柏林楓岸迥宜看 柏林 楓岸
秋日雑興 秋日雑興 何景明
柏の林 楓の岸 遠くからの眺めがよい
柳や芙蓉もいいが 寒さに弱い
高楼にかかる明月は 何よりも好きだ
欄干で笛吹く男よ そこに立つのはよしてくれ
孝宗の弘治十五年(一五〇二)に二十歳で進士に及第し、知的で緻密な詩を作る秀才でしたが、世宗の即位した正徳十六年(一五二一)に三十九歳で早逝してしまいました。
まだ若かったので官は陜西提学副使でした。中国の「
川岸や池の堤などに植えられ、陰暦二月に赤い花をつけます。
秋には北では紅葉し、南では黄葉するそうです。
楓樹は風に立ち騒ぎ 雨は寂しく降っている
遥かに見わたす秋の色 君は楚の地へ迷い入る
追放の小舟に向かって 誰が別れを惜しもうか
白雲よ 大河を越えて 西の果てまで送ってくれ
世宗の嘉靖二十三年(一五四四)に三十一歳で進士に及第しましたが、そのころはモンゴルのアルタン軍の侵攻が激化しているときで、嘉靖二十九年(一五五〇)には数日にわたって北京城が包囲される事態になりました。
海辺では倭寇の侵入も活発で、明は多難の時期を迎えます。
詩題の「郡城」は李攀龍の故郷歴城(山東省済南市)のことで、友人の「明卿」(呉国倫)が南康(江西省康県)へ左遷されるのに際して、郷里から書き送った詩です。
李攀龍は『唐詩選』の編者と目されていますが、間違いの可能性が高いとされています。李攀龍の官は河南按察使に至り、穆宗の隆慶四年(一五七〇)に五十七歳で亡くなりました。
この年はアルタンとの和議が成立した年にあたります。