題臨安邸 臨安の邸に題す 林 升
山外青山楼外楼 山外の青山楼外 の楼
西湖歌舞幾時休 西湖の歌舞幾時 か休 まん
暖風熏得游人酔 暖風熏 じ得て游人 酔い
直把杭州作汴州 直ちに杭州を把 て汴州と作 す
山の向こうに青山あり 高楼は林立し
西湖のあたり 歌舞音曲のやむときはない
暖かい風にむされて ほろ酔い歩く人々よ
杭州を 都汴州とでも思っているのか
孝宗の淳煕年間(一一七四~一一八九)の人と言われていますので、陸游が五十歳から六十四歳までの十五年間です。
そのころ成年であったのでしょう。
宋代は中国歴代を通じて官吏の給与がもっとも手厚かった時代とされており、詩から推測すると、林升はそうした手厚い給与に与れない、地位のない若い知識人であったのでしょう。
華北を金に奪われたまま、
抗金の憂国詩人です。
江村晩眺 江村の晩眺 載復古江頭落日照平沙
夕陽は 川辺の砂に映え
潮がひき 舟は置き去りにされて傾いている
水辺に佇むつがいの白鳥
人に驚き飛び立つと 花の芦群に消え去った
吟遊の詩人といえば聞こえはいいですが、貧乏だったでしょう。
詩には繊細な美しさがありますが、繊細は亡びの美です。
載復古は八十余歳まで生きたとされていますが、没年は不明です。
八十歳になった理宗の淳祐六年(一二四六)には、金はすでにモンゴルと宋の連合軍によって滅ぼされ、モンゴル軍の華北侵入がはじまっていましたので、宋の亡国を予感していたと思われます。