山 家          山 家      劉 因
 馬蹄踏水乱明霞   馬蹄 水を踏んで 明霞(めいか)を乱し
 酔袖迎風受落花   酔袖(いしゅう) 風を迎えて 落花を受く
 怪見渓童出門望   怪んで見る 渓童(けいどう)の門を出でて望むを
 鵲声先我到山家   鵲声(じゃくせい) 我れに先んじて山家に到る
小川に馬を乗り入れれば 水の面に青空の影は乱れ
酔い心地のわが袖に 風は落花を吹き入れる
童子が谷間の門を出て 覗いているのは不思議だな
鵲の声が山家に届き 帰郷するのを伝えていた

 劉因(りゅういん)は一二四九年に保定の容城(河北省清苑県の東北)で生まれました。
 華北はモンゴルの支配下にあり、グユク汗(第三代定宗)からムンケ汗(第四代憲宗)に移る監国の時期にあたります。
 定宗の皇后海迷失が監国として政務を司っていました。
 元を建国したフビライ汗(第五代世祖)の至元十九年(一二八二)、三十四歳のときに、劉因は召されて承徳郎・賛美大夫になりましたが、ほどなく辞して郷里に隠棲しました。詩の作成時期は不明ですが、訳では辞官して帰郷するときと考えました。
 「(かささぎ)」の声が自分より先に「山家(さんか)」に届き、童子が門前に出て望んでいたという表現に、特別なものを感ずるからです。
 劉因は世祖の至元三十年(一二九三)、四十五歳で亡くなりました。


  旱郷田父言      旱郷の田父の言    宋 无
 痩牛病喘餓桑間   痩牛(そうぎゅう)は病み喘いで 桑間に餓え
 碌碡閑眠麦地乾   碌碡(ろくどく)は閑に眠り 麦地乾く
 残税駆将児子去   残税 児子を駆り()て去り
 豆畦却倩草人看   豆畦(とうけい) 却って草人を(やと)って(まも)らしむ
痩せ牛は病気で喘ぎ 桑畑で餓え
ひき臼は暇で転がり 麦の畑は乾いている
税の滞納で 息子は人夫に駆り出され
豆の畦道に 案山子を立てて見張らせる

 宋无(そうむ)は南宋・理宗の景定元年(一二六〇)に晋陵(江蘇省常州市武進県)で生まれました。二十歳のときに宋の滅亡に遭いますので、元の支配下で南人として差別され苦労しました。
 八十歳になってから茂才(秀才)に挙げられますが、親が老いたからと称して官に就かなかったという話があります。
 本人が八十歳ですので親が生きているはずはありません。
 これは痛烈な皮肉であるか、もしくは孝行のため勤めができないというのは一番穏当な断り方だったのかもしれません。宋无はその翌年、元の順帝の至元六年(一三四〇)に八十一歳で亡くなりました。
 元末の紅巾の乱がはじまるのは、この十一年後です。

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