食茘枝 茘枝を食らう 蘇 軾
羅浮山下四時春羅浮山下 四時春のごとく
盧橘楊梅次第新盧橘 楊梅 次第に新たなリ
日啖茘支三百顆 日々に茘支 を啖うこと三百顆
不妨長作嶺南人 妨げず長 えに嶺南の人と作るを
羅浮山の麓は いつも春のようだ
金柑や山桃は つぎつぎに実をつける
茘支を毎日 三百個も食えるから
このまま嶺南の人になっても かまわない
哲宗の紹聖三年(一〇九六)、蘇軾六十一歳のときの作です。
このとき蘇軾は哲宗の親政による新法党の復活によって、嶺南の地、恵州(広東省恵陽県)に流されていました。「茘支」は温暖な嶺南地方の名産で、楊貴妃の好物であったことでも有名でした。
そのレイシを毎日食べられるから、このまま嶺南の人になってもいいといった蘇軾の懲りない態度が、海南島への再追放を招いたとされています。
海南島の村で 余生を送ろうと思っていたが
天帝が巫陽を遣わして わたしの魂を呼びもどす
遥かに天空は垂れ下り隼 の影没するあたり
ああ ひとすじの青山よ わがいのちの中原よ
哲宗が崩じて徽宗が即位した翌年、建中靖国元年(一一〇一)六月に、六十六歳の蘇軾は許されて帰京の途につきます。
礼部尚書にまで上りつめていた蘇軾が再度の流謫にあってから七年の歳月が流れていました。蘇軾は余程嬉しかったのでしょう。
「
「中原」は黄河流域、都汴京のあるあたりですが、対岸の雷州半島はそこと陸つづきなので、「中原」と叫んだのです。
なお、「
その伝説を用いて天子が自分を都に呼びもどしたことに感謝の意を表したのです。しかし、蘇軾は都にもどり着くことができず、旅の途中の常州で病に倒れました。