新豊の街の老人 年は八十八歳
髪や眉 あごひげも雪のように白い
孫の孫に支えられて 店の前を行く
左の腕で肩にすがり 右腕は折れている
翁に尋ねる 「腕を折ってから 何年になるのですか」
「どういうわけで 折ってしまったのですか」と
翁は答える 「私は新豊県に属する者
聖代に生まれ合わせて 戦もありませんでした
梨園の歌や音楽に聞きなれて
旗や槍 弓矢のことなど知りません
この詩の小序は「辺功を戒むるなり」とあります。
「辺功」とは国境付近での戦功のことで、外征の功を争う無益な戦が平和に生きている民衆にはかり知れない苦しみを与えることを告発しています。
はじめの十句は導入部で、新豊(陝西省臨潼県の東北)の街で八十八歳になるという翁を見かけます。右臂の折れた翁が「玄孫」(曾孫の子)に助けられて歩いているので、白居易は臂が折れたのはどういうわけかと尋ねます。
あとは翁の答えで、自分は新豊に籍のある者ですが、弓矢のことも知りませんでしたと平和に生きてきたことを述べます。
なお、新豊は漢の劉邦が楚の豊県の出身だったので、漢を建国したときに新しく建てた街で、故郷の街とそっくりに作られました。
豊県から連れてきた犬も、道を間違えずに自分の家を探し当てたという話が伝わっているくらいです。漢初のころ一時都だった時期もありますが、都が長安に定まってからは劉邦の父親の居城になりました。
ところが程なく天宝の代 大徴兵がはじまって
家に三人の壮丁がいれば 一人は兵籍に取られ
何処に駆り出されて行くかといえば
夏五月 万里の彼方 雲南に行くというのです
聞けば雲南には 瀘水があって
山椒の花が散るころには 瘴気が立ち昇り
大軍が徒歩で渡ると 水はお湯のように熱く
渡り切らないうちに 十人に二三人は死ぬそうです
村中は 哀しみの泣き声であふれ
息子は父母に別れ 夫は妻と別れる
ところが天宝の御代になって大徴兵がはじまり、何処に出兵するかというと雲南(雲南省方面)に行くというのです。雲南には毒気を含んだ川があり、渡り切らないうちに十人に二三人は死ぬという噂がひろがって、村中は哀しみの声にあふれたと、翁は当時を振り返ります。
皆云前後征蛮者 皆云う 前後 蛮ばんを征する者蛮族征伐に行った者は あとにもさきにも
万に一人も無事に帰った者はいないと皆が言う
ときに私は二十四歳
兵部の名簿に名前が載っておりました
夜が更けて 誰にも知られないように
大きな石で 腕をたたき折りました
弓を引くことも 旗を振ることもできなくなり
それでやっと 雲南行きをまぬがれたのです
骨は砕け 筋肉は破れて 苦しくないはずはありませんが
どうにか名簿から外され 故郷に帰れるようにしたのです
新豊の翁がみずから腕を折ったのは二十四歳のときと言っていますので、元和四年(八〇九)に八十八歳の老人が二十四歳であったのは天宝四載(七四五)ということになります。
この年は楊太真が貴妃(皇后の次の位)になった年で、このころから玄宗の辺境攻略の徴兵が始まっていることは史書でも確かめられます。
自分の名前が兵籍(唐は当時徴兵制度でした)に載っており、徴兵が言ってきたので、二十四歳の若者は誰にも知られないように大きな石で自分の腕を折ったというのです。
腕を折ってから 六十年になりますが
手は一本だめになっても 命だけは助かりました
風雨の夜 底冷えのする日には
いまでも痛んで 夜明けまで眠られません
痛くて眠られなくても 後悔はしていない
老人になるまで ひとり生きているのを喜んでいます
そうでなければあの時 瀘水のほとりで死に
魂は孤独にさまよって 骨は拾ってもらえず
雲南の地で 望郷の鬼となり
万人塚のほとりで悲しく泣いていることでしょう」
翁の話はつづきます。腕を折ってから六十年になりますが、手は一本だめになっても、命だけは助かりました。
いまでも痛んで眠られないときもありますが、後悔はしていません。
そうでなけれは雲南の戦にかり出されて、いまごろは望郷の鬼となって万人塚のほとりで泣いていることでしょうと結びます。
老人のこの言葉 しっかり耳にとどめてほしい
皆さんもお聞きのように
開元の宰相宋開府は
辺功に賞を与えず 無用の戦をしなかった
またお聞きのように
天宝の宰相楊国忠は
天子の恩寵を求めて 辺境での軍功を企てた
ところが功績もないうちに 人の怨みが生まれる
どうか尋ねてほしいのだ 新豊の腕を折った翁に
最後の十句は結びです。
詩中の「宋開府」は玄宗の開元初期の名宰相宋環そうかんのことで、開府儀同三司という職にいましたので、宋開府と呼ばれます。
宋開府は玄宗を補佐して辺功を賞しませんでしたが、天宝末期の宰相楊国忠は南詔討伐の兵を起こして辺功を立てようとしました。
しかし、失敗して多くの犠牲者を出したのです。
楊国忠が宰相になったのは天宝十一載(七五二)のときですので、新豊の翁は三十一歳になっていたことになります。
「五月 万里 雲南に行く」というのは象徴的な表現かもしれませんが、白居易は天子の機嫌を取るために臣下の起こす戦争が、いかに民衆を苦しめるものであるかを具体的に描いて、「辺功」を戒めたのです。