上陽宮に住む人よ
花の容貌かんばせは いつのまにか老い 白髪は増える
緑衣の監視人が 宮門を守り
上陽宮に閉じこめられて 幾年月が過ぎたのか
選ばれて宮中にきたのは 玄宗皇帝の末年
はいったときは十六歳 今は六十だ
いっしょに選ばれた者は 百余人
年と共に消え去って 残っているのは私だけ
詩題にある「上陽」は、洛陽の皇城の西側に隣接して置かれた上陽宮のことで、広大な離宮です。そこに住む白髪の宮女は玄宗皇帝の末年に宮中に召され、召されたとき十六歳、いまは六十歳と言っていますので、四十五年間、上陽宮で暮らしたことになります。天宝の末年から四十五年後といえば、貞元年間になりますので、白居易が進士に及第した貞元十六年(八〇〇)よりも以前の時代設定になります。多少昔の話だが、白居易が直接に経験できる時代のこととして語られていることになります。
憶昔呑悲別親族 憶おもう昔 悲しみを呑のみて親族に別れしとき思えば昔 悲しみをこらえて親族と別れ
抱きかかえられて車に乗り 泣くことはできなかった
宮中に入れば すぐに天子の寵愛があるだろう
顔は芙蓉の花のようで 胸は玉のようだからと
だが 天子様とお会いもしないうちに
はやくも遠くから 楊貴妃に睨まれる
妬まれて こっそり上陽宮に連れ出され
生涯を ひとり寝の部屋で暮らすことになる
天宝の末年には、花鳥使かちょうしと呼ばれる宮廷の使者が中国各地に放たれ、巷間の美少女を見つけ出しては後宮に入れたといいます。
だから「上陽の白髪人」のような女性はたくさんいたわけです。
少女はお前のような美人ならば、すぐに天子の目にとまって寵愛を受けられるだろうと慰められて宮中に行きますが、楊貴妃にすぐに見とがめられて上陽宮に移されてしまいます。
天子と顔を合わせるいとまもなく、洛陽の離宮に遠ざけられたのです。
秋の夜は長く
眠られぬ夜長のままに 夜は明けない
灯火はいつまでも燃えつづけ 壁には映る暗い影
夜雨はうら寂しく降りつづけ 窓には響く雨の音
春の日は遅く
ひとり淋しく坐っていると 日暮れはいつまでも訪れない
鶯が来てしきりに鳴くが 愁いに満ちて聞きたくもない
梁の燕がつがいになっても 老いの身に妬む心は生じない
だが鶯も去り 燕も去ると 淋しさは絶えることなく
春が往き 秋が来ても 年の数さえわからない
白居易は宮女の上陽宮での孤独な日々を十句にわたって具体的に描きます。しかし、玄宗の末年に宮中に召された宮女が、その後ほどなく上陽宮に移されたのであれば、安禄山の乱のときには上陽宮にいたことになります。
洛陽を占領した安禄山は上陽宮を居所にしたと史書にありますので、そのとき宮女はどのような運命にさらされたのか気になるところです。
しかし、白居易は歴史に触れません。詩が問題にしているのは、寵妃への寵愛の陰で、多くの宮女の不幸な日々が存在したという事実です。
このことから、この詩は皇帝と愛妃との永遠の愛を詠った「長恨歌」の陰画として作られていることが理解されます。
奥深い宮中で いたずらに明月を眺め
東に西に数百回 月は満月を繰りかえす
いまでは宮中一の年長者
だからお上から 尚書の称号を賜わった
先の尖った靴 細い裳裾
眉墨で描いた 長い眉
世間の人は見ないけど 見れは必ず笑うであろう
天宝末年 時代遅れの装いなのだ
生涯を無駄に過ごすうちに、宮女は宮中一の年長者になり、尚書の称号をもらいます。尚書は女官としての上位の称号でしょう。しかし、服装や化粧は天宝末年のままで、時代遅れの装いなのだと、上陽白髪人は自嘲するのです。
上陽人 上陽の人最後の七句は結びです。三語の四句が上陽の宮女の苦しみを訴え、七語の一句が嘆きを盛り上げます。十語二句の結びでは、世に苦言を呈します。上陽宮の宮女は
苦しみが多い
若いときも苦しみ
老いてまた苦しむ
絶え間なくつづく苦しみを どうしたらいいのか
知っているだろう むかし 呂向が書いた「美人の賦」
今日は私の「上陽白髪の人」 読んでみたらいかがかな