楽遊原 楽遊原 李商隠
向晩意不適晩 に向 んとして意適わず
駆車登古原 車を駆って古原 に登る
夕陽無限好夕陽 限り無く好し
只是近黄昏 只だ是れ黄昏 に近し
日暮れになると 気分がめいり
馬車を駆って 楽遊原に登る
夕陽は かぎりなく美しい
だが黄昏は 確実にやってくる
李商隠は
盛唐のころには都人の遊宴の地で盛大な野宴も催されましたが、安史の乱後は寂れた丘陵であったようです。李商隠はひとり車を駆って楽遊原の落日を眺め、唐朝のほろびを予感したのかもしれません。
淮中晩泊犢頭 淮中 晩に犢頭に泊す 蘇舜欽
春陰垂野草青青 春陰 野に垂れて草青青 たり
時有幽花一樹明 時に幽花の一樹に明らかなる有り
晩泊孤舟古祠下 晩に孤舟に泊す 古祠の下
満川風雨看潮生 満川の風雨 潮の生ずるを看る
雨雲は野原に垂れさがり 草は青々と茂っている
花盛りの樹が時々現れて 春はわが目を驚かす
ひぐれて孤舟を 古い祠 の辺につなぎ
川一面の風雨のなか 満ち潮の迫ってくるのを見詰めている
蘇舜欽は第四代皇帝仁宗の景祐元年(一〇三四)に二十七歳で進士に及第し、官途に就くことになります。
仁宗は太宗の孫にあたり、天下は安定し、官僚制度もととのっています。
蘇舜欽は集賢校理、監進奏院となり革新派の若手官僚として活躍しますが、豪快、直言の気性が災いして失脚し、蘇州の滄浪亭に閑居しました。
亡くなったのは仁宗の皇祐元年(一〇四九)、四十二歳のときですので、若くして失意のうちに没したのです。
題名の「
動きのある詩で、前半では春の川を下りながら岸の花樹がつぎつぎに姿を現わすさまを詠い、後半では丁度満潮の時刻に差しかかったのでしょう。
風雨の中、川下から潮が刻々と遡上してくるようすを詠って孤独感がみなぎっています。