胡旋女 胡旋女 胡旋こせんの女 胡旋の女
胡旋女戒近習也 胡旋の女近習を戒むるなり 白居易
胡旋の舞姫 西域の踊り子よ
心は絃に応じ 手は鼓に従う
音曲ひとたび鳴れば 両袖はひるがえり
風に舞い散る雪 転びゆくよもぎ草
右に左に 旋回して疲れを知らず
千回万回 やむときがない
この世の物で比べるものはなく
奔る車輪も つむじ風もかなわない
曲が終わり 再拝して天子に額ずくと
帝の口元に 笑みがこぼれる
元和三年八月ごろ、白居易は友人楊汝士の妹と結婚します。翌元和四年(八〇九)に長女が生まれ、翰林院にちなんで金鑾きんらんと名づけました。
この年の二月には元稹も母親の喪が明け、御史台の監察御史(正八品上)に任ぜられました。元和四年の三月、成徳節度使の王真士おうしんしが亡くなり、その子の王承宗おうしょうそうが留後りゅうごと称して節度使になろうとしました。
節度使は本来、政府が任命するもので世襲ではありません。
このころ河北諸鎮の世襲化は半ば公然の慣行になっていましたので、憲宗はこの機会に藩鎮世襲の弊害を除こうと考えました。成徳節度使の冶所は恒州(河北省正定県)にあり、いわゆる河朔三鎮のひとつです。
政府部内には河朔三鎮に手をつけるのは時期尚早との論があり、白居易も討伐には反対でした。しかし、宦官で左神策軍中尉の吐突承璀ととつしょうさいが名乗り出て、みずから討伐に向かいたい願い出ましたので、討伐が開始されました。しかし、吐突承璀の軍はしばしば成徳軍に破れ、討伐の成果はあがりません。そのうちに十一月二十七日になって淮西節度使の呉少誠ごしょうせいが死に、呉少陽ごしょうようが呉少誠の子の呉元慶ごげんけいを殺して留後を自称しました。淮西節度使の冶所は蔡州(河南省汝南県)にあって、河朔三鎮からは離れています。そのため政府部内では蔡州を討つべきであるという意見が強かったのですが、河北に兵を出しているために兵の余裕がなく、呉少陽の淮西節度使は認めざるを得ませんでした。白居易はこの時期、翰林学士・左拾遺の職にありますが、職務のかたわら「新楽府五十篇」の制作にいどみます。
「胡旋女」はそのなかの一首です。
胡旋の舞姫は康居ソグドの国を出て
万里の路を東へ来たが 無駄足であった
中国にはもとより胡旋の名手がいて
妙技を競っても 勝ち目はない
天宝の末年 時勢が変わろうとするとき
男女の近習が 円転の舞を学んだ
宮中では太真 外では安禄山
この二人こそ 胡旋の舞の名手である
楽府がふは漢代からあったものですが、唐代になって楽府の題と曲調を借りて新しい民謡風の詩を作ることが始まります。
白居易は楽府の社会詩的な部分を発展させ、題も内容にふさわしい新しいものに変えて「新楽府」と称しました。詩の内容も政事や社会の矛盾を指摘する内容に意識的に変えて、唐詩の革新をはかります。
白居易の「新楽府」には序がついていますが、詩の原点は『詩経』にあり、詩経の詩はもともと民間の声を天子に伝えるために采詩官さいしかんによって諸国から集められたものであり、単なる個人的な詠嘆や風景の美を詠う詩は、詩本来の任務を忘れたものであると主張しています。
「新楽府」の各詩には、さらにそれぞれの詩の目的を示す小序がついており、「胡旋女」の小序は近習(天子が身辺に近づけている寵臣)に人を選ばなければ、再び安禄山の乱のような大乱を生ずると警告するものです。
梨花の御苑で 太真は貴妃となり
金鶏の衝立の陰で 安禄山は養子となる
安禄山は胡旋を舞って 天子の目を惑わし
兵が黄河を渡っても 帝は叛乱を信じない
楊貴妃は胡旋を舞って 天子の心を惑わし
馬嵬で死を与えても 未練はつきない
それ以来 地はめぐり 天は移るが
五十年来 胡旋の舞を禁止できない
胡旋の舞姫よ 空しく舞うのはやめ
しばしばこの歌を唱って 名君の目をひらかせよ
「長恨歌」においては、あくまで男女の愛の永遠性を伝奇風の筋立てで物語り、楊貴妃の悲劇の原因となった安禄山の叛乱については触れるところがありませんでした。白居易は無論、そのことを意識してたわけで、「胡旋女」においては、その欠を補うように、胡旋のような芸能にうつつを抜かして天子の寵を争うような政事であってはならない。「数しばしば此の歌を唱いて明主を悟らしめよ」と忠告しています。