剣門道中遇微雨 剣門道中 微雨に遇う 陸 游
衣 は旅塵にまみれ こぼした酒の痕 だらけ
さすらい歩くこの身には 落ち込むようなことばかり
このおれは 詩人となるべき運命 であろうか
霧雨のなか 驢馬に騎って剣門にはいる
この年は十月に金軍が南下をはじめ、十二月二十三日に徽宗が退位して欽宗が即位します。あわただしいなか、父陸宰は京西路転運副使に任命され、一家は滎陽(河南省鄭州の西)にとどまって、父親だけ黄河北岸の勤務地に赴きます。靖康の変が起きたのは陸游が三歳になった年の三月です。
一家は金軍に追われながら、故郷の越州にもどります。
しかし、金軍は北宋の高宗を追って江南へ侵攻してきましたので、さらに南の山中の街に難を避け、山陰の家にもどってきたのは九歳のときでした。
三十歳のときに二度目の科挙の試験を受けますが、成績が優秀であったにもかかわらず、ときの権力者秦檜の妨害に遇って合格しませんでした。
しかし、三十八歳のとき孝宗に詩才を認められて進士の資格を与えられ、本格的に官途に就きます。
陸游は金に対する抗戦派で、多くの抗金の詩を書いていますが、そのために和議派からは疎んぜられ、官途には恵まれませんでした。
詩は孝宗の乾道八年(一一七二)、四十八歳の陸游が南鄭(陜西省漢中市)での職を失って成都(四川省成都市)へ向かうときの作品で、自分は官吏として国に尽くそうと思っているのに思うようにならない。
詩人になるのが自分の運命なのかと悲観しているのです。
「
小園四首(録二) 小園四首(二を録す) 陸 游
歴尽危機歇尽狂 危機を歴尽 し 狂を歇尽 す
残年惟有附耕桑 残年惟 だ耕桑 に附する有るのみ
麦秋天気朝朝変 麦秋の天気 朝朝ちょうちょうに変じ
蚕月人家処所忙 蚕月 人家 処所忙 し
色々と危ない目に会い 物狂いの気分もなくなった
残りの人生は 桑畑でも耕して生きるだけだ
麦秋のこの季節 天候は日ごとにかわり
養蚕の月なので 農家はどこも忙しそう
成都では蜀各地の知州事の臨時代理のような仕事を転々として五年間を過ごしますが、孝宗の淳煕五年(一一七八)二月、都に呼びもどされます。
孝宗は中央の公署に任じたかったようですが、対金和議派の反対があったようで、提挙福建常平茶塩公事という経済関係の職を与えられます。
ついで提挙江南西路常平茶塩公事に任命され、建寧(福建省建甌県)から撫州(江西省撫州市)に赴任します。しかし、淳煕八年(一一八一)、そこも免ぜられ、五十七歳で郷里に帰ります。
「小園」は帰郷してからの作品で、「歇尽狂」と言っているのは抗金の気持ちもすり減ったと言っているのです。これからは桑畑でも耕して暮らすほかはないと、引退の気持ちをほのめかしています。
小園四首(録二) 小園四首(二を録す) 陸 游村南村北鵓鴣声 村南 村北
村の南北どちらでも 鵓鴣の声が聞こえている
新苗が水から顔を出し 野はひろびろと平らかである
空の果てまで千万里 あまねく旅をしてきたが
今は近所のおじさんに 春の野良仕事を習っている
陸游の祖父
しかし、陸游は気さくな性格であったらしく、隣家の農夫から春の野良仕事を習っています。ボッコはこのあたりでよく見かける鳥であったらしく、李白の詩にも出てきます。