念奴嬌 赤壁懐古    念奴嬌 赤壁懐古 蘇軾

  大江東去         大江たいこう 東に去り
  浪淘尽 千古風流人物 浪淘ろうとうし尽つくす 千古 風流の人物
  故塁西辺         故塁こるいの西辺せいへん
  人道是 三国周郎赤壁 人は道う 是れ 三国の周郎の赤壁なりと
  乱石崩雲         乱石らんせきは雲を崩し
  驚涛裂岸         驚涛きょうとうは岸を裂
  捲起千堆雪        千堆せんたいの雪を捲き起こす
  江山如画         江山こうざんの如し
  一時多少豪傑      一時いちじ 多少たしょうの豪傑あり
長江は東へと流れ
波は千年の昔から 世の人材を洗い流す
古い砦の西側を
呉の周瑜が戦った赤壁の跡と人はいう
聳え立つ岩は 雲を突くほどに高く
さかまく波は 岸にあたって砕け
積もった雪を 巻き上げるかのようだ
川も山も 絵のように美しく
多くの豪傑が この地で戦ったのだ

 蘇軾は黄州に着任した年の秋に、二度赤壁を訪れていますが、この年、元豊五年一〇八二の七月十六日にも客と舟を浮かべて赤鼻磯に至り、百句に及ぶ「赤壁の賦」を書いています。
 長詩ですので、ここでは同じころに作ったとみられる詞を掲げます。詞題の「念奴嬌」ねんどきょうは念奴妓女の名の嬌愛らしさという意味で、曲牌の名です。
 その曲に蘇軾が「赤壁懐古」せきへきかいこという内容の新しい詞をつけたということになります。つまり、替え歌です。
 詞は曲牌の曲で歌われ、題材が有名であり、歌詞の文学性が高かったので、一躍蘇軾の名を高めたと言われています。
 詞は前後二段に分かれ、前段のはじめの四句は導入部です。三国時代の古戦場赤壁に来たと舞台を設定し、物語の世界へと読者を誘い込みます。
 「周郎」は呉の将軍周瑜しゅうゆのことで、赤壁の戦の勝者であり、詞の主人公です。つづく五句は蘇軾の目に映った赤壁の眺めであり、五句と六句を対句にして雰囲気を盛り上げています。

  遥想公瑾当年      遥かに想う 公瑾こうきん 当年とうねん
  小喬初嫁了       小喬しょうきょう 初めて嫁し了おわ
  雄姿英発         雄姿ゆうし 英発えいはつなり
  羽扇綸巾         羽扇うせん 綸巾かんきん
  談笑間強虜灰飛煙滅 談笑の間かん 強虜きょうりょは灰と飛び 煙と滅ぶ
  故国神遊         故国ここくに神こころは遊ぶ
  多情応笑         多情たじょうまさに笑うべし
  我早生華髪       我われの 早つとに華髪かはつを生ぜしを
  人間如夢         人間じんかん 夢の如し
  一尊還酹江月      一尊いっそんた江月こうげつに酹らいせん
遥かに思えば 周瑜はその時
小喬を妻に迎えたばかりである
雄々しい姿に 才気はみなぎり
手には羽扇 青い頭巾をかぶり
談笑の間に 強敵は灰となり靄のように消え失せた
古い時代へと 私の心は飛んでゆく
涙もろいと 人は私を笑うであろう
だから早くも 白髪頭になり果てた
人の世は 夢のようにはかなく
ひと樽の酒を注いで 月に祈りを捧げよう

 後段の「公瑾」は周瑜の字あざなで、「小喬」は周瑜の妻です。
 後段の前半五句は周瑜を中心に描かれているとみられ、「羽扇 綸巾」を諸葛孔明のこととする解釈もありますが、周瑜も「羽扇 綸巾」姿であったと解することができます。後半の五句は作者の感懐です。
 「故国」は蘇軾の故郷、蜀漢の国とする見解もありますが、ここでは文字通り古い国、三国時代と解しました。「多情」は感受性が豊かであることで、涙もろい性格なので、このように白髪になったと笑ってみせます。
 そして結びは、「人間 夢の如し 一尊 還た江月に酹せん」と極めるのです。


   臨江仙 夜帰臨皐   臨江仙 夜 臨皐に帰る 蘇軾

   夜飲東坡醒復酔   夜 東坡とうはに飲み 醒めて復た酔う
   帰来髣髴三更     帰来きらい 髣髴ほうふつとして三更さんこうなり
   家童鼻息已雷鳴   家童かどうの鼻息びそくすでに雷鳴
   敲門都不応      門を敲たたけども都すべて応えず
   倚杖聴江声      杖に倚って江声こうせいを聴く

   長恨此身非我有   長つねに恨む 此の身の 我が有ゆうに非あらざるを
   何時忘却営営     何いずれの時にか営営えいえいたるを忘却せん
   夜闌風静縠紋平   夜よるけて風静まり 縠紋こくもん平かなり
   小舟従此逝      小舟しょうしゅうこ従り逝きて
   江海寄余生      江海こうかいに余生よせいを寄せん
夜 東坡で酒を飲み 醒めてはまた酔い
家に帰ったのは どうやら夜中の十二時ごろだ
使用人たちは すでに雷鳴のような高いびき
戸口を敲いたが 応えはなく
杖にもたれて 長江の流れの音を聴く

いつもわが身の 不自由さを嘆いているが
いつになったら 齷齪するのを止められるのか
夜も深まり 風もやみ 波は静かになってきた
小舟に乗って ここから漕ぎ出し
ひろい世間で 余生を送ろうか

 蘇軾はときには東坡の雪堂に行って、夜遅くまで飲むこともありました。
 詞題の「臨江仙」は川に臨む仙人という意味で、やはり詞の曲牌の名です。
 その曲に「夜 臨皐に帰る」という詞をつけました。詞は二段に分かれており、前段は東坡の雪堂で酒を飲み、「三更」夜中の十二時ころに自宅の臨皐亭に帰ってきました。
 ところが締め出されていて、近くを流れる長江の水音に耳を澄まします。
 後段は作者の感懐で、流謫の不自由な暮らしにあきあきして、「小舟 此こ従り逝きて 江海に余生を寄せん」と隠棲の志を述べます。
 この最後の二句から蘇軾が行方不明という噂が立ち、監督の立場にある知黄州事を慌てさせたという挿話も残されています。


      海棠          海棠 蘇軾

  東風渺渺泛崇光  東風とうふう 渺渺びょうびょうとして 崇光すうこうゆら
  香霧空濛月転廊  香霧こうむ 空濛くうもうとして 月つきろうに転ず
  只恐夜深花睡去  只だ恐る 夜深くして花の睡ねむり去らんことを
  故焼高燭照紅粧  (ゆえ)高燭(こうしょく)を焼やして紅粧(こうしょう)を照らさん
春風が遥か彼方から吹いてきて 厳かに焔はゆらぎ
立ちこめる霧の中 月はおぼろに回廊を照らす
夜が更けて 海棠の花が眠ってしまうのは嫌だから
燭台に火を点じて 紅の花の姿を照らしておこう

 元豊五年も暮れ、翌元豊六年一〇八三の春に蘇軾は瘡癤そうせつ:できものを患いましたが、さほどのことはなく、三月には海棠かいどうの花を愛でています。
 定恵院の東の山に一株の花海棠があって、蘇軾はその花木をことのほか愛していました。海棠はもともと蜀の名花で、蜀には海棠渓という渓谷もあります。
 蘇軾の海棠に寄せる思いは、故郷への想いとも重なっていたのでしょう。


    南堂五首 其五     南堂 五首 其の五 蘇軾

   掃地焚香閉閣眠   地を掃はらい 香を焚き 閣かくを閉ざして眠る
   簟紋如水帳如烟   簟紋てんもん 水の如く 帳とばりは烟けむりの如し
   客来夢覚知何処   客来たりて夢覚め 知んぬ 何いずれの処ぞ
   挂起西窗浪接天   西窗せいそうを挂起けいきすれば 浪なみ天に接す
床を掃いて香を焚き 部屋を閉めて眠る
筵はさざ波のようで 帳は靄のようだ
客が来て夢から覚め どこにいるのかわからない
西窓の簾をあげると 長江は天の果てまで流れている

 五月になると、臨皐亭の裏の小高い丘に南堂が完成しました。
 この小堂は黄州の知友が蘇軾のために建ててくれたもので、長江を一望できる景勝の地にありました。蘇軾はさっそくこの堂を休息に利用し、「西窗を挂起すれば 浪天に接す」と、その雄大な景色を褒めています。
 南堂を建ててくれた友人へのお礼心もあったでしょう。


初秋寄子由    初秋 子由に寄す 蘇軾

百川日夜逝   百川ひゃくせん 日夜にちやに逝
物我相随去   物と我と 相あい随って去る
惟有宿昔心   惟だ 宿昔しゅくせきの心有り
依然守故処   依然として 故処こしょを守る
憶在懐遠駅   憶おもう 懐遠駅かいえんえきに在りしとき
閉門秋暑中   門を閉ず 秋暑しゅうしょの中うち
藜羮対書史   藜羮れいこう 書史しょしに対し
揮汗与子同   汗を揮ふるうこと 子と同ともにせり
昼夜を舎かず 流れ去る川のように
万物と私は 過ぎゆく時を流れ去る
だが私には むかし誓った心があり
依然として かわらぬ心を守っている
思えばむかし 懐遠駅にいたとき
残暑のなかで 家に閉じこもっていた
粗食に耐えて 経書史書に取り組み
流れる汗も拭わずに 二人で懸命の努力をした

 南堂が建ったあと、蘇軾は六月に目を患いますが、七月には筠州いんしゅうにいる蘇轍に五言古詩を送りました。
 詩は四句をひとまとめにして六段に分けて読むことができます。
 初句の「百川 日夜に逝く」は、『論語』子罕篇しかんへんの有名な句「逝く者は斯かくの如き夫 昼夜を舎かず」を踏まえています。三句目の「宿昔の心」は、これまでも幾度か出てきた「夜雨対牀」のことで、嘉祐六年一〇六二、まだ若かった蘇軾と蘇轍が懐遠駅に居を移して制試の受験勉強に専念していたとき、韋応物いおうぶつの詩に感銘を受け、将来を誓い合ったことを指します。
 つづく四句は、懐遠駅での若いころの想い出です。

西風忽凄厲   西風せいふうたちまち凄厲せいれいたり
落葉穿戸牖   落葉らくようは 戸牖こゆうを穿うが
子起尋裌衣   子って 裌衣こういを尋ね
感歎執我手   感歎かんたんして 我が手を執
朱顔不可恃   朱顔しゅがんたのむ可からず
此語君莫疑   此の語きみ疑うこと莫かれ
別離恐不免   別離べつり 恐らくは免まぬがれざらん
功名定難期   功名こうみょう 定めて期し難がたしと
すると忽ち 冷たい秋風が吹きはじめ
戸口から 落ち葉が舞いこむ季節となる
君は立って 袷の着物を取りにゆき
私の手を取り 感嘆の言葉を述べる
「青春の若さをいつまでも当てにはできない
この言葉 疑ってはなりません
私たちは いずれ別れ別れになるでしょう
成功は 予測できないことなのです」と

 中八句の前半四句は、前の四句につづく懐遠駅での想い出です。
 後半の四句は、そのときの蘇轍の言葉を思い出して述べています。

   当時已悽断   当時 已すでに悽断せいだんたり
   況此両衰老   況いわんや此こに 両ふたつながら衰老すいろうせるおや
   失途既難追   途みちを失うこと 既に追い難く
   学道恨不早   道みちを学ぶこと 早からざりしを恨む
   買田秋已議   田でんを買うこと 秋あき已に議
   築室春当成   室しつを築くは 春はるまさに成るべし
   雪堂風雨夜   雪堂せつどう 風雨の夜
   已作対牀声   已に 対牀たいしょうの声を作
当時から 悲しみの極まる思いだったが
年老いたいまは なおさらのことだ
人生の道を失い いまさらやり直すこともできず
真理を学ぶこと 遅きに過ぎたのを後悔する
田地を買って隠退することは すでに相談した
来年春には 住まいも完成させようと思う
雪堂の夜 君と並んで寝床につき
風雨の声を はや耳にしている心地がする

 後八句の前半四句は、蘇轍の言葉に対する蘇軾の感懐です。
 「途を失うこと 既に追い難く」と真理を学び直すにはすでに老いてしまったと、遅すぎるのを嘆きます。結びの四句は、来春にも田地を買って家も建てると隠退の意思を述べています。このことはすでに蘇轍とも相談済みであり、実行に移す考えを述べるのです。
 春に患った瘡癤そうせつも、六月にかかった眼疾も、秋にはすべて癒え、九月二十七日に侍妾の王朝雲に初めての児が生まれました。蘇軾にとっては第四子になるわけで、名を遯とんとつけ、幼名を幹児かんじと呼ぶことにします。


   過江夜行武昌山聞黄州鼓角 蘇軾
               江を過り 夜 武昌の山を行き 黄州の鼓角を聞く

  清風弄水月銜山  清風せいふう 水を弄ろうし 月 山に銜ふくまる
  幽人夜度呉王峴  幽人ゆうじん 夜度わたる 呉王峴ごおうけん
  黄州鼓角亦多情  黄州の鼓角 亦た多情
  送我南来不辞遠  我を送りて南来なんらいし 遠きを辞せず
  江南又聞出塞曲  江南こうなんた聞く 出塞しゅっさいの曲
  半雑江声作悲健  (なか)ばは江声(こうせい)()じりて 悲健(ひけん)()
  誰言万方声一槩  誰か言う 万方ばんぽう 声一槩こえいちだ
  鼉憤龍愁為余変  鼉は憤り 龍は愁えて 余が為に変ず
  我記江辺枯柳樹  我は記す 江辺の枯れたる柳樹りゅうじゅ
  未死相逢真識面  未だ死せず 相逢あいあうて真しんに面めんを識る
  他年一葉泝江来  他年たねん 一葉いちよう 江を泝さかのぼって来たらば
  還吹此曲相迎餞  還た此の曲を吹いて 相あい迎餞げいせんせよ
清らかな風が 川面にたわむれて月は山陰に隠れ
世捨人の私は 夜の呉王峴を越えていく
黄州の鼓角たちは まことに友情が篤く
遠いのも構わずに 江の南まで送ってくれる
またしても江南で聞く出塞の曲
楽の音は流れの音と雑じり合い 悲壮な決意が満ちてくる
「国中どこへ行っても鼓角の声」 嘆いたのは誰であったか
鰐も憤り龍も愁えて 私のために曲の調べを変えてくれる
江の岸辺に立つ枯れた柳 私はその木を忘れない
初めてその木と逢った時 心の通う友だった
いつかまた 小舟でここへ来たときは
出塞の曲で私を迎え 送り出してほしいものだ

 元豊七年一〇八四の春、蘇軾の黄州流謫は五年目に入っていました。
 蘇軾は四十九歳になり、ほとんど致仕を決意していました。
 すると三月になって、汝州団練副使に任ずる旨の命令が届きます。
 汝州河南省臨汝県は黄州よりも都に近いので、蘇軾は量移減刑を意味する異動されたのです。汝州に赴任するかどうかを決めないまま、蘇軾は家族を連れて黄州を発ちました。
 筠州にいる蘇轍を訪ね、今後のことを相談しようと考えていました。出発に際しては黄州から多くの知友が舟を連ねて見送りにつき従います。
 まず長江を対岸へ渡り、武昌に舟をとめます。
 詩中の「鼓角」こかくも「柳樹」も、黄州で蘇軾に好意を寄せてくれた人々の比喩でしょう。「呉王峴」は武昌にある山の名で、三国呉の孫権が山道を切り開いたという伝承から、その名があります。
 「出塞曲」は楽府の横吹曲で、勇壮な曲であったと言われています。
 その音に長江の流れの音が加わって、悲しみの調べを奏でていました。
 「万方 声一槩」は杜甫の「秦州雑詩」其の四前出参照からの引用です。
 詩の中段四句は全体として世の中が乱れ、各所で戦乱が絶えないことを憂えています。
 後段四句は、そうしたなか黄州の人々が自分をあたたかく遇してくれ、心の通い合うつき合いができたことを述べ、留別の言葉としています。


     題西林壁        西林の壁に題す 蘇軾

  横看成嶺側成峰  横に看れば嶺れいと成り 側かたわらには峰ほうと成る
  遠近高低各不同  遠近 高低 各々おのおの同じからず
  不識廬山真面目  廬山ろざんの真面目を識らざるは
  只縁身在此山中  只だ 身の 此の山中に在るに縁
横から眺めると尾根つづき 側面はそば立つ峰
遠近 高低 姿はそれぞれ違っている
廬山の本当の面白さがわからないのは
身を 山中に置いているからだ

 長江を下って江州に着いた蘇軾は、廬山の南麓にあった東林寺を訪れ、高徳の老僧として著名であった常総じょうそうに会います。
 禅の教義について語り合ったことでしょう。廬山にも登り、東林寺と並んで建っていた西林寺宋代に乾明寺と改称の壁に一詩を書きつけます。
 詩はまず廬山を外から眺め、どこから眺めてもひとつとして同じ姿はない、尽きない魅力があると詠います。
 転結句は作者の感懐で、古来名句とされています。
 詩が禅寺の壁に題書き付けることされていることから、禅機を述べたとする説もありますが、官界に身を置いていると、官界の本当の姿は分からないと、物事の本質を見極めるには、外からとらわれない目で見ることが必要であると述べているとも解されます。


 去歳九月二十七日在黄州生子遯小名幹児頎然穎異
 至今年七月二十八日病亡於金陵作二詩哭之 其二

 去歳九月二十七日 黄州に在って子生まる 遯 小名幹児頎然穎異
 今年七月二十八日に至り 金陵に病亡す 二詩を作りて之れを哭す 其の二
蘇軾

   我涙猶可拭   我が涙は 猶お拭ぬぐう可
   日遠当日忘   日に遠く 当まさに日に忘るべし
   母哭不可聞   母哭ぼこくは 聞く可からず
   欲与汝倶亡   汝なんじと倶ともに亡びんと欲す
   故衣尚懸架   故衣こいお架に懸かり
   漲乳已流妝   漲乳ちょうにゅうすでに妝しょうに流る
   感此欲忘生   此れに感じて 生せいを忘れんと欲し
   一臥終日僵   一たび臥して 終日僵たお

わたしの涙は 拭うこともできよう
日が経つにつれ 忘れることもできるであろう
だが 母親の悲しみは聞くにたえない
いっそ共に死にたいという
子供の着物は まだ衣桁にかかっており
母乳はにじみ出て 寝床をぬらす
激しい衝撃のため 生きる望みを失い
寝込んだきりで 終日ふせっている

 蘇軾は廬山で旬日を過ごしたあと、五月はじめに奉新ほうしんで舟を下りました。蘇轍が禅僧二人と建山寺まで迎えに来ており、二人は武昌で遊んで以来、四年振りの再会です。蘇軾一家は筠州で弟の家の東軒に滞在して、二人はいろいろと語り合ったことでしょう。
 致仕についても相談したはずです。蘇軾はひと月近く筠州に滞在し、六月になると水路をたどって長江に出ました。
 そのころ長子の邁が饒州じょうしゅう:江西省波陽県の奥、徳興江西省徳興県の県尉に任ぜられ、家族とともに赴任してゆきました。
 蘇軾の量移にともなって、長子の連座も解かれたのでしょう。
 邁と別れた蘇軾は長江を下って、七月には江寧江蘇省南京市に着きますが、その月の末に王朝雲が生んだ子が亡くなりました。
 遯とんは前年九月の生まれですので、まだ誕生日の来ない乳飲み子です。
 江南の夏、酷暑の中での旅が幼児の命を奪ったのかも知れません。蘇軾は遯の死を悼んで二詩を作りました。母親朝雲はこのとき二十二歳でした。
 十二歳で蘇軾の侍妾になり、十年目に授かった子供でした。
 幼児の死は若い母親に激しい衝撃を与えます。詩題中の「金陵」は江寧郡南京市付近の雅称で、詩は四句ずつ四段に分かれています。はじめの四句は母親朝雲の嘆きの激しさを詠い、つぎの四句は朝雲が寝床に倒れ込んで起き上がることができず、生きる望みを失っている姿を描きます。

中年忝聞道   中年 忝かたじけなくも道を聞き
無幻講已詳   無幻 講こうずること已すでに詳つまびらかなり
儲薬如邱山   薬を儲たくわうる 邱山きゅうざんの如く
臨病更求方   病やまいに臨んで 更に方ほうを求む
仍将恩愛刃   仍お 恩愛おんあいの刃やいばを将
割此衰老腸   此の衰老すいろうの腸はらわたを割
知迷欲自反   迷いを知っては 自ら反かえらんと欲し
一働送余傷   一働いちどうして余傷よしょうを送らん
幸せにも中年になって 仏の教えを聞き
人生が幻であることは 知っているはずだ
薬は山のように調え
病気のために 新たな処方も講じた
それでもなお 恩愛の刃が
衰えた身の 腸を裂く
心の迷いと気づいたならば みずから立ち直ろう
共に慟哭して 残る悲しみを洗い流そうではないか

 後半冒頭「中年」とあるのは蘇軾のことで、蘇軾は仏教の教えも聞き、人生の無常について悟るところがありましたが、子供のために薬も投じ、手当も講じたのにと幼児の死に残念な気持ちを述べます。
 遯は幼いながら顔は蘇軾に似ていたらしく、四十八歳になってから生まれた男の児に特別な愛情を注いでいました。
 最後の段では、蘇軾は自分も老いの腸はらわたが千切れるほどの悲しみを味合っているが、共に慟哭して悲しみを忘れようと、若い侍妾を励まします。


   次荊公韻四絶 其三 荊公の韻に次す 四絶 其三 蘇軾

   騎驢渺渺入荒陂   驢に騎って 渺渺びょうびょう 荒陂こうはに入る
   想見先生未病時   想い見る 先生 未いまだ病まざる時
   勧我試求三畝宅   我に勧む 試みに三畝さんぽの宅を求めよと
   従公已覚十年遅   公に従う 已すでに覚おぼゆ 十年遅きを
驢馬に乗って遥々と 荒れた堤にやってきた
ふと目に浮かぶのは あなたの元気なときのお姿
近くに三畝ほどの宅地をどうかと お勧めになったが
教えを受けるのが十年遅すぎたと つくづく思います

 王安石はそのころ、江寧郡上元県江蘇省南京市の鐘山山麓に隠棲していました。蘇軾が江寧に足をとめたのは王安石を訪ねるためでしたが、遯の病気と死のためにすぐに連絡を取ることができなかったのです。八月になると蘇軾は幾度か王安石の居宅を訪ね、親しい交わりを結んでいます。
 蘇軾と王安石は政事的な立場では対立していましたが、蘇軾は王安石の深い学識や政事家としての勇気ある態度には敬意を払っていました。
 王安石は詩人としてもすぐれた作品を残しており、先輩として尊敬していました。このとき王安石は蘇軾よりも十五歳年長の六十五歳でした。
 すでに政事からは手を引いています。
 致仕を考えていた蘇軾は、これまでのいきがかりには拘泥することなく、すぐれた先輩として王安石を訪ねたのです。詩題の「荊公」けいこうは王安石が荊国公に封ぜられていたので敬して称したものです。
 王安石が「北山」と題する七言絶句を示したのに対して、蘇軾はその韻を踏んで四首の七言絶句を返しました。其の三の詩で「先生 未だ病まざる時」と言っているのは、この年の春、王安石が大病を患ったからですが、真意は隠退以前のことを指しているでしょう。
 病のために政界を隠退したと詩的に飾って言っていることになります。転句で「我に勧む 試みに三畝の宅を求めよと」と詠っているのは、王安石が近くに土地を求めて親しく交流しながら余生を送りましょうと言ったからです。
 蘇軾は致仕して気楽に暮らしたいと王安石に告げたと思われますが、王安石の誘いはやんわりと断っています。


 以玉帯施元長老元以衲裙相報 次韻二首 其一 蘇軾
 玉帯を以て元長老に施す 元は衲裙を以て相報いらる 次韻二首 其の一

   病骨難堪玉帯囲   病骨びょうこつ 堪え難し 玉帯ぎょくたいの囲むに
   鈍根仍落箭鋒機   鈍根どんこんお落つ 箭鋒機せんぽうき
   欲教乞食歌姫院   食じきを歌姫かきの院に乞わ教めんと欲し
   故与雲山旧衲衣   故ことさらに与う 雲山うんざんの旧衲衣きゅうのうえ
玉帯を締めていては 病気の体がもちません
愚鈍な私は 鋭い禅の教えに射ぬかれました
以前お召しの行脚の僧衣 それを私に下さるのは
娼妓の館へ 托鉢に行かせようとのお考えですか

 蘇軾は八月には江寧を発って潤州江蘇省鎮江市に行きます。
 金山寺の仏印禅師の方丈を訪ね、宿泊して旧交をあたためました。
 仏印禅師は名を元了元げんりょうげんといい、蘇軾が黄州にいたとき廬山にいて、久しく文通を交わして親しくしていた仲でした。
 その後、禅師は潤州の金山寺に移っていたのです。
 この詩には説話があって、蘇軾が法衣を着て金山の禅師の方丈を訪ねると、禅師は貴君のお坐りいただく場所がないと言います。そこで蘇軾が禅師の体を借りて禅牀としたいと答えますと、禅師はあなたの帯びている「玉帯」高官用の玉飾りのある帯を施して山門を鎮めましょうと言いました。
 そこで蘇軾は玉帯をはずして机の上に置いたといいます。
 この施捨に対する返礼として、禅師は絶句二首と「衲裙」のうくん:僧侶の衣の下裳を差し出したので、蘇軾が「次韻」同じ韻を用いることして答えたのが、この詩であるという話です。起句で蘇軾が「病骨 堪え難し 玉帯の囲むに」と言っているのは、致仕したいという気持ちを禅師に告げたのでしょう。
 禅師は蘇軾が仏門に入りたいと考えていると思って、あなたの坐る場所がありませんと断ったのです。
 禅師がほんとうに玉帯をはずして仏門に入る気があるのですかと尋ねると、蘇軾はこんなものは病気の身には窮屈だと言ってはずしてしまいます。
 転句の「食を歌姫の院に乞わ教めんと欲し」にも故事があって、唐の裴休はいきゅうは毳衲ぜいのう=毛織の僧衣を着て「歌姫院」娼妓のいる館に托鉢に行っても欲情に染まず、人を済度できると言ったといいます。禅師が自分の古い行脚衣を与えたので、蘇軾は裴休のように衲衣を着て官職の誘惑に負けないようにしなさいと励まされたと思ったのかも知れません。
 二人は心を割って話し合える間柄であったようです。


   孫莘老寄墨四首 其三 孫莘老 墨を寄す 四首 其の三 蘇軾

   我貧如飢鼠   我れ貧にして 飢鼠きその如く
   長夜空齩齧   長夜ちょうやむなしく齩齧こうげつ
   瓦池研竈煤   瓦池がちに竈煤そうばいを研けん
   葦管書柿葉   葦管いかんで柿葉しように書す
   近者唐夫子   近者ちかごろ 唐夫子とうふうし
   遠致烏玉玦   遠く 烏玉玦うぎょくけつを致いた
   先生又継之   先生 又た之れを継ぎ
   圭璧爤箱篋   圭璧けいへき 箱篋そうきょうに爤らんたり
   晴窗洗硯坐   晴窗せいそうすずりを洗うて坐し
   蛇蚓稍蟠結   蛇蚓だいん 稍々やや蟠結ばんけつ
   便有好事人   便すなわち 好事こうずの人有り
   敲門求酔帖   門を敲たたきて 酔帖すいちょうを求む
私は貧窮の極 飢えた鼠が
夜どおし何かを 齧っているようなものだ
竈の煤を集めて 瓦の窪みを硯にし
芦の茎を用いて 柿の葉に字を書いている
ところが先ごろ 唐先生がはるばると
烏玉玦の墨を 送ってくださった
続いて先生から また墨をいただき
箱のなかは 圭や璧のような墨で輝いている
晴れた日に硯を洗い 窓辺に坐れば
蛇か蚓のような字が とぐろを巻いている
ところがもの好きな人がいて
門をたたいて 酔帖をくれという

 蘇軾は金山山中の蒜山さんざんに林中の土地を買おうとしますが、うまくゆかず、九月には運河を東南に下って常州江蘇省常州市にゆき、常州管下の陽羨ようせん=江蘇省宜興県に土地を買いました。陽羨は常州の南五〇㌔㍍ほどのところにあり、太湖の西に位置する湖沼地帯です。土地を購入すると、蘇軾は再び潤州にもどり、長江を北に渡って揚州に出ました。
 蘇軾には旅を急ぐようすがありません。
 十月十九日には上書して、常州に居住する許可を求めました。
 汝州には赴任しないという意思を示したことになります。上書を出してから、蘇軾は運河を北上し、冬至の日には山陽江蘇省淮安県に至ります。
 そこから湖水を西に渡って、十二月一日に泗州江蘇省泗洪県付近に着きます。
 そこにひと月ほどとどまっていましたが、大家族を伴なった旅に加えて土地まで購入したので、生活はかなり窮屈になっていました。翌元豊八年一〇八五正月四日に泗州を発ち、南京なんけい=河南省商丘市に向かいます。その正月、弟蘇轍は筠州の監酒官から知績渓県ちせきけいけんに転任しています。績渓安徽省績渓県は黄山の東南麓にあり、歙州きゅうしゅう=安徽州歙県の北に位置しています。
 筠州の監酒官から歙州管下の県の知事になったのですから、量移とみることができます。詩は南京へ向かう蘇軾が道中で書いたものですが、生活困窮のさまをユーモアをまじえて伝えています。墨を送って来た「孫莘老」は孫覚そんかくのことで、孫覚は王安石と親しかったのですが、政事的な意見を異にしていたために中央を離れ、湖州浙江省呉興県の知州事などを勤めました。
 詩は四句ずつ三段に分かれ、はじめの四句は蘇軾の困窮したようすです。
 墨を送ってもらったことへのお礼の詩ですから、誇張した表現になっています。中四句の「唐夫子」は唐坰とうけいのことで、唐坰ははじめ王安石に用いられましたが、王安石を謗るに至って潮州広東省潮安市の別駕べつが:次官に貶されました。その唐坰が潮州からはるばると送って来たのが「烏玉玦」名墨の名で、玦というのは半環状の玉の形をした墨です。
 孫覚が送って来た墨は圭けいの形をしていたようです。
 後段四句では自分のことにもどり、蘇軾は求める人があれば、詩を書いた帖習字の手本と引き換えに銭を得ることもあったようです。
 「酔帖」は酒の酔いに任せて書いた習字の手本ということになりますが、もとよりおどけて言っているのでしょう。


   孫莘老寄墨四首 其四 孫莘老 墨を寄す 四首 其の四 蘇軾

   吾窮本坐詩   吾が窮するは 本もと 詩に坐せばなり
   久服朋友戒   久しく朋友ほうゆうの戒いましめを服ふくせしに
   五年江湖上   五年 江湖こうこの上ほとり
   閉口洗残債   口くちを閉じて 残債ざんさいを洗えり
   今来復稍稍   今来こんらいた稍稍しょうしょう
   快癢如爬疥   癢ようを快こころよくすること 疥かいを爬くが如し
   先生不譏訶   先生 譏訶きかせず
   又復寄詩械   又た復た 詩械しかいを寄せらる
   幽光発奇思   幽光ゆうこう 奇思きし発し
   点黮出荒怪   点黮てんたん 荒怪こうかい
   詩成自一笑   詩成りて 自ら一笑す
   故疾逢蝦蟹   故疾こしつ 蝦蟹かかいに逢うと
窮乏する私の生活は 詩によって受けた罪による
だから諌めを守って 久しく詩をひかえてきた
この五年間 江湖のほとりで
口を控えて 負債を洗い流す
近頃になって また筆を執ってみると
疥癬を掻くように心地よい
先生はそれを お叱りにならず
詩作の刑具を送ってくださる
深みのある墨の色に 私の奇想は躍りいで
黒い点々から 得体の知れない怪物が飛び出してくる
かくて詩はできあがり みずから一笑する
蝦や蟹を食べさせられ また持病が起きたかと

 其の四の詩も四句ずつ三段に分けて考えることができます。
 前段の四句では自分の貶謫が詩作の罪によるものであることを認め、「五年」は黄州流謫の期間、「口を閉じて 残債を洗えり」と言っています。
 罪は贖ったというのでしょう。
 口吻には余裕があり、中段では近ごろまた少しく筆を取るようになった言っていますが、これは政府批判の詩のことでしょう。
 「又た復た 詩械を寄せらる」と言っているのは、孫覚が危険な詩を作らないようにと言って墨を送って来ました。それは危険でない詩は大いに作りなさいという勧めであろうと言っています。後段の四句では良い墨の深みのある色を見て、奇想が湧いてきたと言い、おいしい蝦えびや蟹かにを食べて、また持病の発疹が出るようなものですと、おどけて見せています。

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