一陂春水繞花身
北陂杏花 北陂の杏花 王安石
春の水は池に満ち 杏の木をとりかこむ
杏の花も花影も あでやかに春を楽しむ
春風に吹かれて 花吹雪になろうとも
道端に踏み敷かれ 塵となるよりまだましだ
神宗の元豊二年(一〇七九)、息子が夭折したのを機会に五十九歳の王安石は職を辞し、江寧(江蘇省南京市)郊外の鐘山に隠居して詩文や読書・学問研究に過ごすようになりました。
王安石の政事家としての功績は高く、荊国公の称号を贈られて哲宗の元祐元年(一〇八六)、六十六歳で江寧で没しました。
詩は隠退してまもないころの心境を述べたものでしょう。
王安石の改革が後世からよく言われないのは、南宋になって旧法党の系統から朱子学が起こり、儒学の本流となっていったからで、王安石が偉大な政事改革者であったことは評価されなければならないと思います。
泊船瓜洲 船を瓜洲に泊す 王安石京口瓜洲一水間 京口 瓜洲は一水
京口と瓜洲は 江を隔てて向かい合う
数重の山のむこうに 鐘山がある
春風が吹いて 江南の岸辺は緑色
いつになったら明月は わが家路を照らすのか
詩中の「
「
王安石が職を辞したのは神宗の煕寧九年(一〇七六)とする説もあり、この詩はその翌々年、神宗の元豊元年(一〇七八)の春、五十八歳のときに江寧に赴く途中、瓜洲に船をとどめたときの作とされています。
新法反対の勢力に押されてみずから身を引いたとはいうものの、失意の感情が深かったようです。