雨中登岳陽楼望君山 雨中 岳陽楼に登って君山を望む 黄庭堅
投荒万死鬢毛斑    (こう)に投じて 万死 鬢毛斑(まだら)なり
生出瞿塘灔澦関     生きて瞿塘(くとう)灔澦関(えんよかん)を出づ
未到江南先一笑    未だ江南に到らざるに()ず一笑し
岳陽楼上対君山    岳陽楼上 君山(くんざん)に対す
辺地に追放されて死ぬ目にあい 白髪まじりの鬢となったが
生きてようやく瞿塘峡 灔澦堆(えんよたい)をのがれてきた
まだ江南には行きつかないが ほっとひといき
雨のなか 岳陽楼に上って君山に対す

 黄庭堅は旧法党に属していたので、哲宗が親政をはじめて新法党が復活すると、巴蜀の地(四川省)に貶謫されました。
 そして六年、五十七歳になっていた黄庭堅は徽宗の建中靖国元年(一一〇一)に許されて長江を下ってきました。
 蘇軾が海南島から都へ呼びもどされたのと同じ年のことです。
 「瞿塘灔澦(くとうえんよ)」は長江三峡のふたつの難所で、難舟の多いその場所を関所に喩えたのです。「岳陽楼(がくようろう)」は岳州城(湖南省岳陽市)の西門上に建っていた三層の城楼で、眼下に洞庭湖を望めます。
 「君山(くんざん)」は洞庭湖に浮かぶ小島で、舜帝の二女湘君を祀る祠がありました。
 岳陽楼から西を望むと対岸に近い所に君山があります。
 やっと流謫をのがれて江湖の地にもどってきてほっとしたところですが、黄庭堅はその四年後、煕宗の崇寧四年(一一〇五)に六十一歳で亡くなります。


   村 居          村 居       張舜民
水繞陂田竹繞籬  水は陂田(ひでん)(めぐ)り 竹は(まがき)を繞る
楡銭落尽槿花稀  楡銭(ゆせん)落ち尽くして槿花(きんか)稀なり
夕陽牛背無人臥  夕陽(せきよう) 牛背(ぎゅうはい)に人の()する無し
帯得寒鴉両両帰  寒鴉(かんあ)を帯び得て両両(りょうりょう)に帰る
段々畑を水路がめぐり 垣根のまわりに茂る竹
楡の葉は散りつくして 木槿(むくげ)の花もまばらになる
夕陽を浴びて牛に乗り 背中で居眠りするでもなく
冬の鴉をとまらせて ともに歩いてゆっくり帰る

 張舜民(ちょうしゅんみん)は生没年不明。陳師道(一〇五三〜一一〇一)の姉の夫で、蘇軾とも交友があったという。ただし、陳師道自身が王安石の教育改革をきらって仕官せず、貧窮に苦しんだというから、張舜民も村里に暮らす反俗の知識人であったのであろう。「陂田」は段々畑、「楡銭」は楡の葉が穴明き銭に似ていることから(にれ)の葉をいい、「寒鴉」は冬の烏ともカラスの一種ともいう。


  襄邑道中         襄邑道中     陳与義
飛花両岸照船紅    飛花 両岸に船を照らして(あか)
百里楡堤半日風    百里の楡堤(ゆてい) 半日の風
臥看満天雲不動    ()して看る 満天の雲の動かざるを
不知雲与我倶東    知らず 雲と我れと倶に東するを
岸辺の花は乱れ飛び まっかに船を照らし出す
百里もつづく楡の(どて) 風をはらんだ半日の旅
寝そべって 満天の雲を眺めていると動かない
なんと雲は いっしょに東へ流れていた

 陳与義(ちんよぎ)は哲宗の元祐五年(一〇九〇)、北宋の時代に洛陽で生まれました。
 徽宗の政和三年(一一一三)に二十四歳で進士に及第し、北宋朝で太学博士などを歴任しました。欽宗の靖康元年(一一二六)に金軍が都汴京に攻め入ったとき、陳与義は三十七歳になっていました。
 詩題にある「襄邑(じょうゆう)」は河南省睢県の付近で、運河を船で旅行していたのでしょう。北宋時代、役目上の舟旅であったと思います。
 起承句はなかなかきびきびした表現になっています。
 転結句で船上に寝そべって空の雲を眺めていたら動かない、雲も船といっしょに東へ動いていたのだという発見は、現代からすると幼稚で陳腐に見えますが、当時の詩の発想としては斬新なものであったようです。

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