冬至宿楊梅館 冬至 楊梅館に宿す 白居易
十一月中長至夜 十一月中 長至ちょうしの夜よる
三千里外遠行人 三千里外 遠行えんこうの人
若為独宿楊梅館 若為いかんぞ 独り宿す楊梅館ようばいかん
冷枕単妝一病身 冷枕れいちん 単妝たんしょう 一病身
十一月の冬至の夜
都を離れて三千里 遠くを旅する者よ
どうしてひとり 楊梅館に宿しているのか
冷たい枕 侘びしい寝床 ひとり病に臥している
そのころ淮西節度使呉少誠ごしょうせいの乱は、すでに三年にわたってつづいていました。政府は呉少誠の彰義軍を討伐することができず、この年の十月二十三日に呉少誠を赦免して旧職に復しています。
このころの政府は、節度使に対する統制力が無いに等しく、叛乱者と妥協するほかなかったのです。
白居易は江南の宣州や兄のいる浮梁をめざして旅をつづけますが、冬至のころには楊梅館という旅宿で病に臥していました。
旅の疲れか、風邪でもひいたのでしょう。
詩はひとり旅の淋しさを詠ったものです。
花下自勧酒 花下 自ら酒を勧む 白居易酒盞酌来須満満
酒は杯に なみなみとつぐべきだ
咲く花は たちまち枝から落ちていく
三十歳は まだ若いと言うなかれ
既に生涯 三分の一は過ぎたのだ
白居易が懐中ものさびしいなか宣州まで行ったのは、前進士の資格をもとに、宣歙観察使崔衍の辟召へきしょうを受けたいと考えていたからだと思われます。辟召は使職が自由に行える任用ですので、白居易はともかく職に就いて収入を得たかったのでしょう。
収入を得て母親の生活を援助する必要もありました。
しかし、宣州での希望はかなえだれませんでした。
そこで白居易は、浮梁の兄幼文の家まで足を延ばし、将来のことなど相談したと思われます。白居易は貞元十七年(八〇一)に三十歳になり、そのときは浮梁の兄の家にいたと思われますが、誕生日に詩を作っています。もう三十だ、若くはないという思いがあったのでしょう。
白居易は詩の中に数字を入れるのが好きでした。
おかげで、詩の作成された年を正確に知ることができます。