西蜀桜桃他自紅 西蜀せいしょくの桜桃おうとうも他また自ら紅なり
野人送朱桜 野人 朱桜を送る 杜 甫
西蜀の桜桃も 都とかわらぬ紅の色
近所の百姓が 籠にいっぱい贈ってくれた
薄皮が破れはせぬかと 注意深く取り出すが
どれもこれも真ん丸で 揃っているのを不思議に思う
思えば昔 門下省で この果物を下げ渡され
うやうやしく捧げて 大明宮を退出した
しかし今は 宮中からも高官からも消息なく
この日 初物を味合いながら 身は転蓬の旅に任せている
東川地方の混乱を収めきれない西川節度使の崔光遠さいこうえんは、責任を問われて上元二年十一月に罷免されます。
後任として厳武げんぶが東川と西川を合わせた剣南両川節度使兼成都尹に任ぜられて赴任してくることになりました。
厳武は杜甫より十四歳の年少ですが、杜甫は厳武の父親とも親交があり、厳武とも親しい仲でした。厳武は翌宝応元年(七六二)の初春に成都に着任し、着くとすぐに詩を送り合い、交流がはじまります。
杜甫は身近に有力な知友を得たことになります。
このころ杜甫は近所の農家とも積極的に交流するようになっており、桃や竹、松などの苗をもらって草堂のまわりに植えています。
また川辺には薬草園や菜園を設けて、みずから耕したようです。
そうした初夏のある日、近所の農夫が籠一杯の桜桃さくらんぼを持ってきました。それを籠から取り出しながら、杜甫は左拾遺として門下省に出仕していたころを思い出します。
そしていまは、転蓬の身となって漂泊の旅にいることを嘆くのです。
剣門外の蜀地に 河北奪回に報せだ届き
聞くやたちまち 涙は溢れ衣裳のうえにしたたった
妻子を見ても 愁いはどこかへ消え去って
気もそぞろに詩書を巻き 狂いだすほどの喜びだ
昼間から大声で歌い 祝いの酒をたっぷり飲もう
この春こそ 一家揃って故郷へ還るとき
巴峡を通り 巫峡を抜け
襄陽に下って 洛陽に向かおう
厳武という保護者を得て、杜甫はいくらか安らかな気持ちになりましたが、永くはつづきませんでした。宝応元年の四月に玄宗が七十八歳で崩じ、その十二日後に粛宗が五十二歳の若さで崩じました。
そのため厳武は両帝の橋道使きょうどうしに任ぜられ、都に呼びもどされたからです。六月、杜甫は弟杜占を伴って厳武を綿州(陝西省綿陽県)まで見送り、さらに綿州の北二〇㌔㍍の奉済駅までついていって、別れを惜しみました。
すると七月、厳武がいなくなるのを待っていたように、成都少尹の徐知世じょちせいが叛乱を起こしました。このとき蜀州(四川省崇慶県)の刺史であった高適こうせきが兵を出して、叛乱は一か月ほどで鎮圧されました。
杜甫はその間、乱を避けて綿州にとどまっていましたが、乱が平定しても成都にもどらず、梓州(四川省三台県)に移って梓州刺史で東川留後の章彝しょういのもとに身を寄せます。杜甫はこの機会に涪江ふうこう沿いの諸城市で過ごすことを考えたらしく、成都にいた家族も呼び寄せています。
同じ年の十月、政府軍は洛陽の史朝義軍を攻めていましたが、内紛で弱体化していた史朝義軍は敗走し、政府軍は河南・河北を奪回しました。
史朝義は北に追い詰められ、寝返った部将たちによって翌広徳元年(七六三)正月に平州(河北省盧龍県)で自殺しました。
七年有余に及んだ安史の乱は、ここに終息したのです。
杜甫はこの報せを梓州で聞き、小躍りして喜びます。
杜甫は勝利の報せに勇み立って、すぐにでも故郷に帰ろうと詠います。
尾聯の二句では巴峡・巫峡・襄陽・洛陽と帰りの道順までいきいきと述べますが、旅立ちはなかなか実現しませんでした。
旅行のための資金が調わなかったこともありますが、安史の乱が終わると、今度は吐蕃(チベット)が西から関中に侵入してきて、七月には秦州以西の地が吐蕃に占領される事態になったからです。