漫成五首其二 漫成五首 其の二 楊維禎
西隣昨夜哭暴卒西隣 昨夜暴卒 を哭し
東家今日悲免官東家 今日 免官を悲しむ
今日不知来日時 今日 知らず来日 の時
人生可放杯酒乾 人生杯酒 の乾くに放 す可し
昨夜 西どなりでは あるじの急死を泣きわめき
東の家ではたった今 くびになったと悲しんでいる
人生 明日のことは分からない
酒はその日に 飲みほすがよい
七十三歳のときに明が建国し、翌洪武二年(一三六九)に朱元璋の招きを受けますが応ぜず、翌年七十五歳で死去します。詩は元朝における南人の微官の地位の不安定と生活の労苦を嘆くものでしょう。
初夏淮安道中 初夏淮安道中 薩都刺
魚蝦溌溌初出網魚蝦 溌溌として初めて網を出で
梅杏青青已著枝梅杏 青青として已に枝に着く
満樹嫩晴春雨歇 樹に満つる嫩晴 春雨歇 む
行人四月過淮時行人 四月 淮を過 るの時
魚や蝦は いきいきと網から跳ね
梅や杏は 枝にたわわに実っている
雨はやみ 光はやわらかく樹々に満ち
初夏の四月 わたしはいよいよ淮水を渡る
泰定帝のときに二十歳で進士に及第し御史になりましたが、泰定帝が在位五年で没すると、それからの六年間は権臣による皇帝の廃立がつづき、順帝が即位するまで元の政情はきわめて不安定でした。
硬骨漢で直言する薩都刺は中央に用いられなくなり、やがて左遷されて地方官を転々とします。詩は順帝の至正三年(一三四三)、三十九歳になった薩都刺が、江浙行中書郎中になって杭州に赴任する途中、淮安(江蘇省淮安県)で作った作品で、紅巾の乱が起こる八年前のことです。句末の「時」は決意の表現とみられ、元朝の役人として淮水を越えて南への赴任は覚悟を要するものだったのでしょう。