怠ける癖が似ているので 互いに親しみ合い
共に寒門の出であるから つき合うのによい
灯火を背にして 深夜の月を愛で
落花を踏んで 青春の時を惜しむ
華陽観は辺鄙なところ 病を治すにはよいが
校書郎の地位は低くて 貧乏を救えない
学問や行いが君のようでも やつれ果てている
朝廷ではいったい どのような人を用いようというのか
この詩は題中に「春中」とありますので、先の詩と同じ年の二月か三月の作品でしょう。そのころ白居易は銓試よりも一段高い任用試験である制挙せいきょを受けようと決心し、常楽坊の家を引き払って永楽坊の華陽観かようかんに移りました。華陽観は道教の寺で、勉強には適しています。
華陽観には廬周諒ろしゅうりょうも部屋を借りていて、隣人として親しくなったようです。永楽坊は大慈恩寺のある晋昌坊の北二つ目の坊で、西に面した高台の中腹に位置します。「住僻」と言っていますので、当時は繁華街から離れた辺鄙な場所であったのでしょう。順宗に起用された王叔文おうしゅくぶんら改革派は、新進気鋭の官僚を集めて政事改革を推進します。その中には白居易と同年生まれの劉禹錫りゅううしゃくや一歳年下の柳宗元りゅうそうげんもいました。
王叔文はこれら若手の俊秀の地位を引き上げ、その異例の昇進は世の注目を浴びました。白居易は自分と同年齢の劉禹錫らが、自分よりは早く進士に及第していたために昇進の機会に恵まれたのを見て、「知らず
霄漢 何人をか待つ」と廬周諒にこと寄せて不満を吐露しています。
自分の官途の遅れを取りもどすには、さらに上級の制挙を目指す必要があると考えての行動であったと思われます。
三月三十日題慈恩寺 三月三十日 慈恩寺に題す 白居易
慈恩春色今朝尽 慈恩の春色しゅんしょく 今朝こんちょう尽く
尽日徘徊倚寺門 尽日じんじつ徘徊して 寺門じもんに倚たつ
惆悵春帰留不得 惆悵ちゅうちょうす 春帰りて留とどめ得ざるを
紫藤花下漸黄昏 紫藤しとうの花下 漸ようやく黄昏こうこん
慈恩寺の春景色も 今日で終わり
一日歩きまわって 門の側に立ち止まる
悲しいのは 春を引き止められないこと
紫の藤の花 静かに深まる黄昏の色
三月三十日は春の最後の日です。白居易は華陽観から近いところにある大慈恩寺を訪れ、過ぎゆく春の一日を楽しみます。制挙受験の考えは、洛陽の元愼にも伝えられ、元愼も洛陽の職を辞して華陽観に移ってきます。
一方、王叔文らの政事改革は急速に進められますが、宦官が握っていた神策軍の指揮権を取り上げようとしたことから、宦官側の猛烈な巻き返しが起こります。順宗は口が利けないと言っても愛嬪を通じて意思は伝えることができたのですが、反対派は王叔文らが病気の順宗を操って政事を専断していると非難し、改革派の内部でも分裂が起こります。
八月四日になると順宗は退位に追い込まれて太上皇となり、太子の李純が即位して憲宗となります。順宗は半年余の在位で、当時は踰年称元法ですのでまだ改元が行われていませんでした。
そこで退位の月に永貞と改元になり、これが順宗の年号となります。
したがって史書では、八月の政変を「永貞の政変」といいます。
憲宗は即位したときに二十七歳でした。
即位するとただちに王叔文ら改革派の粛正に乗り出し、改革派たちは地方の司馬(州の次官ですが無権限の職)に流されます。
史書はこれを「八司馬の貶へん」と称しています。白居易はこの政変を華陽観の寓居から複雑な心境で眺めていたはずです。