独行独語曲江頭 独り行き 独り語かたる 曲江の頭ほとり
立秋日登楽遊園 立秋の日 楽遊園に登る 白居易
独言を呟きつつ 曲江のほとりをひとりでゆき
馬をめぐらして ゆっくりと楽遊園に登る
もの寂しく冷ややかな風 衰えた鬢毛
誰が画策して 同時に秋となしたのか
白居易が都に着いたとき、元稹は前年の冬に尚書省膳部員外郎従六品上になって中央に復帰していました。さらに十五年八月には新帝穆宗にも拝謁の栄を得て、尚書省礼部の祠部郎中(従五品上)知制誥ちせいこうに任ぜられました。
制誥の起案は中書省の中書舎人や翰林学士の役目ですので、元稹が知制誥を兼務させられたというのは、中書舎人の代役を務めることを意味します。
白居易は冬のはじめに尚書省刑部の司門員外郎(従六品上)に任ぜられ、元稹との間に差が生じています。しかし、十二月二十八日には礼部の主客郎中(従五品上)知制誥に昇進し、いよいよ政府の中枢で活躍できる立場になります。このとき牛党の指導的人物であった李宗閔は中書舎人でしたので、憲宗時代に抑圧されていた貢挙系の官吏を穆宗が重く用いはじめたことを意味するでしょう。元和十五年は慌ただしく暮れ、新春は長慶元年(八二一)です。
白居易は五十歳になり、新昌坊の青龍岡の北に小さな家を買って、早朝から参内する忙しい毎日を送っていました。同じ二月に元稹は中書舎人(正五品上)に任命され、さらに頭角を現わします。中書舎人は門下省の給事中と並んで将来宰相の地位も期待できる要職です。白居易は親友の出世を羨むような人物ではありませんので、元稹の出世を共に喜びます。
白家でも弟の白行簡が門下省の左拾遺(従八品上)に任ぜられましたので、白居易は久しぶりに前途に希望を感じる毎日を送っていました。
ところが三月になって、白居易は微妙な事件に巻き込まれます。
それは長慶元年の貢挙にまつわる不正事件で、牛党の李宗閔らが罪に問われて左遷されます。
この事件の背後には、李吉甫の息子で、このとき翰林学士になっていた李徳裕がいたという推測があり、恩蔭系の李徳裕は政敵の李宗閔を罪に落して剣州(四川省剣閣県)の刺史に左遷することに成功したというのです。
この年の貢挙に情実があったという告発があり、白居易は重試(再試験)の試験官を命ぜられ、公正に判定を行った結果、李宗閔らの不正が発覚したのでした。陰暦の立秋は七月一日です。
休日であったのか、白居易はこの日、自宅の南の曲江のほとりを騎馬で散策し、それから楽遊原の台地に登って、ひとり何事か呟きます。
まさか衰鬢と秋の悩みだけではないでしょう。
白居易は江州流謫から都へ復帰して主客郎中知制誥の地位を得ましたが、中央政界の党争は内に入りこめば入りこむほど深刻になっており、公正に政務を執行しても、それが思いがけない結果を生んでしまうのです。
白居易は自分の拠るべき立場について、いろいろと思い悩むことが多くなっていました。