聞けば汝は 山寺に身を寄せているとか
杭州であろうか 多分越州であろう
戦塵のなか 永いこと別れたまま
江漢の地で 私はむなしい秋を過ごしている
わが影は猿の啼く巫峡の樹に映っているが
魂は蜃気楼の立つ東の海へ飛んでいる
明年 春の長江を下れば
東のかた白雲を極めて 汝を探し求めるであろう
春に夔州を訪れた異母弟の杜観は、このころ妻をともなって荊州(湖北省江陵県)の北にある当陽(湖北省当陽県)に来ていました。
官に就いていたかどうかは不明ですが、東方の済州で成長した杜観が妻を連れて江南の県にやってくるというのは、微官であっても官途によると考えた方が妥当でしょう。杜観はしばしば杜甫に書信を送って、荊州に出てくるように促していました。そうした書信のひとつに義母盧氏の生んだ末弟の杜豊とほうの消息がありました。
杜豊はこのころまだ十代の後半であったと思われます。
その杜豊が「江左」、つまり北から見て長江の左、江東の地にあり、山寺に身を寄せていることを杜甫は知ります。別れたとき杜豊はほんの幼児でしたので、杜甫は顔の記憶も薄らいでいたでしょう。十代の少年が「山寺に依る」ということがどういうことか、杜甫には分かっています。
苦労をしている末弟豊にひきかえ、長兄で戸主の自分は「江漢」の地でむなしい秋を過ごしていると反省しています。杜甫はすでに、来春になれば夔州を発って長江を下る決心をしていたらしく、「明年
春水を下らば」といい、東のかた江東にまで行って杜豊を捜し求めるであろうと言っています。
義母盧氏と妹のことは何も触れていませんが、このとき盧氏の一家はばらばらになっていたのではないでしょうか。しかし、杜甫は江東まで行くことはできませんでした。杜豊とも会うことはできずに世を去るのです。
冬 至 冬 至 杜 甫年年至日長為客 年年ねんねん 至日しじつ 長つねに客と為なり
年毎の冬至の日を 旅路で迎え
せまりくる窮状に 心は疲れ泥にまみれる
川のほとりに独り 老いさらばえた姿となり
さいはての風俗に 慣れ親しむ身となった
雪の晴れ間に杖をつき 谷に臨んで立っているが
都では朝から玉佩の音 御座所をさがるころだろう
このとき心は砕け散り 方寸の形を保てない
いずこが都の方角かと 路のあたりを迷い見る
やがて冬がやってきて、杜甫は夔州で二度目の冬至の日を迎えます。
「冬至」とうじは陰暦の十一月二十二日前後で、唐代では冬至の前後に七日間の休暇が与えられる習慣でした。その日、都では天子は紫宸殿ししんでんにおいて群臣の朝賀を受け、圜丘えんきゅう(天をかたどる円形の壇)に上って天を祭り、天下の太平と五穀の豊穣を祈りました。杜甫は世界の果てのような地にあって、土地の風俗にもなじむようになってしまった自分のことを考えながら、かつて都で経験した冬至の朝賀の模様を思い出します。
すると心臓が破裂しそうな悲しい気持ちになり、都の方角さえ見失ってしまうと嘆くのです。
都を慕う杜甫の気持ちは、消そうとしても消すことができません。