潯陽江頭夜送客 潯陽江頭じんようこうとう 夜 客を送れば
琵琶行 琵琶行 白居易
潯陽江のほとりで 夜 旅立つ友を見送ると
楓葉と荻花は紅白に混じり合い 秋は寂しげに暮れてゆく
わたしは馬を降り 友はすでに船中にあり
酒杯を挙げて飲もうとするが 管絃のある場所ではない
酔っても意気は挙がらず 惨めな気持ちで別れようとする
おりしも月は ひろびろと川の面を照らしている
陶淵明は白居易の尊敬する詩人です。
母の喪に服していたとき、「陶潜の体に傚う詩」十六首を作っています。
陶淵明の旧居は廬山の麓にありましたので、白居易は春になると廬山に遊び、柴桑さいそう、栗里りつりといった陶淵明の旧跡を訪れました。
「陶公の旧宅を訪う」という詩も作っています。
また一方、旅の途中で潯陽の白居易宅を訪ねてくる知人もありました。
元和十一年の秋、白居易は訪ねてきた客のひとりを送って、潯陽の渡津、湓浦ぼんぽにゆき、歌行の大作「琵琶行」びわこうを作りました。
「琵琶行」は八十八句の長詩です。
湓浦は潯陽城外、湓水が長江に流れ込む河口にありました。はじめの六句は導入部で、秋の湓浦の寂れた岸辺のようすがまず語られます。
そのとき突如 水上を渡って琵琶の音が聞こえてくる
わたしは帰るのを忘れ 友は出発を見合わせる
音をたよりに 声をひそめて名前を問うと
琵琶の音ははたとやみ 返事はなかなか返ってこない
船を動かしてちかづき こちらに来てほしいという
酒を追加し 灯を向けなおして宴をやり直す
幾度も幾度も声をかけ やっと女は出てきたが
抱えた琵琶で 顔を半分かくしている
白居易が客と別れて帰ろうとすると、船の上から琵琶の音が聞こえてきます。船を近づけて奏者の名前を尋ねると、琵琶の音はやんで返事はなかなか返ってきません。幾度も声をかけたあげく、女はやっと出てきますが、顔を半分、抱えた琵琶で隠しています。目だけを出していたのでしょう。
この導入部は演劇的で巧みです。
音締めをして ひと掻きふたかき撥ばちで払うと
まだ曲に入らないのに なんともいえない情緒がある
絃を抑えて掻き鳴らせば すすり泣くような音色は
かねての思いを 訴えているかのようだ
伏し目がちだが 手は奔放に動いて曲は流れ
心中無限の情を 吐きつくすようである
女は求めに応じて音の調整をします。
まだ曲にはいっていないのに、何とも言えない情緒があります。
やがて曲がはじまりますが、その音色は心中無限の情を吐きつくすように哀切です。
かるく抑え ゆっくり捻り 払っては跳ね上げる
はじめは霓裳羽衣の曲 つぎには緑腰の調べ
大絃は嘈々と鳴って 驟雨のように降り
小絃は切々と泣いて 囁くようだ
嘈声と切声が弾じて混じり合うさまは
大小の真珠の粒が玉盤にはじけるようだ
花陰で のどかに囀る鶯の滑らかさ
氷の下で むせび泣くような流れの停滞
流水が 凍てついてしまったように絃は絶え
はたと途絶えて 音はしばらく静まりかえる
詩中の「攏撚抹挑」ろうねんまつちょうは、琵琶を弾くときの撥ばちの使い方を示しています。はじめに「霓裳」(霓裳羽衣の曲)を奏しますが、この曲は玄宗皇帝が楊貴妃とまみえる時に演奏した曲です。白居易は演奏のさまを委曲をつくして描きますが、その筆勢には言語によって音楽を凌駕するような勢いがあり、言語能力のすべてを吐きつくすようです。
別有幽愁暗恨生 別に幽愁ゆうしゅうと暗恨あんこんの生ずる有りそこからいい知れぬ深い思いと 秘かな恨みとが生まれ出で
声のないのは 声よりも勝れてなにかを語る
すると忽ち 銀の甕は破れて水はほとばしり
鉄甲の騎馬が躍り出て 刀槍の撃ち合う音が鳴りわたる
曲が終わり 胸先で撥を収めて弧を描くと
四絃は一度に鳴って 裂帛の響きをあげる
あたりの船は 静まりかえって声もなく
ただ江上の秋空に 月は蒼白く浮かんでいる
曲の節目で音が途絶えると、その空白から「幽愁と暗恨」が生まれ出くるようです。そして再び、演奏は激しさを増して噴出します。
鉄甲を着た騎馬が躍り出て、刀槍を撃ち合うように激しく鳴り響きます。曲が終わるとき、女は胸先で撥をひと振りし、四絃は一度に鳴って曲の終わりを告げるのです。周囲の船も静まりかえって演奏に聞きほれ、江上の秋の夜空には、月が蒼白く浮かんでいるだけです。
しばし沈黙のあと 女は撥を絃に挿み
衿元をととのえて 居ずまいを正した
妾わたしはもと都の女
蝦蟇陵のほとりに住んでいました
琵琶を習って 十三のときに得業し
教坊でも第一の部類に属する妓女です
一曲終えるごとに 師匠を感服させ
装った姿は 名妓のそねみを買うほどでした
曲が終わると、女は居ずまいを正して自分の身の上を語りはじめます。
もと都の女で「蝦蟇陵」のほとりに住んでいたという。
蝦蟇陵は長安城内の地名で、常楽坊にありました。白居易がかつて住んだことのある坊です。「教坊」は妓女の属する楽戸(戸籍)を管理する役所のことで、序によると琵琶を穆と曹の二善才に学んだとあります。
その結果、教坊第一の琵琶の名手になり、「秋娘」に嫉まれるほどになったというのです。秋娘は名妓と謳われた杜秋娘としゅうじょうのことです。
都の若い貴公子たちは 争って祝儀を贈り
一曲ごとに 頭は紅絹もみでいっぱいでした
螺鈿で飾った銀笄は 歌拍子のはずみで折れ
薄絹の真っ赤な袴は 零した酒のしみだらけ
笑いさざめいて毎年が過ぎ
秋の明月 春の花風と 浮かれて暮らしているうちに
弟は軍に走り 養母ははは亡くなり
歳月はいつしか過ぎて 容色も衰えました
宴席に出ると、都の貴公子たちが争って祝儀の紅い絹布を頭に載せてくれ、銀の笄は歌拍子のはずみで折れ、真っ赤な裳はこぼれた酒のしみだらけでした。こうして毎年毎年、華やかな都の生活を送ってきましたが、やがて弟は軍隊に入り、「阿姨」(母の姉妹の意味ですが、ここでは妓楼の女主人)も亡くなり、私の容色も衰えてまいりましたと語ります。
門前冷落鞍馬稀 門前冷落れいらくして 鞍馬あんばは稀まれに門前はさびれ 客足は遠のき
老け込んだ妾は 商人の妻となったのです
儲けが第一の商人は 別れて暮らすのはあたりまえ
先月 浮梁の町へと お茶の仕入れに行きました
それ以来 湖口でこうして空船を守っていますが
船のまわりは月明かりだけ 江水は寒々と流れ
夜が更けると 夢にみるのは若かりし日のことばかり
夢に泣いて涙は頬紅と混じり合いしとどに流れ落ちるのです
遊びにくる客も稀になり、老け込んだわたしは商人の妻となりました。
けれども商人は利益を重んじ、いつも出かけているばかり。
前月、浮梁(白居易の兄幼文が勤めていた県)に茶を仕入れに行きました。
わたしはこうして空船を守っていますが、夜更けに夢にみるのは若い日のことばかり。夢に泣いて涙は頬を流れ落ちます、と嘆くのでした。
琵琶の音を聞き 溜息をついたのだが
話を聞けば 溜息はいよいよつのる
天地の果てに うらぶれ果てた者同士
会ったこともない者が こうして出逢うのも縁だろう
わたしは去年 都を去って
潯陽の配所で 病がちに暮らしている
潯陽は田舎町 音楽もなく
一年中 管絃の音を聞くこともない
湓水の近くに住んでいるが 土地は低くて湿っぽく
家のまわりには 黄芦と苦竹が生い茂っている
白居易は琵琶の演奏に感心し、さらに商人の妻の身の上話を聞いて身につまされ、自分の身の上を語ります。湓水の近くに住んでいるが、土地は湿っぽくて芦や竹が生い茂り、一年中、管絃の音を聞くこともないと歎きます。
其間旦暮聞何物 其の間 旦暮たんぼ 何物なにものをか聞くこの土地で 朝な夕なに聞くものは
啼いて血を吐く杜鵑 猿の哀しげな叫び声
岸辺に花咲く春の朝 月照る秋の夜などは
たまに酒を用意させ ひとりで傾けることもある
鄙歌や村の笛なら あるにはあるが
訳もわからぬ唸り声 さえずるだけで聴くにたえない
今夜はそなたの琵琶 その見事な語りを聞き
仙人楽を聞くように 耳もすっかり洗われた
白居易の語りはつづきます。朝夕この土地で聞くものは、血を吐くような杜鵑(ほととぎす)の声と猿の哀しげな叫び声だけです。
たまに酒を用意させ、ひとりで飲むことはあっても、鄙びた歌や村人の笛、訳のわからない唸り声だけです。
今夜はそなたの琵琶のみごとな語りを聞いて、仙人の楽を聴くように耳も洗われる心地がしたと、白居易は感謝の言葉を述べます。
もう一度坐り直して 一曲弾いてくれないか
今夜の事を詠みこんで 琵琶の歌でも作ってやろう
私の言葉に感じたのか 女はしばらく立っていたが
座にもどると絃を責め 急調子に弾きはじめた
凄愴なその音色は さきほどの曲と異なり
満座の人は聴き入って 改めて涙をおさえる
そのなかで 誰が一番泣いただろうか
それは江州の司馬 青い上着はすっかり濡れてしまったのだ
それから白居易は、さらに一曲を所望して「君が為に翻して 琵琶の行を作らん」と約束します。女は再び弾きはじめますが、その淒々とした音色に満座の人々は涙を抑えることができませんでした。
なかでも一番泣いたのは「江州司馬」白居易であり、「青衫」(身分の低い官吏の着る青い上衣)もすっかり濡れてしまうほどであったと結びます。