江浦夜泊 江浦の夜泊 薩都刺
千里長江浦月明 千里の長江浦月 明らかなリ
星河半入石頭城星河 半ばは石頭城に入る
棹歌未断西風起棹歌 未だ断えざるに西風起り
両岸菰蒲雑雨声 両岸の菰蒲 に雨声 雑る
長江は果てしなく流れ 月は入江を照らし
銀河はかたむいて 半ばは石頭城の陰に入る
舟歌の声ひびくなか 西風が吹き
菰や蒲のざわめきに 雨の音が混じってくる
至正六年(一三四六)に薩都刺は江南行台侍御史になって任地に赴任する途中、六朝の古都建康(南京市)の対岸にある
薩都刺は官を辞したあと杭州に住んで晩年を過ごし、順帝の至正十五年(一三五五)ころ五十一歳くらいで亡くなったといいます。
至正十一年(一三五二)には淮南の地方で紅巾の乱が起こっていますので、乱が長江を越えて南へ拡がってくるのを見ながら死んだのです。
送呂卿 呂卿を送る 高 啓遠汀斜日思悠悠
遠くの汀 沈む夕陽 悩みは果てしなく
花びらは別れの杯をかすめ 柳は舟をかすめる
江南にも江北にも 若草は生えそろい
君を見送って 春の愁いも見送った
至正十一年(一三五一)に淮水の下流一帯で紅巾の乱が起こると、元軍は討伐の兵を向けましたので、乱軍は長江を渡って江南に移動し、現在の南京や蘇州などに拠点を設けます。
塩商人出身の張子誠は至正十六年(一三五六)二月に平江を都とし、呉王を称しました。ときに高啓は二十一歳でしたが、張子誠治下の平江で文名を高めてゆきます。そのころ元朝では内紛が激しく、江南の叛乱集団を追討することができませんでした。
紅巾軍のなかから台頭した朱元璋は、応天府(南京市)に拠って平江の張子誠らと対立していましたが、至正二十六年(一三六六)八月から翌年の九月まで行われた戦闘で、張子誠は朱元璋に敗れて自殺します。江南を制した朱元璋はすぐに北伐の軍を発し、元の至正二十八年(一三六八)正月に年号を洪武と改め、国号を大明と定めて即位しました。高啓、三十三歳のときです。高啓は元末明初の大詩人で多くの詩を残していますが、「呂卿」は友人のひとりでしょう。
詩の制作年も不明です。詩中の「