたが、清の官吏として出世をし、長寿を全うしたのです。
沙 溝 沙 溝 袁 枚
沙溝日影漸朦朧 沙溝日影 漸く朦朧たり
隠隠黄河出樹中 隠隠たる黄河樹中 より出ず
剛巻車帘還放下剛 に車帘 を巻いて 還た放下す
太陽力薄不勝風 太陽の力薄く 風に勝 た
沙溝を照らす日の影が ようやく朦朧となり
木の間がくれに 黄河が見え隠れする
垂れ幕を上げようとして すぐまた下ろす
太陽の光は弱くて 外は冷たい風だった
「
苔 苔 袁 枚
白日不到処白日 到らざる処
青春恰自来 青春恰 も自ら来る
苔花如米小苔花 米の如く小さきも
他学牡丹開他 た牡丹を学んで開く
陽の当たらぬところにも
春はかならずやってくる
苔の花は 米粒のように小さいが
それでも 牡丹のまねをして開花する
乾隆二十九年(一七六四)、随園での作です。
乾隆帝の時代にはポルトガルやオランダ、イギリスの東洋進出がはじまりますが、清はタリム盆地を制圧して領土を歴朝最大に拡げ、またビルマに遠征して、これを属国とします。
当時の清は世界の大国であり、安定した時代でした。だから苔の花の比喩も、個人的なことで、おそらく自分のことでしょう。