春 夜           春 夜    蘇 軾
春宵一刻値千金    春宵(しゅんしょう)一刻 (あたい)千金
花有清香月有陰    花に清香(せいこう)有り 月に(かげ)有り
歌管楼台声細細    歌管 楼台(ろうだい) 声細細(こえさいさい)
鞦韆院落夜沈沈    鞦韆(しゅうせん) 院落(いんらく) 夜沈沈
春の宵は 一刻千金のねうちがある
花は清々しい香りを放ち 月はおぼろに霞んでいる
にぎわっていた楼台も ひっそりと静まりかえり
鞦韆(ぶらんこ)は中庭にむなしく 夜は静かに更けてゆく

 蘇軾(そしょく)、字は子瞻(「東坡」は号)は仁宗の景祐三年(一〇三六)に眉州眉山(四川省眉山県)で生まれました。
 王安石より十五歳の年少です。嘉祐元年(一〇五六)、二十一歳のとき父蘇洵に従って弟蘇轍と共に上京し、翌年進士に及第して文名は都汴京(べんけい)(河南省開封市)にとどろきます。神宗になって王安石が登用されると「新法」に反対し、杭州・密州・徐州・湖州などの刺史になり、政府を誹謗した詩によって下獄したこともあります。
 神宗が崩御して哲宗が即位すると、蘇軾は都に呼びもどされ、翰林学士から兵部尚書、礼部尚書になりますが、元祐八年(一〇九三)に宣仁太皇太后が死去して哲宗の親政になると新法党が復活し、紹聖元年(一〇九四)、五十九歳の蘇軾は恵州(広東省恵陽県)に流されます。
 さらに六十二歳のときには海南島の儋州(広東省儋県)に移されました。
 その三年後、哲宗が崩じて徽宗が即位すると、摂政の向太后は新法旧法両党の融和をはかり、蘇軾も許されて都へ呼びもどされます。しかし、都へ向う途中病を得て、常州(江蘇省常州市)で没しました。六十六年の生涯です。


 六月二十七日望湖楼酔書 六月二十七日望湖楼酔書 蘇 軾

 黒雲翻墨未遮山   黒雲 墨を翻して未だ山を遮らざるに
 白雨跳珠乱入船   白雨 珠を跳らして乱れて船に入る
 巻地風来忽吹散   地を巻くの風来って 忽ち吹き散ずれば
 望湖楼下水如天   望湖楼下 水 天の如し
黒雲は墨を流したように拡がり いまだ山を隠さず
真珠の玉をまき散らすように 雨は船中に乱れ入る
大地を巻き上げんばかりの風が 雲を吹き散らすと
望湖楼下の水は 空の青さに立ちもどる

 神宗の煕寧五年(一〇七二)、三十七歳の蘇軾は左遷されて杭州(浙江省杭州市)の通判(知州事の次官)の職についていました。
 「望湖楼(ぼうころう)」は西湖の湖畔にあった昭慶寺の前に立っていた高楼で、「酔書」とあるので宴会なども行う楼閣でしょう。
 怒涛のように勢いのある詩で、蘇軾の気力と剛直な性格、それに時間を追った繊細な観察眼が示されていると思います。

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