淮上早発        淮上 早に発す 蘇軾

   澹月傾雲暁角哀   澹月たんげつ 雲を傾けて暁角ぎょうかく哀し
   小風吹水碧鱗開   小風しょうふう 水を吹いて碧鱗へきりん開く
   此生定向江湖老   此の生せい 定めて江湖こうこに向って老いむ
   黙数淮中十往来   黙して数うれば 淮中わいちゅうたび往来す
西に傾く雲間の月 夜明けの角笛の哀しい音
微風が水面を渡り みどりのさざ波が立つ
わが人生は 江湖で老いてゆく運命なのか
かぞえれば 淮水を往来するのは十回目だ

 この年の旱魃は、龍神に祈っても小雪が降った程度でした。
 飢饉になったので、蘇軾は義倉を開いて穀類を配り、薪炭を支給して窮民を援けました。また西湖の東池を改修する工事にも着手しました。
 翌元祐七年一〇九二になって、西湖の改修工事はまだつづいていましたが、二月に蘇軾は知揚州軍州事の辞令を受けます。
 頴州に着任して半年にしかなりませんが、揚州は重要な州です。
 蘇軾は三月に頴州を発って淮水を下り、揚州に向かいます。詩は淮水の船の上で作ったもので、起承句は叙景、転結句は作者の感慨です。辞令ひとつで短期間の異動となるわが身に、蘇軾は悲哀を感じているようです。


 和陶飲酒二十首 其十五 陶の飲酒二十首に和す 其十五 蘇軾

   去郷三十年   郷きょうを去ること三十年
   風雨荒旧宅   風雨に旧宅きゅうたくは荒れん
   惟存一束書   惟だ一束いっそくの書を存そん
   寄食無定迹   寄食きしょくして定迹ていせき無し
   毎用愧淵明   毎つねに用って 淵明えんめいに愧
   尚取禾三百   尚お取る 禾三百
   頎然六男子   頎然きぜんたる六男子ろくだんし
   粗可伝清白   粗ぼ清白せいはくを伝うべし
   於吾豈不多   吾われに於いて豈に多からざらむや
   何事復歎息   何事ぞ 復た歎息する
故郷を去って三十年
風雨に打たれ 家は荒れ果てているだろう
手元には一束の書物
各地を巡って 落ち着く場所もない
陶淵明に愧じるのは
いつまでも 多くの禄をはんでいること
六人の子供が 立派に成長しているので
わが清廉の名を後世に伝えてくれるであろう
不肖の俺には それで充分というものだ
だが何たる事 またしても嘆息をもらしている

 蘇軾は三月十六日に揚州に着きました。それを追いかけるように頴州から西湖の改修工事が完成したという報せが届きます。蘇軾は杭州と頴州、両方の西湖で湖の改修に関係したことに感慨を催すのでした。
 しかし、揚州に移った蘇軾は、あまり嬉しそうではありません。
 この詩には序文がついていて、揚州で作り、弟蘇轍と詩友晁補之ちょうほしに送ったことが記してあります。
 蘇軾は酒は強くありませんが杯を手にするのは好きであったようです。
 「歓足らずして適は余り有り」と言っていますので、揚州では面白いことはないが暇はたっぷりあったようです。其の一の詩省略では、自分は陶淵明とうえんめいには及びもつかないが、心掛けだけは見習いたいと言っています。
 其の十五の詩でも、眉山県の家を出てから三十余年になるが、以来一度も故郷に帰ることなく宦遊に明け暮れていると、陶淵明のいさぎよい生き方に比べて、自分の未練の多い人生を恥じています。
 四句目の「寄食」というのは人に頼って糊口することですが、ここでは官吏としての生活を卑下して言っています。
 「六男子」は蘇軾の子、邁まい、迨たい、過、蘇轍の子、遅、适かつ、遜そんの六人をいうもので、当時の家族観から弟の子も含んでいます。
 蘇軾は悟ったようなことを詠いながらも嘆息を洩らし、「何事ぞ 復た歎息する」と吹っ切れない自分に呆れています。


 七年九月 自広陵召還復館於浴室東堂 八年六月
 乞会稽 将去 乃復用前韻 三首 其一
 蘇軾
 七年九月 広陵より召し還され 復た浴室の東堂に館す 八年六月
 会稽を乞うて 将に去らんとす 汶公詩を乞う 乃ち復た前韻を用う 三首 其の一


  乞郡三章字半斜  郡を乞う 三章 字なかば斜ななめなり
  廟堂伝笑眼昏花  廟堂 伝え笑わん 眼まなこ昏花こんかすと
  上人問我遅留意  上人 我が遅留ちりゅうの意を問う
  待賜頭綱八餅茶  頭綱(とうこう)八餅茶(はつへいちゃ)(たま)わるのを待つなり

太守を願い三たびの章奏 字は半ば傾いている
廟堂に列なる人々は 目が霞んだと笑うであろう
私が留まっているわけを 上人はお尋ねになる
天子の下さる頭綱の八餅茶 それを待っているのです

 「和陶飲酒」の詩を作ったのが四月か五月とすれば、都では六月に蘇轍が門下侍郎従三品に任ぜられ、順調に出世していました。
 その間、蘇軾が揚州で何をしていたか分かっていません。
 任期があまりにも短かったからです。
 八月になると、蘇軾は兵部尚書として都に召還されます。
 揚州にとどまっていたのは、わずか五か月間でした。
 蘇軾は九月に揚州を発ち、その月のうちに汴京に着いています。
 都に着いた蘇軾は、十一月に兵部尚書から礼部尚書従二品に移され、端明殿学士兼翰林侍読学士を与えられました。宰相を拝命してもおかしくない地位ですが、蘇軾は意外にも、その月に外任を願い出ています。
 外任の願いが許されなかったので、翌元祐八年一〇九三の六月と七月にも外任を乞い、外任先として越州浙江省紹興市を望みました。
 蘇軾がなぜこういう出願を繰りかえしたのか、七月に書いた上の詩を見ても韜晦しているのがわかります。題詞にある「汶公」もんこうは都にある興国寺の僧恵汶えもんのことで、蘇軾は外任から都に帰るたびに、この寺の浴室の東堂を当座の宿としていたようです。この東堂には嘉祐元年一〇五六、進士に及第したときにも泊まり、そのとき三首の詩を壁に書きつけました。
 「前韻を用う」と言っているのは、そのときの詩の韻のことで、三十七年前の詩ということになります。詩中の「郡を乞う 三章」は、三たび天子に奏上して郡の太守知州事になることを願い出たことを指し、礼部尚書よりも会稽郡越州の知州事になることを望んでいます。蘇軾は「字半ば斜なり」と詠い、老いの手が震えて字が半分傾いているから、廟堂の人々はそれを見て笑うであろうといっていますが、本当は礼部尚書の高位にある者が、江南の知州事への外任を願うこと自体が笑いの種になると言っているのです。
 恵汶から「遅留の意」を問われて、「頭綱の八餅茶を賜わるのを待つなり」と答えているのもおどけた言い方で、自注によると、尚書学士は毎年、天子から頭綱の龍茶一斤を賜わるのが例でした。
 「頭綱」は初荷のことで、北苑福建省建安にある帝室茶園から献上される茶のうち二月中に早馬で送られてくるのが例でした。
 その茶の御下賜がまだないので、それを待っているというのです。
 韜晦以外のなにものでもありません。

      其三           其の三

   東南此去幾時帰  東南へ此こを去って 幾時いくときか帰る
   倦鳥孤飛豈有期  倦鳥けんちょう 孤飛こひに期有らむや
   断送一生消底物  一生を断送だんそうするに 底物なにものをか消もち
   三年光景六篇詩  三年の光景 六篇の詩
東南へ都を去って いつもどるのか
疲れた鳥の一人旅 帰る期日はわかりません
何を以てあなたは 生涯を生きがいとするのか
ここ三年の光景は 六篇の詩に詠っています

 其の三の詩は、一句ごとに上人と蘇軾の対話になっており、起転句が上人の問い、承結句は蘇軾の答えです。結句で「六篇の詩」と言っているのは、三十七年前の三篇の詩と今回の三首をいうのですから、これも答えというよりも、答えをはぐらかすものでしょう。


東府雨中別子由 東府の雨中 子由と別る 蘇軾

庭下梧桐樹   庭下ていか 梧桐ごとうの樹じゅ
三年三見汝   三年 三たび汝なんじを見る
前年適汝陰   前年 汝陰じょいんに適
見汝鳴秋雨   汝の秋雨しゅううに鳴るを見る
去年秋雨時   去年 秋雨の時
我自広陵帰   我れ 広陵こうりょうより帰り
今年中山去   今年 中山ちゅうざんに去り
白首帰無期   白首はくしゅ 帰るに期無し
東府の庭の梧桐の樹よ
三年の内に三たびお前に会った
一昨年 頴州にゆくときは
秋雨に濡れている君に会う
去年また秋雨のときに
揚州から帰ってきた
今年はまた定州に行こうとしているが
白髪頭の私ゆえ 帰りの時期は定めがたい

 章奏への答えがないまま過ごしているとき、八月一日に蘇軾の継室二度目の妻王閏之おうじゅんしが都で亡くなりました。享年四十六歳でした。
 侍妾の王朝雲はいますが、妻を亡くした蘇軾は落胆したでしょう。
 しかし、外任の希望を取り下げるようすはありません。ところがそのひと月後の九月三日、摂政の宣仁太皇太后が亡くなりました。これは重大な政事的影響をもたらすものですが、影響はすぐには現れません。
 蘇軾は九月になって越州ではなく、知定州軍州事に任命され、河北西路軍安撫使を兼務させられました。江南の任地を望んでいた蘇軾は北辺の遼りょうと向き合う定州河北省定県に赴任させられることになったのです。蘇軾は九月二十九日に東府とうふに弟蘇轍を訪ね、留別の詩を遺しました。
 東府というのは神宗のときに建てられた政府高官の居住区で、宮闕の西南に東西の二府が置かれていました。
 門下侍郎の蘇轍はそのころ東府に住んでいました。
 詩は四句ずつ四段に分かれています。冒頭の「庭下 梧桐の樹」は蘇轍のことで、詩中の地名「汝陰」は頴州、「広陵」は揚州の古名です。
 「中山」は戦国時代の国名で定州を意味します。前半の八句は転任の次第を述べていますが、蘇軾は定州赴任を喜んでいないようです。

客去莫歎息   客去るも 歎息する莫なか
主人亦是客   主人しゅじんた是れ客
対牀定悠悠   対牀たいしょう 定めて悠悠ゆうゆう
夜雨空蕭瑟   夜雨やう 空しく蕭瑟しょうしつ
起折梧桐枝   起って梧桐ごとうの枝を折り
贈汝千里行   汝なんじが千里の行こうに贈らん
帰来知健否   帰り来たって知る 健けんなりや否いな
莫忘此時情   忘るる莫なかれ 此の時の情じょう
旅に出てゆく私を そんなに歎かないでくれ
主人とはいっても 所詮は旅人に過ぎないのだ
牀を並べて寝ようという約束 適えられる日はわからず
ともに聞こうと願った夜の雨 無駄に寂しく降っている
君は起って 梧桐の枝を折り
千里の旅の 無事を祈ってくれる
お帰りのとき 私も健康でおれますことか
今の気持ちを忘れずに 無事のお帰りを待っていますと

 後半のはじめ四句は、蘇轍への慰めの言葉です。「対牀 定めて悠悠 夜雨 空しく蕭瑟」の二句は、かつて二人で懐遠駅にこもって制科に応じる勉強をしていたときの約束のことで、これまで幾度か出てきました。
 蘇軾はその約束がまだ適えられていないことを嘆きます。
 蘇軾はこの年、五十八歳であり、蘇轍は五十五歳ですので、三十二年前の兄弟の約束です。結びの四句は蘇轍のことを述べるもので、蘇轍が梧桐あおぎりの枝を折って蘇軾の旅の無事を祈ります。
 そして、自分も老いていつまで健康でいられるか分からないが、いまの気持ちを忘れずにいましょうと応じています。
 蘇軾は九月の末に都を発って、十月二十三日に定州に着きました。


    臨城道中作       臨城道中の作 蘇軾

  逐客何人著眼看  逐客ちくかく 何人なんびとか眼まなこを著けて看る
  太行千里送征鞍  太行たいこう 千里 征鞍せいあんを送る
  未応愚谷能留柳  未だ(まさ)愚谷(ぐこく)()(りゅう)を留むべからず
  何独衡山解識韓  (なん)ぞ独り 衡山(こうざん)()(かん)を識るのみならんや
追放の旅人に 目をとめる人はいないが
太行の山々は 千里にわたって旅の鞍を見送ってくれる
愚谷が柳宗元を引き止めた 嶺南にそれほどの魅力はなく
衡山が韓愈を見知っていた だが太行も俺を見知っている

 十歳で即位した哲宗は宣仁太皇太后が亡くなったとき、十八歳になっていました。八年間にわたる垂簾聴政によって祖母に政事の実権を奪われていた哲宗は、宣仁太皇が父神宗の新法をことごとく改廃したことに強い反発を感じていました。太皇が亡くなって親政ができるようになると、哲宗は新法党の章惇しょうじゅんを再起用して政策の転換を命じます。こうした中央の情勢は、すぐに定州にいる蘇軾のもとにも伝わってきます。新政権は真っ先に募役法を復活し、つぎつぎに旧法を廃止して新法にもどしてゆきます。
 しかし、章惇ら新法党には王安石のような政事に対する真剣な姿勢がありません。
 すぐに旧法党に対する報復人事に情熱をそそぐようになります。
 春三月二十日、蘇軾は満開の杏の花の咲く樹下に、地元の父老を集めて花見の宴を催しました。これは当時の慣例で、知州事は毎年二月に公邸の庭を解放して地元有力者に酒食をふるまうのが習わしでした。
 ところがその六日後の三月二十六日、都では蘇轍が新法党の弾劾を受けて、門下侍郎のまま知汝州軍州事に左遷されていました。
 つづいて鉾先は蘇軾に向かい、閏四月三日、蘇軾は端明殿学士兼翰林侍読学士の職を剥奪され、知英州軍州事に任ずる旨の辞令を受けました。
 英州広東省英徳県は大庾嶺だいゆれいを南に越えたところにあり、あきらかに嶺南への貶謫です。蘇軾はただちに定州を離れて南に向かいます。旅の途中の閏四月十二日に改元になり、元祐八年は紹聖元年になりました。
 掲げた詩には長文の序文がついており、それによると臨城河北省臨城県、内邱臨城県のすぐ南を過ぎるとあり、定州を出立してから五日目くらいの作と思われます。蘇軾はこの異動に大いに不満であったらしく、「頗る是これを以て恨うらみと為す」と言っています。同時に「南遷するも 其れ速すみやかに返らむか」とも言っており、赦されてすぐにもどれることを期待していたようです。
 詩中に「征鞍」とあるのは馬に乗って陸路を進んでいたことを示しており、右手に見えるのは太行山の山々です。
 承結の二句は故事を踏まえており、「未だ応に 愚谷 能く柳を留むべからず」と言っているのは、柳宗元が永州湖南省永州市霊陵県の司馬に流されていたとき、瀟水の支流愚公谷の自然を愛して愚渓と名づけたことを指し、嶺南には愚渓ほどの魅力はないだろうと言っています。
 結句の「何ぞ独り 衡山 解く韓を識るのみならんや」は、序文にも関連の文があり、韓愈かんゆが衡山湖南省にある南岳の麓に来たとき、秋雨の季節でしたが、たちまち晴れて衡山の衆峰が青空に現れ出たといいます。
 定州にいたときは「連日風埃」で太行山の姿を見ることができなかったのに、いまは太行の峰々が自分を見送ってくれる。
 そのことをめでたいこととして、自分を韓愈に比しています。


 慈湖夾阻風五首 其一 慈湖夾にて風に阻まる 五首 其の一 蘇軾

  捍索桅竿立嘯空  捍索桅竿かんさくきかん 立って空くうに嘯うそぶ
  篙師酣寝浪花中  篙師こうし 酣寝かんしんす 浪花ろうかの中うち
  故応菅蒯知心腹  故もとより応まさに 菅蒯かんかい 心腹しんぷくを知るべし
  弱䌫能争万里風  弱䌫じゃくらんく争う 万里の風
帆柱は綱に引かれて立ち 空に向かって嘯いている
船頭は浪に揺れる舟の中 ぐっすりと寝込んでいる
菅蒯の綱は 船客の心の奥まで知っているだろう
弱々しい纜は 吹きわたる万里の風と争っている

 蘇軾は閏四月十四日には滑州河南省滑県に着き、そこから黄河を南へ渡って西南へ、汝州に向かいました。汝州で弟蘇轍と会い、都の情勢について話し合い、それからいったん都にもどります。ここで家族と落ち合ったようです。
 蘇軾は陳留都開封の東南郊からは南への舟行を許されています。
 舟で南京なんけいを過ぎるころには五月になり、揚州をへて潤州に至ります。
 潤州からは張耒ちょうらいという者がが兵を派遣し、蘇軾の旅を護衛しました。護衛といっても監視が主でしょう。潤州から長江を遡って六月七日に江寧江蘇省南京市に着き、ここに半月足らず留まって旅の疲れを癒やします。
 六月二十日ころには江寧を発って当塗安徽省当涂県に向かいますが、慈湖じこ:当涂県の手前で逆風に遇い、舟は進むことができなくなりました。
 詩題の「夾」きょうは仮泊所のことです。蘇軾はこの詩で強風に耐えている舟のようすを描いていますが、比喩が感じられます。
 起句の「捍索桅竿」は綱で左右に引っ張られて立っている帆柱のことで、その帆柱が空に向かって嘯いているというのは蘇軾の心境の比喩でしょう。
 転句の「菅蒯」は縄をつくる水草の名で、その縄が「心腹を知る」というのも、蘇軾の無念の思いを知っているというのでしょう。また結句の「弱䌫」捍索と比べたら弱々しく見える「ともづな」が「万里の風」と争っているように見えるのも、そこに政事の逆風と戦っている自分の姿を見るのでしょう。


 慈湖夾阻風五首 其二 慈湖夾にて風に阻まる 五首 其の二 蘇軾

   此生帰路転茫然   此の生 帰路きろうたた茫然ぼうぜん
   無数青山水拍天   無数の青山せいざんみず天を拍
   猶有小船来売餅   猶お小船の来たって餅もちを売る有り
   喜聞虚落在山前   喜び聞く 虚落きょらくの山前さんぜんに在るを
わが人生の行く末は いよいよ茫漠としてきた
無数につづく緑の山 波は逆巻き天を拍つ
吹き荒れる風のなか 餅売りの小舟がやって来て
山の手前に村ありと 耳にするのは嬉しいことだ

 其の二の詩の起句「此の生 帰路 転た茫然」には典拠があるようですが、不明です。
 自分の将来について、蘇軾は茫然となるような不安を感じるのでしょう。
 そんななか、餅を売る小舟が近寄ってきます。
 聞くと山の手前の村から来たと言います。蘇軾は辺鄙な村の村人の健気な暮らし振りを見て、心が慰められるのを感じるのでした。


 慈湖夾阻風五首 其四 慈湖夾にて風に阻まる 五首 其の四 蘇軾

   日輪亭午汗珠融  日輪亭午にちりんていご 汗 珠たまのごとく融つづ
   誰識南訛長養功  誰か識らむ 南訛なんか 長養ちょうようの功こう
   暴雨過雲聊一快  暴雨ぼうう 過雲かうんいささか一快いっかい
   未妨明月却当空  未いまだ妨げず 明月の却かえって空くうに当たるを
太陽が真南になり 汗は珠のように滴り落ちる
南方における教化 どんなに苦労が多かったことだろう
風雨が過ぎ去れば すがすがしさはなんともいえず
夜空の星は皓皓と 妨げるものもなく輝いている

 風雨が過ぎて太陽が顔を出すと、夏六月、江南の暑い日ざしが照りつけてきます。承句の「誰か識らむ 南訛 長養の功」というのは『書経』の堯典を踏まえており、異民族の地であった南方の文化を漢化するのは、永い年月と人知れぬ苦労があったであろうと、先人の苦心に憶いをいたすのです。
 転句の「暴雨」は夕立のように激しく降って過ぎ去る雨のことでしょう。
 そんな雨が通り過ぎるとすがすがしい気分になり、雲もない夜空に浮かぶ月を見上げるのでした。
 「未だ妨げず」という語に蘇軾の感懐が込められているようです。


  慈湖夾阻風五首 其五 慈湖夾にて風に阻まる 五首 其の五 蘇軾

  臥看落月横千丈  臥して看る 落月らくげつの千丈せんじょうに横たうを
  起喚清風得半帆  起って清風せいふうを喚んで 半帆はんぱんを得たり
  且並水村攲側過  且つ水村すいそんに並んで 攲側きそくして過ぐ
  人間何処不巉巌  人間じんかんいずれの処か 巉巌ざんがんならざらむ
千丈の川面に落ちる月影を 横になって眺める
船頭たちは起きて風を呼び 帆は半ばふくらんでいる
船は岸辺の村に沿ってゆき 傾くほどに早く進み
この世はどこにゆこうとも 険しい所だけである

 逆風が止んで、船は早朝に慈湖夾を船出し、江岸の村に沿って進んでゆきます。順風を受けて傾きながら進む船に身をゆだねて、蘇軾は「人間 何れの処か 巉巌ならざらむ」という感慨を抱きますが、それも自分の身の上を考えてのことでしょう。


 八月七日 初入贛 過惶恐灘
       八月七日 初めて贛に入り 惶恐灘を過ぐ 蘇軾

  七千里外二毛人  七千里外しちせんりがい 二毛にもうの人
  十八灘頭一葉身  十八灘頭じゅうはちたんとう 一葉いちようの身
  山憶喜歓労遠夢  山は喜歓きかんを憶おもうて 遠夢えんむを労し
  地名惶恐泣孤臣  地は惶恐こうきょうと名づけて 孤臣こしんを泣かしむ
  長風送客添帆腹  長風ちょうふう 客を送って 帆腹はんぷくを添え
  積雨浮舟減石鱗  積雨せきう 舟を浮かべて 石鱗せきりんを減ず
  便合与官充水手  便たとい合まさに 官の与ために水手に充てらるべくも
  此生何止略知津  ()の生 何ぞ()(ほぼ)(しん)を知るのみならんや
白髪まじりの老人が 七千里もの旅をゆく
小さな舟に身を託し 十八灘にさしかかる
山に蜀道の錯喜歓舗を思い出し 夢は故郷へと飛ぶが
ここは惶恐灘とも言うべき早瀬 孤独な臣の涙をさそう
吹きわたる風は帆を膨らませて 旅人を送りやり
降りつづく雨は流れの水を増し 危険な石を減らしている
朝廷のために 水先案内を勤めるとしても
これまでのわが人生 渡津を知っているだけではない

 舟は六月二十五日に当塗の渡津に着き、蘇軾はここでさらに苛酷な命令を受けます。知英州軍州事の地位が建昌軍司馬恵州安置に変更になったのです。
 恵州広東省恵州市恵陽県は英州よりもさらに東南の海寄りにあり、その恵州で無役の司馬として静かにしておれというのが「安置」の意味です。
 知州事であった者が、罪人扱いに等しい地位に貶されました。
 蘇軾は覚悟を決め、土地を買ってある常州に家族をもどし、三子の過と侍妾の王朝雲二人だけを連れて嶺南に行くことにしました。
 舟は七月になって江州に着き、そこから鄱陽湖はようこを南に渡って贛水かんすいを遡ります。八月七日には黄公灘こうこうたんを過ぎました。
 贛水の中流吉安県から上流の虔州けんしゅう=江西省贛州市までに十八か所の急流があり、黄公灘はそのなかでも第一の難所でした。
 蘇軾は詩題で黄公灘を「惶恐灘」こうきょうたんと言い換えて、難所の恐ろしさを強調しています。
 詩は中四句を前後の二句で挟む形式で、首聯は場の設定です。
 中四句は黄公灘の描写ですが、「喜歓」は錯喜歓舗さくきかんほの略で、黄公灘の山を見ると蜀道の錯喜歓舗を思い出すと詠っています。
 「錯喜歓舗」は山道が緩やかになったと錯覚して喜ぶ駅站えきたんという意味であり、頷聯の対句には蘇軾の感慨の深さが読みとれます。しかし、降りつづいた雨によって川の水量が増し、危険な岩は水中に没していました。
 「惶恐灘」を過ぎれば一安心であり、尾聯は作者の感慨で、「此の生 何ぞ止だ略津を知るのみならんや」と強気の姿勢に立ち返っています。


   舟行至清遠県 見顧秀才 極談恵州風物美 蘇軾
    舟行して 清遠県に至り 顧秀才を見る 極めて恵州風物の美を談ず

  到処聚観香案吏  到る処 聚あつまり観る香案こうあんの吏
  此邦宜著玉堂仙  此の邦くによろしく著くべし玉堂ぎょくどうの仙
  江雲漠漠桂花湿  江雲こううん 漠漠ばくばくとして桂花けいか湿うるお
  梅雨翛翛荔子然  梅雨ばいう 翛翛しょうしょうとして荔子れいし
  聞道黄柑常抵鵲  聞道きくならく 黄柑こうかん 常に鵲じゃくに抵なげうつと
  不容朱橘更論銭  容ゆるさず 朱橘しゅきつの更に銭せんを論ずるを
  恰従神武来弘景  恰あたかも神武しんぷより 弘景こうけいは来たりぬ
  便向羅浮覓稚川  便すなわち羅浮らふに向かって 稚川ちせんを覓もとめむ
香案の吏である私を観ようと 人々が集まってくる
ここは翰林院の仙人が棲むのに ふさわしい所のようだ
江水に立ち込める霧はゆたかで 木犀の花は潤い
梅の木に降る雨はしっとりして 荔子の実は赤い
聞けばこの辺は 鵲にくれてやるほど蜜柑がみのり
赤い橘の実は 値段をつけるほどのこともないという
都の神武門から おりしも陶弘景がやってきた
葛洪を捜しに さっそく羅浮山へ行きたいものだ

 虔州けんしゅうでは、城に近い山中にある天竺寺を訪ねました。
 ここに白居易自筆の詩が壁書してあるのを亡くなった父親から聞いていましたので見に行ったのですが、すでに壁書の詩は失われ、詩は石に刻まれて残されていました。
 虔州から山路をたどって大庾嶺だいゆれいを越えると、そこは嶺南の地です。
 すでに晩秋の九月になっていました。そこから北江を下る船旅になり、はじめの任地であった英州を過ぎて清遠せいえん:広東省清遠県に着きました。
 題詞によると、蘇軾は清遠県で顧という姓の秀才と逢います。
 「秀才」は科挙の受験資格を持つ者というのが本来の意味ですが、このころは若い知識人を秀才と呼ぶようになっていました。
 その顧秀才とこれから向かう恵州の風物の美を語り合い、それをもとに詩を作ったようです。「香案」というのは香炉をのせる机のことで、天子が出御するとき、香案をはさんで側近の臣が居並びました。
 だから、政府高官のことを「香案の吏」といいます。
 蘇軾のような高官が嶺南に流されてくるのは珍しかったのでしょう。
 「玉堂の仙」は宋代に翰林院を玉堂と称しましたので、蘇軾は自分のことを玉堂の仙人と言ったのです。
 中四句は清遠県の風物を叙したもので、「桂花」は木犀の花、「荔子」は荔支れいしの実のことで、紅色なので「燃ゆ」といいます。「黄柑」は黄色の蜜柑、「朱橘」は赤い実の橘、ともに柑橘類で北方では貴重とされる果実です。
 それらが捨てるほどに実っていると詠います。
 尾聯の「弘景」は南朝梁の陶弘景とうこうけいのことで、はじめ斉に仕えましたが辞して、朝服を神虎門に掛けて帰りました。この故事から蘇軾は都を追放されて嶺南に来た自分のことを言っています。
 「稚川」は晋代の隠者葛洪かっこうのことで、交阯こうし=ベトナムに丹沙が出ると聞き、勾漏こうろう=ベトナム北部の県の県令になって広州に来ますが、羅浮山にとどまって仙人になり、天に昇ったと伝えられています。
 蘇軾は仙人の魂を捜しに羅浮山に行こうと詠います。


   十月二日 初到恵州 十月二日 初めて恵州に到る 蘇軾

  彷彿曾遊豈夢中  彷彿ほうふつたり 曾遊そうゆうに夢中ならんや
  欣然鶏犬識新豊  欣然きんぜんとして 鶏犬けいけんも新豊しんぽうを識る
  吏民驚怪坐何事  吏民りみん 驚怪けいかいす 何事に坐すと
  父老相携迎此翁  父老ふろう 相携あいたずさえて此の翁おうを迎う
  蘇武豈知還漠北  蘇武そぶに漠北ばくほくより還かえるを知らんや
  管寧自欲老遼東  管寧かんねい 自ら遼東りょうとうに老いむと欲す
  嶺南万戸皆春色  嶺南れいなん 万戸ばんこみな春色しゅんしょく
  会有幽人客寓公  会かならず 幽人に寓公ぐうこうを客とする有らむ
夢ではなくて前に一度 この地に来たような気がする
新豊の街ができたとき 犬や鶏までが勝手を知っていた
人々は驚き怪しんで どんな事件に坐したのかと問い
父老たちは揃って この老人を迎えてくれる
蘇武は漠北の地から もどれるとは思っておらず
管寧は遼東の地で みずから老いようと思った
嶺南の地の万戸の酒 すべてが春の新酒のようだ
この寓公を客として 迎えてくれる隠者もいることだろう

 清遠県から北江を下ると、ほどなく広州広東省広州市に達し、広州から東江の水路を東へ一二〇㌔㍍ほど遡ると目的地の恵州です。
 蘇軾は十月二日に恵州に着き、まず合江楼に寓居します。恵州に着いてみると、蘇軾ははじめて来た土地ではないような親しみを感じます。「鶏犬も新豊を識る」というのは、漢の高祖劉邦が父親のために新豊陝西省臨潼県の東の街を築いたとき、その街並みを故郷の沛県豊邑とそっくりに作りました。
 だから豊邑から移された者は犬や鶏にいたるまで路がよく分かり、争ってそれぞれの家や飼い主の許へ向かったといいます。
 蘇軾も同様の親しみを恵州に感じ、寓居に向かいました。
 恵州の民はどんな罪に坐して恵州に流されてきたのかと驚き怪しみ、父老たちは手をたずさえて迎えてくれます。
 蘇軾はここで、漢の蘇武そぶや三国魏の管寧かんねいを引き合いに出し、自分はこの地に骨を埋めるつもりであるといいます。そして、この地には自分を迎えてくれる隠者もいるであろうと、期待を示します。

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