山居雑詩二首 其一 山居雑詩二首 其の一 元好問
痩竹藤斜挂    痩竹(そうちく)に藤斜めに(かか)
幽花草乱生    幽花(ゆうか) 草乱れ生ず
林高風有態    林高くして 風に(たい)有り
苔滑水無声    苔滑らかにして 水に声無し
やせ細った竹に 藤は斜めにからみつき
鬱蒼と草は茂り 花はほのかに咲いている
林の梢を 風はしなやかにわたり
なめらかな苔 音もなく水は流れる

 元好問(げんこうもん)は、金の章宗の明昌元年(一一九〇)に太原の秀容(山西省忻県)で生まれました。
 この年は宋では光宗の紹煕元年で、陸游は六十六歳になっています。
 元好問の遠祖は北魏の拓跋氏(鮮卑族)といいますが、生後七か月で叔父の養子となり、漢化された教育を受けて育ちました。
 モンゴルでは金の章宗の泰和六年(一二〇六)にテムジンがチンギス汗の位に就き、その五年後に金に向かって進撃を開始します。
 金の宣宗の貞祐三年(一二一五)には、モンゴル軍は金の中都(北京)を占領し、金は都を汴京(河南省開封市)に移します。
 翌貞祐四年(一二一六)、二十七歳の元好問はモンゴル軍の侵入を避けて太原を逃れ、河南の登封(河南省登封県)に移住しました。
 詩は登封で勉学に励んでいた三十歳のころの作品で、繊細ですが暗い予感がただよっています。


 癸巳五月三日北渡三首 其一
               癸巳五月三日北に渡る三首 其の一 元好問

  道旁僵臥満累囚  道旁(どうぼう)に僵れ臥して 累囚(るいしゅう)満ち
  過去旃車似水流  過ぎ去る旃車(せんしゃ)は 水の流るるに似たり
  紅粉哭随回鶻馬  紅粉(こうふん)は哭しつつ回鶻(かいこつ)の馬に随い
  為誰一歩一迴頭  誰が為にか一歩ごとに一たび(こうべ)を回らす
縛られた囚人が 道端の至るところで倒れ
その横を 流れる水のように幌馬車は過ぎる
女たちは泣きながら 蒙古の騎馬にしたがい
救いを求めて一歩ごと 後ろのほうを振り返る

 元好問は金の宣宗の興定五年(一二二一)、三十一歳で進士に及第し、内郷、南陽など河南の県令を歴任したあと行尚書省左司員外郎になりました。その間、チンギス汗は西へ兵を向け、中央アジア遠征を行っていました。
 チンギス汗(元の太祖)が西夏を滅ぼしたあと没すると、第二代オゴタイ汗(太宗)が立って再び金を攻め始めました。
 金の哀宗の天興元年(一二三二)、モンゴル軍は金都汴京に迫ったので、哀宗は帰徳(河南省商丘市)に逃れました。モンゴル軍は汴京を包囲したまま天興二年(一二三三)を迎えます。
 このとき金の西面元帥崔立は叛乱を起こし、自ら鄭王と号してモンゴル軍に降伏し、金の太后、皇后、二王、諸妃嬪など宗室の男女五百余人を捕らえ、モンゴル軍に引き渡しました。元好問はこのとき四十四歳でしたが、四月二十九日に官を捨てて汴京を脱出し、五月三日に黄河を渡って聊城(山東省聊城県)に逃れてきましたが、モンゴル軍に捕らえられて拘留されます。
 詩は宗室の男女五百余人が三十七輌の車に乗せられて連れ去られるようすを聊城で目撃して作ったものです。
 「回鶻」(ウイグル族)と書いていますが、唐代の北方騎馬民族を借りたもので、ここではモンゴル軍のことです。


 癸巳五月三日北渡三首 其二
               癸巳五月三日北に渡る三首 其の二 元好問

 随営木仏賎於柴   営に随う木仏(もくぶつ)は 柴よりも(いや)
 大楽編鐘満市排   大楽(たいがく)の編鐘は 満市に(なら)
 虜掠幾何君莫問   虜掠(りょりゃく)すること幾何ぞ 君問う莫かれ
 大船渾載汴京来   大船に渾載(こんさい)して 汴京より(きた)
集めた仏像は 薪ほどの値打ちもなく
雅楽の編鐘は 屯営の市場にあふれている
どれだけのものが掠奪されたのか もう聞かないでくれ
すべてを船に積んで 汴京から運んだのだ

 聊城での作品ですが、運ばれている略奪品をみると、「木仏」は木彫の仏像、「大楽」は雅楽(ががく)を司る宮中の役所、「編鐘(へんしょう)」は吊り鐘を音階の順に並べた中国古代からの打楽器であり、金の宮廷文化が完全に漢化していたことがわかります。それに対してモンゴル軍は、これらの中国的文化財に一顧も与えなかったのです。


 癸巳五月三日北渡三首 其三
               癸巳五月三日北に渡る三首 其の三 元好問

白骨縦横似乱麻   白骨 縦横 乱麻(らんま)に似たり
幾年桑梓変龍沙   幾年か桑梓 龍沙(りゅうさ)に変ぜし
只知河朔生霊尽   只だ知る 河朔 生霊(せいれい)の尽くるを
破屋疎煙却数家   破屋(はおく) 疎煙(そえん) 却って数家
白骨は 乱麻のように散らばり
いつの間にか 郷里(くに)は砂漠と化していた
河北の地に 人は絶えたと聞いたが
壊れた屋根から細々と 煙のあがる数軒の家

 元好問が聊城に拘留されていたあいだに、帰徳(河南省商丘市)に逃れていた金の哀宗は、さらに蔡州(河南省汝南市)に逃れ、天興三年(一二三四)正月、その地で自殺して金王朝は滅亡しました。
 詩中の「桑梓(そうし)」は生地(郷里)の意味ですが、ここでは作者元好問の生地ではなく、戦乱を避けて逃げていた「河朔(かさく)」、つまり河北のひとびとの郷里(くに)の意味でしょう。元好問は聊城に三年間拘留されたあと釈放されますが、以後は野にあって金代の詩の総集や金史の史料整理につくし、金が中国文明の正統を継ぐ王朝であることを後世に遺すことに力を注ぎました。
 亡くなったのはムンケ汗(第四代憲宗)の七年(一二五七)、六十八歳のときで、ムンケ汗はフビライ汗(元の世祖)の兄ですから元はまだ成立していません。南宋もモンゴル軍と領土を争っていましたが、まだ存続していたときで、宋滅亡の二十二年前にあたります。

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