漁父四首 其一     漁父四首 其の一 蘇軾

 漁夫飲 誰家去    漁父ぎょほは飲む 誰が家にか去
 魚蟹一時分付     魚蟹ぎょかい 一時いちじに分付ぶんふ
 酒無多少酔為期   酒は多少と無く 酔うを期と為
 彼此不論銭数     彼此ひしせんの数すうを論ぜず
漁夫は飲みにゆくが どこの酒屋へはいるのか
魚と蟹を どさっと投げ出し
どれだけ飲むか決めてはいない 酔うまで飲むのだ
魚と酒を取り換えて 勘定などは問題にしない

 蘇軾は友人たちに見守られながら、南京への旅をつづけます。
 しかし、上書に対する回答がありませんので、再び上書して常州居住を願い出ました。二月には南京に着き、そこにとどまって上書に対する沙汰を待ちます。蘇軾が検校尚書水部員外郎汝州団練副使のまま常州居住を許すという許可を受けたのは、二月の末でした。
 この辞令は、すでに発令した職は変えないが、常州居住は許すというもので、当面の措置です。
 追って致仕を認めるという含みを持つものと思われます。実はこの年の三月五日に神宗が在位十八年で崩じ、哲宗が即位します。
 だから哲宗の即位後であれば、蘇軾の上書は保留され、当面の措置は発令されなかったでしょう。前年十月に出されていた上書に一月の上書が追加して出されたため、政府もそれを一応認めたわけです。
 蘇軾は南京で神宗の死と哲宗の即位を知ったと思われますが、そのことには心を動かされずに、三月には南京を発って四月三日には常州に着いています。「漁父」は蘇軾が四月に常州で書いた破調の詞です。
 詞題の「漁父」ぎょほは詞牌の名ですが、もともとは楚辞の「漁父」を踏まえており、隠者の生き方を讃えるものです。しかし、蘇軾の「漁父」は隠者というよりも、酒を愛する拗ね者といった感じです。


  漁父四首 其二     漁父四首 其の二 蘇軾

 漁父酔 蓑衣舞    漁父ぎょほは酔い 蓑衣さいにて舞う
 酔裏却尋帰路     酔いの裏うちに 却かえって帰路きろを尋ね
 軽舟短棹任横斜   軽舟けいしゅう 短棹たんとう 横斜おうしゃに任まか
 醒後不知何処     醒めて後のちいずれの処なるかを知らず
漁夫は酔い 蓑笠をつけて舞い踊る
酔っぱらって 帰りの舟の水路を尋ね
小舟に棹さす短い棹 横でも斜めでも流れにまかせる
目覚めた時に着く場所は どこであろうとかまわない

 連作の四首は、各首の冒頭がすべて漁父、その次に「飲・酔・醒・笑」がきます。其の二は「漁父酔」となっています。
 漁夫の酔っぱらっているようすで、帰りの舟の行く先も気にしないほど酔うと言うのは、当時の蘇軾の心境を反映するものでしょう。


 漁父四首 其三     漁父四首 其の三 蘇軾

 漁父醒 春江午    漁父は醒む 春江しゅんこうの午ひる
 夢断落花飛絮     夢断えて 落花飛絮らっかひじょ
 酒醒還酔酔還醒   酒醒めて還た酔い 酔っては還た醒め
 一笑人間今古     一笑いっしょうす 人間じんかんの今古こんこ
漁夫は目覚める 春の流れのまひる時
夢から覚めて 花は散り柳絮は空を舞っている
醒めては酔い 酔ってはまた醒める
移りゆくこの世の事は 笑ってすます

 其の三の冒頭は「漁父醒」です。
 おひる頃に酒から醒めて、あたりを見まわし、醒めては酔い酔ってはまた醒めると、酒びたりを誇張しています。
 そして「一笑す 人間の今古」と、この世を冷笑します。


 漁父四首 其四     漁父四首 其の四 蘇軾

漁夫笑 軽鴎挙    漁夫は笑う 軽鴎けいおうがる
漠漠一江風雨     漠漠ばくばくたり 一江いっこうの風雨
江辺騎馬是官人   江辺こうへんの騎馬 是れ官人
借我孤舟南渡     我が孤舟こしゅうを借りて 南に渡る
漁夫は笑い 軽やかに鴎は飛び立つ
果てしない川面に 雨と風
岸辺に騎馬のお役人
舟は私の小舟だけ 載せて南へお渡りだ

 其の四は「漁夫笑」ではじまります。
 川岸の爽快な気分が詠われ、岸辺に騎馬の役人が姿を現します。
 舟は漁夫の舟一艘だけですので、役人は漁夫の舟に乗って南に渡ると結びます。
 すでにお気づきと思いますが、四首の詞は全体が四場の劇のように展開しており、蘇軾はこの詞を酔っぱらって書いてはいません。
 かなり冷静に創作しており、そいう見方をすれば、其の四の詞は眼目で、役人が漁夫の舟でしか江を渡れないという部分には比喩が含まれていると考えるべきでしょう。


恵崇春江晩景二首 其一
                恵崇の「春江晩景」 二首 其の一 蘇軾

 竹外桃花三両枝  竹外ちくがいの桃花とうか 三両枝さんりょうし
 春江水暖鴨先知  春江しゅんこう 水暖かなるは 鴨 先ず知る
 蔞蒿満地蘆芽短  蔞蒿ろうこう 地に満ちて 蘆芽ろが短し
 正是河豚欲上時  正まさに是れ 河豚かとん 上らんと欲するの時
竹林の向こうに桃の花 二三の枝に咲いている
春の江水のぬくもりを 鴨はまっさきに感じとる
白蒿は一面にはびこり 芦の新芽は出たばかり
まさにこの季節に 河豚は江を上ってくるのだ

 蘇軾が常州で閑日月を過ごしていたころ、都では重大な政事的変化が起きていました。神宗は三十八歳の若さで亡くなったので、新帝はまだ十歳の幼君でした。そこで哲宗の祖母、つまり神宗の母の宣仁太皇太后が摂政になり、垂簾聴政を行うことになりました。
 宣仁太皇は常々王安石を嫌っており、新法に反対でした。
 そこで五月には洛陽に隠退していた司馬光しばこうを召し出し、尚書左僕射兼門下侍郎従三品に任じます。このとき司馬光は六十七歳で、前年の十二月に大作『資治通鑑』しじつがんを完成したばかりでした。
 旧法党であった司馬光のもとで、新法はつぎつぎに廃止されてゆきます。同時に旧法党復活の人事が進行し、蘇軾も五月には名誉回復の通知を受けます。六月には朝奉郎正七品に復し、七月に知登州軍州事に任ずる辞令を受けます。登州山東省蓬莱県は山東半島の北端にあり、赴任するには大旅行になります。
 十月十五日に蘇軾は登州に着任しました。ところが着任して五日目の十月二十日には礼部郎中従六品に任ぜられ、都に召還するとの命令を受けました。同じ十月に弟の蘇轍も秘書省校書郎・右司諫正七品に任ぜられ、兄弟揃っての中央への復帰です。
 蘇軾は十一月に登州を発ち、十二月には都汴京に到着しました。
 着任の挨拶を済ますと、都の知友から祝賀の招待が殺到し、世はまさに一変します。掲げた詩は、そうした宴席で求められ、その家に掲げてあった絵に題したものです。
 詩題の「恵崇」えすうは宋初の画僧で、山水画を得意としました。
 その「春江晩景」という絵の余白に蘇軾は詩を書きつけました。
 七言絶句の四句は描写・連想・描写・連想と交互に展開しています。まず起句で絵柄が描写され、承句は絵から連想される蘇軾の想像です。鴨の泳ぐ岸辺には「蔞蒿」しろよもぎや「蘆」あしが生えていますが、これらの草は料理のときの毒消しにも使われるものです。
 そのことから蘇軾は絵に無い「河豚」淡水に棲むフグを連想し、いまは河豚が川を遡ってくる季節であると結びます。河豚は四、五月ごろ産卵のために川を遡り、そのとき捕れるものが一番美味とされています。
 蘇軾はまさに自分たちの時期が来たと、これから都で仕事をする意気込みを詩に託して詠っているようです。


 恵崇春江晩景二首 其二
                恵崇の「春江晩景」 二首 其の二 蘇軾

 両両帰鴻欲破群  両両りょうりょう帰鴻きこうぐんを破らんと欲す
 依依還似北帰人  依依いいとして 還た似たり 北帰ほくきの人に
 遥知朔漠多風雪  遥かに知る 朔漠さくばくは風雪の多きを
 更待江南半月春  更に待て 江南 半月はんげつの春
北へ飛ぶ二羽の帰雁は 雁の群れを離れがち
南の国に心をひかれ ためらっている旅人のようだ
行く手に広がる砂漠は 吹雪の多い土地という
あと半月ほど江南で 春を待つのがよいだろう

 其の二の詩の「両両帰鴻」は自分と弟蘇轍のことで、蘇軾は急変した中央政界への登用にとまどっているようです。
 転句の「遥かに知る 朔漠は風雪の多きを」は江南からすると北になる都の政界の危険を予想しているものと思われ、都への赴任はゆっくりでいいと蘇轍に言っているようです。二首の詩には蘇軾の矛盾する気持ちが込められているように思います。


 書晁補之所蔵与可画竹三首 其一 蘇軾
       晁補之が蔵する所の 与可の画ける竹に書す 三首 其の一

   与可画竹時   与可よか 竹を画えがくの時
   見竹不見人   竹を見て 人を見ず
   豈独不見人   豈に独り 人を見ざるのみならんや
   嗒然遺其身   嗒然とうぜんとして 其の身を遺わす
   其身与竹化   其の身 竹と化して
   無窮出清新   無窮むきゅうに清新せいしんを出だす
   荘周世無有   荘周そうしゅう 世に有ること無し
   誰知此疑神   誰か此の神しんを疑こらすを知らん
文同が竹を描くとき
竹だけを見詰めて 人のことは目に入らない
人を見ないだけでなく
無我の境地にいて わが身の存在さえ忘れている
身は竹に成り切って
清らかな竹の姿を つぎつぎと描き出す
荘周のような思想家は いまの世になく
精神を集中する神技を 理解できる人がいるだろうか

 年が明けると元祐と改元になりました。「元祐」の年号には仁宗の年号である嘉祐の昔にかえすという意味があります。
 元祐元年一〇八六の正月、蘇軾は七品の服を着て廷和殿に侍し、天子から銀緋ぎんぴ=銀糸の入った緋衣を賜わりました。
 緋衣は六品の身分を示す官服です。
 同じ正月、蘇轍も都に着き、右司諫に着任します。
 その間にも新法の改廃は進行し、いよいよ募役法を廃止する段階になって朝廷内で大論争が起きます。
 反対の先頭に立ったのは新法党の執政章惇しょうじゅんで、募役法は人民の役務に関する法律ですので、人々はすでにそれに馴れている。
 それを急に嘉祐の昔にもどして差役法を行えば、人民は大混乱に陥るだろうというものです。章惇はこの議論を宣仁太皇の前であることもはばからずに主張しましたので、不敬であるという弾劾が起こり、本来の論とは無縁な理由で罷免されます。
 かわりに司馬光と呂公著ろこうちょが宰相に任ぜられました。
 同じ閏二月に蘇軾も中書舎人に任ぜられ、いよいよ文官の正道を歩きはじめます。王安石は自分が身命を賭して作り上げた新法がつぎつぎに廃止されるのを、江寧の家で眺めていましたが、募役法廃止の報せを聞いてひどく落胆し、四月六日に鐘山の寓居で病死しました。享年六十六歳でした。募役法の廃止は章惇が指摘した通り、地方で大変な混乱を引き起こします。その混乱のなか、司馬光は宰相在任七か月で九月一日に病死します。享年六十八歳でした。
 蘇軾はその月に翰林学士知制誥に任ぜられ、蘇轍も十一月に兄の後を追って中書舎人に登用されますので、この年の兄弟の昇進はめざましいものでした。こうしたなか、旧法党の中で意見の相違が生じてきます。はじめは政策の違いでしたが、次第に党派の対立の様相を呈してきます。旧法党は三派に分かれ、司馬光の系統は司馬光が陝州夏県山西省夏県の出身であったので朔党さくとうといい、蘇軾のグループを蜀党、洛陽の儒者であった程頤ていいの派を洛党らくとうといいます。
 司馬光が死ぬと蜀党と洛党の対立が深まり、互いに相手を誹謗して追い落としがはじまります。元祐二年一〇八七に蘇軾は翰林学士の職にあり、侍読を加えられました。このころの蘇軾の詩には絵に題するものが多く、求めに応じて交際のために書いたものでしょう。
 掲げた詩の詩題の「晁補之」ちょうほしは蘇軾の弟子のひとりで、元祐二年に秘書省正字従九品として都にいましたから、任官したばかりです。「与可」よかは文同の字あざなで、墨竹画の名手として有名でした。文同は蘇軾の母方の従兄にあたり、蘇軾も絵を習ったことがあります。
 文同はこのとき、すでに亡くなっていました。其の一の詩は文同がいかにすぐれた画家であったかを詠うものですが、絵そのものよりも、もっぱら制作の態度を賞讃する詩になっています。
 詩中の「荘周」は荘子のことです。


 書晁補之所蔵与可画竹三首 其三 蘇軾
       晁補之が蔵する所の 与可の画ける竹に書す 三首 其の三

   晁子拙生事   晁子ちょうし 生事せいじに拙せつにして
   挙家聞食粥   家を挙げて 粥かゆを食くらうと聞く
   朝来又絶倒   朝来ちょうらい 又た絶倒ぜっとう
   諛墓得霜竹   諛墓ゆぼ 霜竹そうちくを得たり
   可憐先生盤   憐む可し 先生の盤ばん
   朝日照苜菽   朝日ちょうじつ 苜菽もくしゅくを照らす
   吾詩固云爾   吾が詩 固もとより爾か云
   可使食無肉   食に肉にく無から使むべし
晁君は世渡りが下手で
一家で粥をすすっていると聞く
それが諛墓の文を書いて 霜竹画を得たと聞き
わたしは朝から 笑い転げる
晁先生の皿には お気の毒にも
苜菽が盛られ 朝日がそれを照らしている
以前作った詩で 私は言った
「食事に肉はなくても 家には竹がなくてはならぬ」

 其の三の詩は、晁補之が文同の霜竹の絵を手に入れたことを褒める詩です。秘書省正字の晁補之は貧しくて、一家で粥をすすっているような状態です。その晁補之が高価な文同の絵を買ったことを、ユーモアたっぷりに褒めます。「諛墓」は金を得るために、筆を曲げて死者を褒めそやす墓誌銘を書くことです。
 晁補之はそれをして金を手に入れ、絵を買いました。そのため、金は手に入ったものの朝食の菜は相変わらず「苜菽」うまごやしの大盛りです。食よりも絵、それも文同の霜竹の絵に金を使った弟子に、蘇軾は笑いながら祝詩を贈ります。弟子への親愛の情がこもった詩ですね。


故周茂叔先生濂渓 故 周茂叔先生 濂渓 蘇軾

世俗眩名実   世俗せぞくは 名実めいじつに眩げん
至人疑有無   至人しじん 有りや無しやと疑う
怒移水中蟹   怒りは 水中の蟹かにに移り
愛及屋上烏   愛は 屋上の烏からすに及ぶ
坐令此渓水   坐そぞろに 此の渓水けいすいをして
名与先生倶   名 先生と倶ともならしむ
先生本全徳   先生 本もと 全徳ぜんとく
廉退乃一隅   廉退れんたいは 乃すなわち一隅
世の中の人は 名と実体の差に目がくらみ
至人は ほんとうにいるのかと疑う
怒りは 水中の蟹に移るほど激しく
愛情は 屋上の烏におよぶほど深い
いつのまにか 廬山の麓の渓流を
先生と同じ名前にしてしまわれた
先生はもともと 完全な徳行の方で
廉潔謙譲の心は ほんの一部に過ぎない

 画題詩などを書きながら、優雅な中央勤めでしたが、元祐二年から三年へかけての党争は旧法党内の派閥争いであり、蘇軾は党争にはまり込んでゆく自分に嫌気がさすようになりました。
 元祐四年一〇八九のはじめ、洛党の程頤が知西京国子監に転じたのを機会に、蘇軾は外任を願い出ました。
 願いは三月十一日に聴き入れられ、蘇軾は龍図閣学士に叙せられて知杭州軍州事に任ぜられました。
 再度の杭州勤務ですが、今度は知州事としての赴任です。
 蘇軾は五月に都を出て、七月三日に杭州に着きました。
 蘇轍は元祐四年六月に翰林学士知制誥兼吏部尚書に任ぜられ、兄の後を追う出世ですが、吏部尚書を兼務させられたのは名目的なもので、外国への使節となるための飾りです。蘇轍は八月、遼の国主の生辰せいしんを賀する国使として契丹に赴きます。
 詩題の「周茂叔」しゅうもしゅくは周敦頤しゅうとんいのことで、その子の周燾しゅうとうが両浙転運司として杭州に来ていました。周敦頤はすでに十六年前に亡くなっていましたが、蘇軾はその人柄を尊敬していましたので、十二月、周燾に詩を贈って敬意を表しました。
 周敦頤は生前、広東転運判官になったことがありましたが、病気のために廬山の蓮華峰下に住み、家の前を流れていた湓江にそそぐ渓流を「濂渓」れんけいと名づけ、濂渓先生と呼ばれるようになりました。
 濂渓はもともと敦頤の故郷道州湖南省道県を流れていた渓流の名で、それを転用したものです。

 因抛彭沢米   彭沢ほうたくの米を抛なげうつに因って
 偶似西山夫   偶々たまたま西山せいざんの夫に似たり
 遂即世所知   遂に即ち 世の知る所
 以為渓之呼   以て 渓けいの呼と為
 先生豈我輩   先生は豈に我が輩ならんや
 造物乃其徒   造物ぞうぶつは乃すなわち其の徒
 応同柳州柳   応まさに同じかるべし 柳州りゅうしゅうの柳りゅう
 聊使愚渓愚   聊いささか 愚渓ぐけいをして愚なら使
彭沢の令を辞した陶淵明のように辞められ
首陽山に隠れた伯夷叔斉のようである
それがたまたま 世の知るところとなり
廉退の徳を以て 渓の名とするにいたる
先生を 仲間扱いにすることはできない
造物主がすなわち先生の弟子である
先生は 柳州刺史柳宗元のような方であろう
どうやら愚渓を 愚にしてしまわれたのだ

 蘇軾は周敦頤の出処進退が陶淵明や伯夷・叔斉に似ているので、「廉退」の徳が世に知られ、ついには無名の渓流を「濂渓」にしてしまわれたと詠います。このころの蘇軾は、出処進退の清らかさといったものに惹かれる心境にあったようです。中唐の詩人柳宗元は貶謫の地、永州湖南省霊陵県の渓流を「愚渓」と名づけました。
 怒った川の神が夢に現れ、なぜ愚というのかと抗議しました。
 すると柳宗元は、愚かな自分が君渓流を好きになった以上、君も愚なのだと言って川の神を納得させたといいます。なお、柳宗元が柳州刺史になるのは永州貶謫の罪が解かれたあとです。


   贈劉景文        劉景文に贈る 蘇軾

 荷尽已無擎雨蓋 荷はすは尽きて 已すでに雨を擎ささぐる蓋がい無く
 菊残猶有傲霜枝 菊は残そこなわれて 猶お霜に傲おごる枝有り
 一年好景君須記 一年の好景こうけい 君 須すべからく記すべし
 正是橙黄橘緑時 正まさに是れ 橙黄とうこう 橘緑きつりょくの時
蓮の花は散り 雨傘のような葉も枯れて
菊は傷んだが 枝は傲然と霜のなかに立っている
年間の好風景 ぜひとも心にとどめてほしい
柚の実は黄色 蜜柑はまだ緑色のこの季節を

 元祐五年一〇九〇の春、蘇轍は契丹での任務を終えて無事帰国してきました。一方、蘇軾は杭州の人々が塩水に悩まされ、しばしば旱魃の被害にあっているのをみて、この年の四月、唐代に掘られた灌漑用の六つの井戸を修復しました。つづいて五月には、西湖の西側に長さ八百八十丈約2.8kmの堰堤を築きました。
 この堰堤は西湖の真菰の根を掘って湖中に積み重ねて造ったもので、湖の浚渫と溜め池の役割を兼ねていました。堤上には芙蓉と楊柳を植えて美観をととのえ、いまに残る蘇堤がそれです。
 このころの蘇軾の詩は、温和な贈答詩が多いようです。詩題の「劉景文」りゅうけいぶんは名を季孫きそんといい、劉平将軍の末子です。
 このとき両浙兵馬都監として杭州に駐屯していました。
 劉季孫は詩人でもあり、蘇軾との唱和の詩を残しています。
 季孫には六人の兄がいましたが、みな亡くなっていましたので、起承句ではひとり存命している季孫を菊の枝に擬して褒めています。


 予去杭十六年而復来 留二年而去 平日自覚 出処老少
 麤似楽天 雖才名相遠 而安分寡求 亦庶幾焉 三月六日
 別南北山諸道人 而下天竺恵浄師 以醜石贈行 作三絶句
 其一
 蘇軾
 予 杭を去りて十六年にして復た来たる 留まること二年にして去る
 平日自ら覚ゆ 出処老少 麤楽天に似たりと 才名は相遠しと雖も
 安分寡求も亦た庶幾し 三月六日来たりて南北山の諸道人に別る
 而 して下天竺の恵浄師 醜石を以て 行を贈らる 三絶句を作る 其の一


 当年衫鬢両青青  当年とうねん 衫鬢さんびんふたつながら青青せいせい
 強説重臨慰別情  強いて重臨じゅうりんを説いて 別情を慰
 衰髪祇今無可白  衰髪すいはつ 祇今ただいま 白くす可き無し
 故応相対話来生  故に応まさに相対して 来生らいしょうを話すべし

かつての私は 青衫も鬢も黒々としていた
またお出でになれますと 慰めてくださるが
衰えた髪が白くなるまで 命のほうがもちますまい
だからいま対坐して 来世の話をしてほしい

 元祐五年一〇九〇の十二月、都では蘇轍が龍図閣学士に昇進し、兄と同じ職事官になりました。
 元祐六年一〇九一の春は蘇軾の知州事の任期が切れるときです。
 二月二十八日に翰林学士承旨をもって召還する旨の命令が届き、同じ二月、都では蘇轍が中大夫守尚書右丞正三品になりました。
 尚書右丞は宰相につぐ地位です。蘇軾は杭州を去るに当たって、交流のあった諸山の道人たちに別れを告げて歩き、留別の詩を残しました。蘇軾はこの年、五十六歳になっていましたが、詩で見る限り、隠退の気持ちは棄て去っていたようです。再会を口にする道人に、もはや老いてしまったので白髪になるまで命のほうがもちますまい。
 この機会に来世の話をしてほしいと詠っています。

      其二           其の二

 出処依稀似楽天 出処しゅっしょ 依稀いきとして 楽天らくてんに似たり
 敢将衰老較前賢 敢て衰老(すいろう)()って 前賢(ぜんけん)(かく)せんや
 便従洛社休官去 便すなわち洛社らくしゃに従って 官を休め去らば
 猶有閒居二十年 猶お有り 閒居かんきょ二十年
私の経歴は 白楽天と似ている
だが 衰老の身を 昔の賢者と比べようとは思わない
白楽天にならって 洛陽に隠退してしまうなら
私にはまだ 二十年もの閑居の月日が残されている

 蘇軾は自分の人生が白楽天に似ているといいます。
 白居易は五十八歳のときに太子賓客分司東都になって洛陽に隠棲し、七十五歳で卒しています。
 だから自分も白居易と同じように閑職に就いて隠退するならば、二十年もの閑居の年月が残されていることになると詠います。

      其三           其の三

 在郡依前六百日   郡に在るは 前まえに依って六百日
 山中不記幾回来   山中は記せず 幾回来たるを
 還将天竺一峰去   還た天竺てんじくの一峰いっぽうを将もって去る
 欲把雲根到処栽   雲根(うんこん)()って 到る処に(さい)せんと欲す
私の杭州在勤は 白楽天と同じ六百日
山寺を訪ねたのは 覚えていないほどの回数だ
白楽天にならって 私も天竺山の一峰を持ち帰るが
この雲の峰を分け ゆく先々に植えたいと思う

 以上、三首の七言絶句は、題詞にあるように下天竺寺の僧恵浄(けいじょう)から「醜石」ひねくれた形の石を贈られたのに応えて贈ったものです。
 だから醜石を「天竺の一峰」と言っています。
 蘇軾はその石を白居易のように自宅の庭石にするのではなく、各地に分けて持って行き、恵浄の教えを拡げるつもりですと言っています。


   聚星堂雪        聚星堂の雪 蘇軾

 窗前暗響鳴枯葉  窗前そうぜんあんに響いて 枯葉こよう鳴り
 龍公試手初行雪  龍公りょうこう 手を試みて 初めて雪を行
 映空先集疑有無  空に映じて先ず集まれるは 有無うむを疑い
 作態斜飛正愁絶  態を()して(ななめ)に飛ぶは (まさ)愁絶(しゅうぜつ)たり
 衆賓起舞風竹乱  衆賓しゅうひん 起って舞い 風竹ふうちく乱れ
 老守先酔霜松折  老守ろうしゅ 先ず酔うて 霜松そうしょう折る
 恨無翠袖点横斜  (うら)むらくは 翠袖(すいしょう)横斜(おうしゃ)に点ずる無く
 祇有微燈照明滅  祇だ 微燈びとう照らして明滅する有るのみ
窓辺の闇のなかで 枯れ葉が鳴りはじめ
龍神が手はじめに 雪を降らせるのであろうか
空を背にして集まる雪は はじめぼんやりしているが
科を作って飛び始めると いやましに愁いは高まる
並みいる客は起ちあがり 風になびく竹のように乱れ
老いた太守は酔いつぶれ 霜枯れの松のように倒れる
惜しむらくは梅の枝先に 斜めにかかる翠の袖がなく
ほのかな灯りが明滅して 照らしているだけということ

 蘇軾は三月六日に杭州を発ち、五月二十九日に汴京べんけいに着きました。都ではすぐに吏部尚書正二品を兼務させられますが、都は相変わらずの党争の巷です。蘇軾は讒謗の洪水に見舞われ、七月には再び外任を申請しました。申請は受け入れられ、八月八日に龍図閣学士の職事官で知頴州軍州事に任ぜられます。
 頴州安徽省阜陽はかつて欧陽脩が隠居し、卒したゆかりの地です。
 蘇軾は都勤めの蘇轍に見送られて汴京を発ち、八月二十二日に頴州に着きました。着任して間もないころ、頴州の西湖の東池の水が涸れはじめましたので、東池の魚を水の豊富な西池に移すことになりました。蘇軾は頴州に住むようになって、潁水の流れが気に入ります。
 そのころ欧陽脩の二人の息子が頴州に来ていて、母薛氏欧陽脩夫の喪に服していました。蘇軾は九月のある晴れた日に、欧兄弟のほか友人を誘って潁水に画船を浮かべて、船遊びに興じたりしました。この年は雨が少なかったので、十月の末に雨乞いの儀式が行われました。
 すると少しばかり雪が降りました。そこで十一月一日に頴州の聚星堂しゅうせいどうに客を集めて宴会を催しました。
 聚星堂は欧陽脩が知頴州軍州事のときに建てたもので、宴会は欧陽脩を偲ぶ目的があったようです。
 掲げた詩には長文の「引」いんがついていますが、そのなかに「体物の語を禁じ」とあります。これは禁体詩のことで、対物の語ありふれた常套語を使わずに詩を作ることです。詩自体は終夜の宴をつぶさに描くもので、四句ずつ五段で構成されています。
 第一段は宴会のはじまる前のようす。
 第二段は宴会の最中で、「恨むらくは 翠袖の横斜に点ずる無く」は中唐の詩人柳宗元の伝奇を踏まえていると推定されています。
 その話というのは、隋の趙師雄ちょうしゆうという者が美女と酒を飲んでいると、緑衣を着た童子が出て来て歌舞を演じました。
 そのうちに酔って寝てしまった趙師雄が目を覚ますと、大きな梅の木の下にいて、樹上では翡翠が鳴いていたといいます。内容はすこし違うようですが、蘇軾は宴会の途中で酔って寝てしまったようです。

 帰来尚喜更鼓永 帰来きらいお喜ぶ 更鼓こうこの永きを
 晨起不待鈴索掣 晨起(しんき)するに 鈴索(れいさく)()かるるを待たじ
 未嫌長夜作衣稜 未だ(きら)わず 長夜(ちょうや) 衣稜(いりょう)()すを
 却怕初陽生眼纈 却って怕おそる 初陽しょよう 眼纈がんけつを生ずるを
 欲浮大白追余賞 大白(たいはく)を浮かべて 余賞(よしょう)を追わんと欲すれば
 幸有回飇驚落屑 (さいわ)いに 回飇(かいひょう)落屑(らくせつ)を驚かす有り
 糢糊檜頂独多時 檜頂(かいちょう)糢糊(もこ)たるは 独り多時(たじ)ならん
 歴乱瓦溝裁一瞥 瓦溝(がこう)歴乱(れきらん)たるは (わずか)一瞥(いちべつ)のみ
 汝南先賢有故事 汝南じょなんの先賢 故事こじ有り
 酔翁詩話誰続説 酔翁すいおうの詩話 誰か続説ぞくせつせん
 当時号令君聴取 当時の号令 君きみ 聴取ちょうしゅせよ
 白戦不許持寸鉄 白戦はくせんして許さず 寸鉄すんてつを持するを
帰れば夜の遊びの時間 まだまだ永いのは嬉しい限り
呼び鈴の紐に引かれて 起こされる必要もない
冬の夜長に寄る着物の皺 それを気にすることはせず
心配するのは疲れた目が 朝の光でちらちらすること
座興の為に罰杯を定め 余すところなく楽しもうとすれば
折よくつむじ風が吹いて 落雪の音に驚く
檜の梢に霞んでいる雪は しばらくは消えないであろうが
瓦の溝に溜まるばら雪は みるまに消えてしまうであろう
汝南のこの地は 昔から賢者にゆかりの多い土地
酔翁欧陽先生の詩話 それを引き継ぐ者はだれか
当時の禁令を 皆さん耳をすましてお聞きなさい
から手で戦い 小さな刃物も許されないのです

 第三段と第四段は、聚星堂での宴会から家に帰ってからも、終夜つづいた遊びのようすです。最後の四句に至ってはじめて「酔翁」、つまり欧陽脩の詩業を継ぐ者は誰かと問いかけています。
 「白戦して許さず 寸鉄を持するを」というのは、武器を持たずに戦うことですから、詩文で政敵と戦うことを意味します。

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