馬蹄踏水乱明霞 馬蹄 水を踏んで
山 家 山 家 劉 因
小川に馬を乗り入れれば 水の面に青空の影は乱れ
酔い心地のわが袖に 風は落花を吹き入れる
童子が谷間の門を出て 覗いているのは不思議だな
鵲の声が山家に届き 帰郷するのを伝えていた
華北はモンゴルの支配下にあり、グユク汗(第三代定宗)からムンケ汗(第四代憲宗)に移る監国の時期にあたります。
定宗の皇后海迷失が監国として政務を司っていました。
元を建国したフビライ汗(第五代世祖)の至元十九年(一二八二)、三十四歳のときに、劉因は召されて承徳郎・賛美大夫になりましたが、ほどなく辞して郷里に隠棲しました。詩の作成時期は不明ですが、訳では辞官して帰郷するときと考えました。
「
劉因は世祖の至元三十年(一二九三)、四十五歳で亡くなりました。
旱郷田父言 旱郷の田父の言 宋 无痩牛病喘餓桑間
痩せ牛は病気で喘ぎ 桑畑で餓え
ひき臼は暇で転がり 麦の畑は乾いている
税の滞納で 息子は人夫に駆り出され
豆の畦道に 案山子を立てて見張らせる
八十歳になってから茂才(秀才)に挙げられますが、親が老いたからと称して官に就かなかったという話があります。
本人が八十歳ですので親が生きているはずはありません。
これは痛烈な皮肉であるか、もしくは孝行のため勤めができないというのは一番穏当な断り方だったのかもしれません。宋无はその翌年、元の順帝の至元六年(一三四〇)に八十一歳で亡くなりました。
元末の紅巾の乱がはじまるのは、この十一年後です。