牡 丹           牡 丹      陳与義
一自胡塵入漢関    一たび 胡塵(こじん)漢関(かんかん)に入ってより
十年伊洛路漫漫    十年 伊洛いらくみち漫漫
青墩渓畔龍鐘客    青墩渓畔(せいとんけいはん) 龍鐘りゅうしょうの客
独立東風看牡丹    独り東風(とうふう)に立って牡丹(ぼたん)を看る
夷狄の兵が 国境を越えて十年
遥かな洛陽 路は遠く果てしない
青墩渓のほとりに 老いやつれた仮住まい
春風のなか ひとり佇んで牡丹をみる

 靖康の変のとき欽宗の弟の康王構は使者となって都を離れていましたので、皇族で唯一逮捕されずに残っていました。康王は応天府(河南省商丘市)で即位し、年号を建炎と改めました。
 即位してその年に年号を立てるのは新王朝を立てたことを意味し、これが南宋の初代高宗です。やがて高宗は江南に移動しますが、追撃してきた金軍に追われて点々と都を移す状況でした。
 高宗が臨安(浙江省杭州市)に定着するのは、五年後の紹興二年(一一三二)になってからです。
 その間、陳与義は南宋に仕えて兵部員外郎、中書舎人から参知政事に至りました。詩は「十年」とあるので、靖康の変から十年たった紹興六年(一一三六)、陳与義四十七歳のときの作品で、そのとき陳与義は「青墩渓」(浙江省桐郷の北)に客居していたようです。
 金との和議はまだ成立しておらず、「牡丹」が名物の洛陽にもどれる見込みは立っていませんでした。
 陳与義はこの二年後、四十九歳で江南で没します。


田園雑興十二絶 夏日其一 范成大
梅子金黄杏子肥  梅子ばいし金黄(きんおう) 杏子きょうしは肥え
麦花雪白菜花稀  麦花ばいか雪白(せっぱく) 菜花さいかは稀なり
日長籬落無人過  日長くして籬落(りらく)に人の()ぎる無く
惟有蜻蜓蛺蝶飛   だ蜻蜓せいてい 蛺蝶(きょうちょう)の飛ぶ有るのみ
梅は黄金色に熟し 杏あんずも脹ふくらむ
麦の花は雪のように白く 菜の花はまばらである
日脚は延びたが 籬まがきのあたりに通る人なく
飛んでいるのは 蝶々と蜻蛉とんぼだけ

 范成大の田園雑興は、春日・晩春・夏日・秋日・冬日の五季について各十二首の七言絶句がならびますので、全部で六十首になります。
 范成大は隠居地の石湖で悠々自適の生活を送りながら、田園雑興を書いた七年後、光宗の紹煕四年(一一九三)に六十八歳で亡くなりました。


 初入淮河三首 其一  初めて淮河に入る三首 其の一 楊万里

 船離洪沢岸頭沙  船は洪沢こうたくの岸頭がんとうの沙すなを離る
 人到淮河意不佳  人は淮河わいがに到って 意ならず
 何必桑乾方是遠  何ぞ必ずしも桑乾を(はじ)めて是れ遠しとせんや
 中流以北即天涯  中流以北は即ち天涯てんがいなり
船は洪沢湖岸の砂浜を離れ
淮河にはいると気分が悪い
桑乾河に行ってはじめて 遠くへの旅といえるが
流れの真ん中から北は 天の涯はて

 楊万里ようばんりは靖康の変の年(一一二七)に吉州吉水(江西省吉安市)で生まれました。高宗の紹興二十四年(一一五四)、范成大と同じ年に二十八歳で進士に及第しました。地方官を歴任したあと中央にもどり秘書監になりますが、剛直な性格で金に対する徹底抗戦を主張する強硬派でしたので、その後もしばしば地方に左遷されます。
 詩は金使の接待役を命ぜられたときの作品で、「洪沢」は江蘇省盱眙県くいけんの北にある湖です。
 淮河以北は金の領土であるので気分が悪いと言っています。
 桑乾河そうかんがは北京の西をながれている永定河の上流をいいますので、そのあたりまで行ってこそ、つまり金を長城外へ追いやってこそ遠くへ旅したと言えるのに、淮河の北は外国だと憤慨しているのです。

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