月夜与客飲杏花下  月夜 客と杏花の下に飲す 蘇軾

  杏花飛簾散余春  杏花きょうかれんに飛んで余春よしゅんを散さん
  明月入戸尋幽人  明月めいげつに入って幽人ゆうじんを尋ぬ
  褰衣歩月踏花影  衣ころもを褰かかげ 月に歩して花影かえいを踏めば
  炯如流水涵青蘋  炯けいとして 流水の 青蘋せいひんを涵ひたすが如し
  花間置酒清香発  花間かかんに酒を置けば 清香せいこう発す
  争挽長条落香雪  (いか)でか長条(ちょうじょう)()いて 香雪(こうせつ)を落さん
  山城酒薄不堪飲  山城さんじょう 酒薄くして飲むに堪えず
  勧君且吸杯中月  君に勧む 且しばらく吸え 杯中はいちゅうの月
  洞簫声断月明中  洞簫どうしょう 声は断ゆ 月明げつめいの中うち
  唯憂月落酒杯空  唯ただ 憂う 月落ちて酒杯しゅはいの空むなしきを
  明朝巻地春風悪  明朝みょうちょう 地を巻いて 春風しゅんぷうしくば
  但見緑葉棲残紅  ()だ見ん 緑葉(りょくよう)残紅(ざんこう)()ましむるを
杏の花びらが簾に散って 春の名残りを告げている
月光が家の中に射しこんで 風流に生きる私を誘う
月明りの中で裾を持ち上げ 花影を踏んでゆくと
清らかな水の流れが 水草を浮かべているようだ
花咲く木の下に酒樽を置けば さわやかな香りがひろがる
杏の枝を引っ張って 雪のような花を落とさないでほしい
田舎町のこの城では 酒の味も薄くて飲むにたえない
せめては杯のなかの 月の影でも味合ってほしい
月明りの中 同簫の笛の音も消え
心配なのは 月が沈んで杯が空になってしまうこと
明日の朝 春風が強く吹いたら
赤茶けた花びらだけが 緑の葉のあいだに残っているだろう

 そのころ都にいた王鞏おうきょうが徐州にやってきて、十日間ほど滞在しました。王鞏は祖父が宰相を務めたほどの名門の出で、蘇軾を師と仰いでいました。蘇軾は病気も回復しており、南京の顔復がんふくを誘って泗水に舟を浮かべ、王鞏をもてなしました。
 舟には三人の妓女をともない、聖女山に登って笛と酒を楽しみました。
 それからひと月ほど経った秋の終わりには、僧侶で詩人の道潜どうせんが訪ねてきて、以後永く交遊を深めることになります。徐州は都にも近く、交通至便の地ですので、蘇軾の詩を慕う人々との交流が盛んになりました。
 そうしたことは、都の新法党の目ざわりになったかも知れません。
 元豊二年一〇七九の春を迎え、蘇軾は徐州の春を楽しんでいました。
 詩は四句ずつ三段に分けて展開し、導入部は春の夜、蘇軾は花と月の光に誘われて庭に出てゆきます。「衣を褰げ」とありますが、月明かりの庭が水にひたされ、水草を浮かべているように見えたのです。
 中段では杏の花の咲く木の下で、友人と宴会をはじめます。
 「山城」の城は街という意味で、徐州を山間の田舎町と謙遜しています。
 酒もまずいので、せめては「杯中の月」、杯の中に映る月の影でも飲んでほしいといいます。後段は結びで、客の吹く「同簫」縦笛の一種の音も消えたけれど、酒宴を終えるのは惜しい気持ちです。
 その気持ちを二句に描いて、朝になって風が吹けば、「緑葉の残紅を棲ましむるを」と杏の花に託して詠っています。各段に蘇軾の繊細な詩眼、余裕のある詩情が配されていて、すぐれた作品だと思います。


 罷徐州往南京馬上走筆寄子由五首 其一 蘇軾
   徐州を罷めて南京に往かんとし
             馬上 筆を走らせて子由に寄す 五首 其の一

   吏民莫扳援   吏民りみん 扳援はんえんする莫かれ
   歌管莫凄咽   歌管かかん 凄咽せいえつする莫かれ
   吾生如寄耳   吾が生せいは 寄するが如きのみ
   寧独為此別   寧いずくんぞ独り 此の別れを為さん
   別離随処有   別離べつりは 随処ずいしょに有り
   悲悩縁愛結   悲悩ひのうは 愛に縁って結ばる
   而我本無恩   而しこうして我われは本もと 恩無し
   此涕誰為設   此の涕なみだが為に設もうくるや
人々よ そんなに私を引き止めないでくれ
送別の歌も笛も むせび泣くのはよしてくれ
私の人生は 仮のやどりのようなもの
別離の体験は 今度だけではない
別れは至る所にあって
悲しみや悩みは愛の絆で結ばれる
知州事として 何の恩恵も施していないのに
この涙は 誰のために流されるのか

 のどかに過ごしていた春二月の末、蘇軾は以前と同じ祠部員外郎直史館の寄禄官で知湖州軍州事に異動を命ぜられました。湖州浙江省湖州市呉興県は太湖の南にありますので、江南に飛ばされたことになります。蘇軾は三月になると徐州を発ちますが、循吏として善政をほどこしていた蘇軾が任期前に転勤になったことは、徐州の人々にとって残念なことでした。
 回り道になりますが、蘇軾はまず弟のいる南京に向かいます。
 詩は徐州出発の模様を馬上で書いて、蘇轍に贈ったものでしょう。
 蘇軾は「我は本 恩無し」と謙遜していますが、徐州の住民は涙を流して別れを惜しんだようです。

紛紛等児戯   紛紛ふんぷんとして 児戯じぎに等し
鞭鐙遭割截   鞭むちと鐙あぶみとの割截かつせつに遭うは
道辺双石人   道の辺の双ふたつの石人
幾見太守発   幾たびか 太守の発するを見し
有知当解笑   知る有らば 当まさに解く笑うべし
撫掌冠纓絶   掌を撫ちて 冠纓かんえいたん
まるで子供のいたずらのように
鞭や鐙がしばしば毀される
石像が二つ 道端にあって
彼らは幾度 知事の出発を見送ったことか
もし石像に 知覚があるならば
掌を打って 纓がちぎれるほどに笑うであろう

 蘇軾の湖州赴任に反対する者は、馬の鞭を折ったり、鐙の紐を切ったりして反対の意思表示をしたようですが、これはひとつの仕来りかも知れません。蘇軾は三月十日に南京に着いて弟との別れを惜しみ、南京から泗州に下り、四月には泗州から淮水に入ります。
 同じ晩春のころ王安石も都を離れ、船で江南に向かっていました。王安石は将来の希望を託していたひとり息子を都で亡くし、この春、都を辞して江寧こうねい:江蘇省南京市郊外の鐘山しょうざんに隠棲することになっていました。
 蘇軾は泗州から淮水を下って洪沢湖を東へ渡り、山陽江蘇省淮安県から大運河を南へ下ります。王安石よりも少し遅れて揚州を通過したはずです。
 潤州、蘇州をへて、蘇軾が湖州に着いたのは四月二十日でした。


 予以事繋御史台獄獄吏稍見侵自度不能堪
  死獄中不得一別子由故作二詩授獄卒梁成以遺子由 其一
 蘇軾
予 事を以て御史台の獄に繋がる 獄吏 稍々侵さる 自ら度る堪うる能わず 獄中に死し
子由に一別するを得ざらんと 故に二詩を作りて獄卒梁成に授け 以て子由に遺る 其の一


   聖主如天万物春  聖主せいしゅ 天の如くにして万物ばんぶつ春なり
   小臣愚暗自亡身  小臣しょうしん 愚暗ぐあんにして 自ら身を亡うしな
   百年未満先償債  百年ひゃくねん 未だ満たざるに先ず債さいを償つぐな
   十口無帰更累人  十口じっこう 帰する無くして 更に人に累るいせん
   是処青山可埋骨  是いたる処の青山せいざん 骨を埋うずむ可し
   他年夜雨独傷神  他年たねん 夜雨やう 独り神しんを傷いたましめん
   与君世世為兄弟  君と世世よよ 兄弟と為
   又結来生未了因  又た結ばん 来生らいせい 未了みりょうの因いん
聖天子の恵みは広大で 万物は春のようだ
愚かな臣下である私は 自ら身を滅ぼそうとしている
人生百年にも満たない内に 罪をつぐなうことになり
家族十人は頼るあてもなく 君に面倒をかけるだろう
わたしの骨は どこの山に埋めてもよいが
君は雨の夜に ひとりで心を痛めるだろう
いつの世にあっても 君とは兄弟に生まれ合わせて
終わりのない因縁を 結びつづけていようではないか

 蘇軾には楽天的というか、物事にこだわらない性格があります。
 自己の境遇にすぐに順応するのです。知湖州事への転勤は左遷にあたると思いますが、あまり気にすることなく、六月十三日には王適おうてき、王遹おういつの兄弟と長子邁まいの若者三人を連れて遊覧に出かけています。
 王適、王遹の兄弟は学生として徐州にいたとき、蘇軾の官舎に寄寓するようになり、蘇軾の転勤にともない、湖州についてきました。兄の王適はのちに蘇轍の娘と結婚しますので、家族同様に暮らしていたようです。
 平穏な日々がつづくと見られましたが、七月二十八日になって、突然、御史台の台吏が湖州に乗り込んできて、蘇軾を逮捕して都へ連行しました。
 問罪は蘇軾の詩文の多くに時の政事を批判する文言があり、不敬に当たるというのです。天子に対する不敬罪は重罪です。
 蘇軾は八月十八日に御史台の獄に下され、厳しい調べがはじまります。
 二十年前に作った詩にまで遡って詩句の意味が追求され、蘇軾は詩句の一字一句について弁明しました。
 その途中、蘇軾は一時、死罪を覚悟したことがあります。
 このことについては、南宋の葉夢得しょうぼうとくの『右林避暑録話』に説話があり、蘇軾は獄中への差し入れについて長子の邁と合図を定めていました。
 通常の差し入れは野菜と肉にし、情勢が最悪になったときは魚のみを差し入れるように命じておいたのです。邁は都に出てきて親戚の者に頼んで差し入れをしてもらっていましたが、合図のことを言うのを忘れていました。
 親戚の者がたまたま良質の塩魚を手に入れたので、それを差し入れると、蘇軾は魚が来たのに驚き、蘇轍あてに二首の詩を作って獄卒の梁成りょうせいに託しました。詩題中の「子由しゆう」は蘇轍の字あざなで、詩は蘇轍に宛てた形式になっていますが、私信を獄卒しかも名前を明示してに託したのは、詩が御史台を通じて上聞に達することを期待していたとも考えられます。
 詩中の「夜雨」は夜の雨音を聞きながら寢台を並べて寝ることで、当時は仲のよい兄弟や親友の喩えとして用いる詩語になっていました。
 詩は神宗のもとに届き、蘇軾の兄弟愛が天子の心を動かしたとも言われ、また一説では神宗はもともと蘇軾を死罪にする気持ちはなかったとも言われています。蘇軾はほどなく恩赦によって出獄することになりました。


 十二月二十八日蒙恩責授検校水部員外郎黄州団練副使
 復用前韻二首其一
 蘇軾
 十二月二十八日 恩を蒙りて検校水部員外郎 黄州団練副使を責授せらる
 復た前韻を用う二首 其の一

  百日帰期恰及春  百日ひゃくじつの帰期ききあたかも春に及ぶ
  余年楽事最関身  余年よねんの楽事らくじ 最も関身かんしんなり
  出門便旋風吹面  門を出でて便旋べんせんすれば 風 面めんを吹き
  走馬聯翩鵲啅人  馬を走らすること聯翩(れんべん)(かささぎ)は人に(かまびす)
  却対酒杯渾似夢  却かえって酒杯に対すれば 渾すべて夢に似
  試拈詩筆已如神  試みに詩筆を拈れば 已すでに神の如し
  此災何必深追咎  此の災わざわい 何ぞ必ずしも深く追咎ついきゅうせん
  竊禄従来豈有因  竊禄せつろくは従来なれば 豈に因いん有らんや
百日の拘禁のあと 春に間に合う帰還となり
余生の楽な暮らし それが第一の関心事だ
獄を出てひと巡り 風は心地よく面に吹き
馬を走らせると 鵲が祝福の声を挙げる
酒杯に向かえば すべては夢かと思われ
試しに筆を取ると 神わざのように筆ははこぶ
このたびの災厄を 深く咎める必要はない
禄盗みは前からで 今度のこととは関係ない

 蘇軾は出獄することになりましたが、罪に問われなかったわけではありません。十二月二十八日に検校水部員外郎正七品の寄禄官で黄州団練副使に任ぜられ、黄州湖北省黄岡県に追放同然の身になりました。
 詩題にある「検校」けんこうは定員外の名誉職という意味であり、州の団練使自体が唐代に設置され、宋代には虚銜きょがん:空位になっていました。
 つまり名目だけの官職であり、仕事はありません。
 詩は出獄直後の作品ですが、「此の災い 何ぞ必ずしも深く追咎せん 竊禄は従来なれば 豈に因有らんや」と結ばれています。
 蘇軾には罪の意識というものが感じられませんが、団練副使が虚銜であることは、充分に分かっていたはずです。
 蘇軾は翌元豊三年一〇八〇正月一日に長子邁を連れて都を発ちました。
 追放の身ですので即刻の離京です。
 ぐずぐずしていると処分に不満があると解されます。


     初到黄州        初めて黄州に到る 蘇軾

  自笑平生為口忙  自ら笑う 平生へいぜい 口の為に忙しかりしことを
  老来事業転荒唐  老来ろうらい 事業 転うたた荒唐こうとうたり
  長江繞郭知魚美  長江 郭かくを繞めぐりて 魚うおの美なるを知り
  好竹連山覚筍香  好竹(こうちく) 山に連なりて (じゅん)(かんば)しきを覚ゆ
  逐客不妨員外置  逐客ちくかく 員外いんがいの置を妨さまたげず
  詩人例作水曹郎  詩人 例として水曹すいそうの郎ろうと作
  只慙無補糸毫事  ()(はず)らくは 糸毫(しごう)の事を(おぎな)うこと無く
  尚費官家圧酒嚢  尚お官家かんかの圧酒嚢あつしゅのうを費やすことを
食べるために忙しく過ごしてきた 思えば自ら苦笑い
年を取れば する事なす事 見当はずれのことばかり
城を巡って長江が流れ 魚もうまいことだろう
山には竹の美林があり 筍のよい香りも匂ってくる
追放の身だから 員外郎がちょうどよく
昔から詩人は 水部の役人となるのがならわしだ
恥ずかしいのは 役に立つ仕事もしないのに
お上の手当てが 一部は現物で送られてくる

 弟の蘇轍は先に上書して、自分の官職を削って兄の罪を贖いたいと申し出ていました。そのこともあって、蘇轍は蘇軾の黄州貶謫に連座して、筠州いんしゅう:江西省高安県の監酒官に左遷となりました。
 筠州は黄州の南二三〇㌔㍍の辺地です。
 都を出た蘇軾はまず陳州にゆき、正月四日に蘇轍の家に着きました。
 当時、蘇軾の家族は湖州から陳州の蘇轍の家に移ってきていました。
 蘇軾はここで家族と会い、家族の移動は弟に託して、自分は差し当たり邁だけを連れて黄州へ向かいます。
 陳州から西南の蔡州河南省汝南県をへて新息河南省息県へ出ます。
 黄州は新息から関山大別山の関所を越えて南へ一九〇㌔㍍ほど行った長江北岸にあります。途中、岐亭きてい:湖北省麻城県の西南で知友の陳慥ちんぞうに迎えられ、五日間ほど逗留し、黄州に着いたのは二月一日でした。
 黄州は長江が曲流するところにあって、城壁をめぐって江が流れていました。蘇軾は魚がうまそうだと詠い、近くの山には竹の美林が茂っていて、筍の香ばしい匂いが漂ってくるようだと上機嫌です。「逐客 員外の置を妨げず 詩人 例として水曹の郎と作る」と自分の立場を肯定しながら、政事に貢献するわけでもないのに「官家の圧酒嚢を費やす」と詠います。
 「圧酒嚢」酒搾りの袋を費やすというのは、給与の一部として官法酒を作るときに用いた袋が現物支給されることです。
 廃品ですが再利用の価値があったのでしょう。


  卜算子        卜算子 蘇軾

缺月挂疎桐     缺月けつげつは 疎桐そとうに挂かか
漏断人初静     漏ろう断えて 人 初めて静まりぬ
誰見幽人独往来  誰か見ん 幽人ゆうじんの独り往来するを
漂渺孤鴻影     漂渺ひょうびょうたり 孤鴻ここうの影

驚起卻囘頭     驚いて起ち 卻かえって頭こうべを囘めぐらす
有恨無人省     恨み有るらん 人の省かえりみる無きに
揀尽寒枝不肯棲  寒枝かんしを揀えらび尽くして 肯あえて棲まず
寂寞沙洲冷     寂寞(せきばく)として 沙洲(さしゅう)(ひやや)かなるにありしか
欠けた月は 冬枯れの桐のあたりにあり
夜も更けて 人は眠りについている
侘び住まいの者が ひとり当てもなく歩いていく
誰が見るであろう はるかなる孤雁の影を

人影に驚いて 雁はうしろを振り向いた
誰からも 顧みられぬ悲しみを秘めている
冬枯れの枝を 選びつくして棲む気になれず
淋しさに満ち 寒い砂洲にいたのであろうか

 蘇軾はさし当たっての居所として、黄州の東門、清淮門の外にあった定恵院の房を与えられました。つまり、城外に住まわせられたのです。
 蘇軾はこの年、四十五歳でしたが、四十九歳の三月まで黄州に在任させられますので、都合四年一か月間、黄州にとどまることになります。
 仕事はありませんので、生活は苦しかったと思いますが、暇はいくらでもありました。
 その間、蘇軾は近在のあちらこちらを散策して多くの詩を作っています。
 題の「卜算子」ぼくさんしは詞牌の名で、売卜算命から取ったものとされています。詞題は詞の内容とは関係がなく、形式の上で双調四十四字、前後段各四句二仄韻の詞であることを示しています。
 この詞には黄州定恵院寓居の作という題注が付してありますので、定恵院に仮居していたときの作品と推定されます。前段で蘇軾は定恵院の夜更けの庭を歩いており、流謫者の深い悲しみが漂っています。
 後段に「恨み有るらん 人の省る無きに」とあるように、自分を孤雁に託して孤独を噛みしめています。「沙洲」は雁のいた場所を指しますが、それは同時に蘇軾のいた牢獄でもあるでしょう。


雨晴後歩至四望亭下魚池上遂自乾明寺前東岡上帰二首其一 蘇軾
 雨晴れて後 歩して四望亭下魚池の上に至り
             遂に乾明寺の前 東岡の上より帰る 二首 其の一

   雨過浮萍合   雨過ぎて 浮萍ふひょうがっ
   蛙声満四隣   蛙声あせい 四隣しりんに満つ
   海棠真一夢   海棠かいどうしんに一夢いちぼう
   梅子欲嘗新   梅子ばいししんを嘗めんと欲す
   拄杖閒挑菜   杖を拄いて 閒しずかに菜さいを挑
   鞦韆不見人   鞦韆しゅうせん 人を見ず
   殷勤木芍薬   殷勤いんぎんなり 木芍薬もくしゃくやく
   独自殿余春   独り自ら 余春よしゅんに殿でん

雨が過ぎ去ると 池の浮き草が流れ寄り
蛙の鳴き声が あたり一面に満ちる
海棠の花盛りも 夢のように過ぎて
新しい梅の実が 食べられる季節になった
杖をついて のどかに草を摘むと
鞦韆には こぐ人の影もない
ひたすらに 咲いているのは牡丹の花
晩春の野に ひとりで殿しんがりをつとめている

 二月二十七日、雨が上がったあと、蘇軾は歩いて黄州城の南の岡に登りました。山頂には四望亭しぼうていがあり、広々とした江山の景色が眺められる景勝の地です。
 四望亭下に池があり、蘇軾は二首の五言律詩を作りました。詩の前半は季節の移り変わりを、あたりの風景に託して巧みに述べています。
 尾聯の「木芍薬」は唐代の開元年間に、宮中では牡丹のことを木芍薬と称していたといいます。蘇軾が宮中の古い言葉を用いたのは、牡丹が「独り自ら 余春に殿す」るのを現在の自分の姿に擬したものでしょう。


遷居臨皐亭    臨皐亭に遷居す 蘇軾

我生天地閒   我われの天地の間かんに生まれたるは
一蟻寄大磨   一蟻いちぎの大磨たいまに寄するなり
区区欲右行   区区くくとして右より行かんと欲すれども
不捄風輪左   風輪ふうりんの左よりするより 捄すくわれず
雖云走仁義   仁義に走ると 云うと雖いえど
未免違寒餓   未いまだ 寒餓かんがに違たがわるるより免まぬがれず
剣米有危炊   剣米けんべい 危炊きすい有り
鍼氈無穏坐   鍼氈しんせん 穏坐おんざ無し
私が天地の間に生まれたのは
挽き臼の上の 一匹の蟻のようなものだ
右から左へと すこし動こうとしても
左から回転してくるこの世から逃れられない
仁義のために 生きようとする私だが
いまだに 飢えと寒さから逃れられない
剣の切っ先に坐して 米を炊くような危うさ
鍼の蓆に 坐っているようなものだ

 筠州いんしゅうの監酒官に左遷された蘇轍は、自分の家族と兄の家族をつれて二月のうちに陳州を発っていましたが、黄州に着いたのは五月二十八日でした。蘇轍は三か月ものあいだ江淮の間をめぐっていたようですが、観光旅行をするような立場ではありません。実情は黄州での蘇軾の住居が決まらず、往くに行けなくて親戚や知人のあいだを泊まり歩いていたのでしょう。
 ようやく新しい住居が決まって、蘇軾は一行を黄州から一一㌔㍍余の巴河口はかこうまで迎えに行きました。
 新しく与えられた住居は城南一里五五三㍍ほどのところにある駅舎の跡で、もと回車院と呼ばれていた官舎でした。蘇軾は新居に臨皐亭りんこうていという名をつけ、家族が着いた翌日の五月二十九日に移っています。「皐」は水際という意味です。蘇軾は詩の前半で自分の人生を振り返ります。
 「風輪」は楞厳経りょうごんきょうにみえる語で、仏教世界の最下底をいいます。
 自分が少しでも動こうとすると、すぐに新法党の妨害が入るのを諷するものでしょう。

   豈無佳山水   豈に佳き山水 無かりしならんや
   借眼風雨過   眼まなこを借すこと風雨の過ぐるがごとくなりき
   帰田不待老   田でんに帰ること 老おいを待たざるに
   勇決凡幾箇   勇決ゆうけつするは 凡およそ幾箇いくたり
   幸茲廃棄余   幸いに茲ここに 廃棄はいきの余
   疲馬解鞍駄   疲馬ひば 鞍駄あんだを解
   全家占江駅   全家ぜんか 江駅こうえきを占めたるは
   絶境天為破   絶境ぜつきょう 天 為に破れるならん
   饑貧相乗除   饑貧きひん 相乗除あいじょうじょすれば
   未見可弔賀   未いまだ 弔賀ちょうがすべきを見ず
   澹然無憂楽   澹然たんぜんとして 憂楽ゆうらく無きに
   苦語不成些   苦語くごを成さず
よい山水の地に 出逢わなかったわけではないが
雨風が過ぎるように 関心がなかった
故郷へ帰るのに 老いを待つことはないのだが
勇気をもって 踏み切れる者が幾人いるだろうか
幸いにもここに 廃残の人生
疲れ切った馬の 鞍と荷をほどくことになる
一家揃って 江岸の駅舎を与えられたのは
天が私のために 仙境の壁を破ってくれたのだ
とはいっても 飢えと貧しさを計算すれば
悔むべきことか 祝うべきことかわからない
憂いも楽しみも 超越したつもりでいても
言葉は渋りがち 楚歌の些のようにはいかないものだ

 よい山水に出逢っても「眼を借すこと風雨の過ぐるがごとくなりき」と言っているのは、山水を愛でる暇もないほど慌ただしい人生であることを諷するものでしょう。このとき蘇軾の家族は、継室の王閏之が三十三歳、長子の邁が二十二歳で妻と三歳の幼児簞をかかえています。次子の迨は十一歳、三子の過は九歳の少年で、蘇軾の侍妾王朝雲は二十歳でした。そのほかに家族同様の使用人もいたと思われますので、十人はいる大家族です。
 この大家族を正七品の給与で養っていくのは困難が予想され、詩句の最後を「苦語 些を成さず」と結んでいます。些というのは楚辞に出てくる特殊は助字で、脚韻字の下に置かれる囃子言葉です。
 囃子言葉のように調子よく事は運ばないだろうというのでしょう。
 蘇軾は六月になると、弟蘇轍と共に長江を渡り、黄州の対岸にある武昌湖北省鄂城市を訪ねました。ふたりで遊楽のひとときを過ごしましたが、家族を預けて苦労をかけた労をねぎらったのでしょう。そのあと蘇轍は自分の家族を連れて長江を下り、筠州に赴任してゆきました。


東坡八首 其四 東坡八首 其四 蘇軾

種稲清明前   稲を種う 清明せいめいの前まえ
楽事我能数   楽事らくじ 我れ能く数えん
毛空暗春沢   毛空もうくう 春沢しゅんたく暗く
鍼水聞好語   鍼水しんすい 好語こうごを聞く
分秧及初夏   秧おうを分かちて 初夏に及び
漸喜風葉挙   漸く喜ぶ 風葉ふうようの挙がるを
月明看露上   月明らかにして 露の上のぼるを看
一一珠垂縷   一一いちいちたまを垂
清明節のまえに 稲の種を撒き
これからの夢を 数えあげるのは楽しいことだ
霧雨が降り 春の溜め池は暗くなり
鍼のような新芽が出たと 嬉しそうな話を聞く
苗を分けて植えつけると ちょうど初夏になり
風にそよぐ稲の葉に 喜びがわいてくる
月の明るい夜 稲の葉に露がやどると
一つひとつが 珠をつらねて垂れているようだ

 黄州での蘇軾一家の生活がはじまり、蘇軾は八月六日に息子の邁をつれて赤壁を訪れています。赤壁は三国志の古戦場として当時から有名でしたが、正確な場所は確定していませんでした。
 名前は同じでも蘇軾が訪れたのは黄州西北の赤鼻磯せきびきです。
 蘇軾はここが気に入り、九月には再度ひとりで訪れています。
 翌元豊四年一〇八一正月二十日には、黄州に赴任するときに滞在した岐亭きていに行き、陳慥ちんぞうを訪ねています。数日滞在して地もとの潘丙はんへい、古耕道ここうどう、郭遘かくこうの三人と女王城を訪れました。
 女王城は黄州から十里五、五㌔㍍ほどのところにある永安城の俗称で、城の城東にあった禅荘院で蘇軾は詩を作っています。
 蘇軾と同行した人々は詩を解する人たちですが、身分は商人でした。
 この年の二月、友人の馬夢得まぼうとくが蘇軾の苦しい生活を見かねて、もと兵営跡の荒れ地数十畝を州府から借りてくれました。
 蘇軾はこの地を、白居易の忠州時代の「東坡」とうはにあやかって東坡と名づけ、八首の詩を作っています。其の四の詩を掲げますが、四句ずつ順を追って稲作の過程を描いています。
 二句目に「楽事 我れ能く数えん」と言っているように、蘇軾はこれから始めようとする耕作と収穫の楽しみを想像して詠っています。

秋来霜穂重   秋来しゅうらい 霜穂そうすい重く
顛倒相撐拄   顛倒てんとう 相撐拄あいとうしゅ
但聞畦隴閒   但だ聞く 畦隴けいろうの間かん
蚱蝗如風雨   蚱蝗さくぼう 風雨の如し
新春便入甑   新春しんしゅん 便すなわち甑そうに入り
玉粒照筐筥   玉粒ぎょくりゅう 筐筥きょうきょを照らす
我久食官倉   我れ久しく 官倉かんそうを食
紅腐等泥土   紅腐こうふ 泥土でいどに等し
行当知此味   行々ゆくゆくまさに 此の味わいを知るべし
口腹吾已許   口腹こうふくわれすでに許す
秋が来て 霜の降りた稲穂は
頭を垂れて 重そうに折り重なる
畦に飛蝗が 風雨のように飛ぶが
稲に被害はないと聞く
搗きたての米を 甑で蒸せば
米粒は玉のように輝いて籠を照らす
官給の米を 久しく食べてきたが
赤く変色した泥のような米だ
これからは 自分で育てた米を食べられると
早くも収穫で 腹いっぱいの気分でいる

 やがて稔りの季節が来て、搗きたての米を甑こしきで蒸します。
 ここで蘇軾は「我れ久しく 官倉を食み 紅腐 泥土に等し」と、自分で作った米が如何に美味しいものであるかと言い、これまで官途の給米で養われてきた人生を反省します。最後の二句は結びで、「口腹 吾 已に許す」と、収穫のことを思っただけで腹一杯の気分だと、農地を世話してくれた馬夢得まぼうとくに感謝の気持ちを述べるのです。


 正月二十日与潘郭二生出郊尋春忽記
  去年是日同至女王城作詩乃和前韻
 蘇軾
 正月二十日 潘郭の二生と郊を出でて春を尋ぬ 忽ち記す
 去年の是の日 同じく女王城に至りて詩を作るしことを 乃ち前韻に和す

   東風未肯入東門   東風とうふういまだ肯あえて東門に入らず
   走馬還尋去歳村   馬を走らせて還た尋ぬ 去歳きょさいの村
   人似秋鴻来有信   人は秋鴻しゅうこうに似て 来たること信しん有り
   事如春夢了無痕   事は春夢しゅんむの如く 了ついに痕こん無し
   江城白酒三杯釅   江城こうじょうの白酒はくしゅ 三杯にして釅げん
   野老蒼顔一笑温   野老やろうの蒼顔そうがん 一笑して温おんなり
   已約年年為此会   已すでに約す 年年此の会を為さんと
   故人不用賦招魂   故人こじん 用いず 招魂しょうこんを賦することを
春の風は まだ東門から入って来ない
去年の村を 馬を飛ばして今年も訪ねる
秋雁のように 人はかならずやってくるが
この世の事は 春の夢のようにはかない
村の酒には釅こくがあり 三杯飲むと
蒼白い顔に笑みが漏れ 老いた体も温まる
毎年会おうと 約束しているが
友よ 招魂の賦はもう作らないでいてほしい

 元豊五年一〇八二の正月二十日、去年と同じ日に、蘇軾は再度岐亭を訪ね、陳慥や潘丙、郭遘らに会いました。
 そして潘丙、郭遘と三人で郊外に出かけ、去年、女王城で作った詩と同じ韻を用いて七言律詩を作りました。
 詩は中四句を前後の二句で囲む形式です。
 陳慥をはじめとするグループとは毎年会って会を持とうと約束しており、蘇軾は今年も去年の村を訪れます。中四句は酒宴の感懐です。
 結びで「故人 用いず 招魂を賦することを」と言っているのは、楚辞に「招魂」の賦があり、呪文によって魂を甦らせることになっています。
 陳慥らは都の友人たちと連絡して、蘇軾を都へ復帰させる運動をしていたらしく、蘇軾はそのような運動はしないでほしいと言っています。


    紅梅三首 其一     紅梅 三首 其の一 蘇軾

  怕愁貪睡独開遅  怕愁(はしゅう)す 睡りを貪りて独り開くことの遅きを
  自恐冰容不入時  自ら恐る 冰容ひょうようの時に入らざるを
  故作小紅桃杏色  故ことさらに 小紅しょうこう 桃杏とうきょうの色を作
  尚余孤痩雪霜姿  尚お 孤痩こそう 雪霜せつそうの姿を余あませり
  寒心未肯随春態  寒心かんしんいまだ肯えて春態しゅんたいに随わず
  酒暈無端上玉肌  酒暈しゅうんはし無くも玉肌ぎょくきに上る
  詩老不知梅格在  詩老しろうは知らず 梅格ばいかくの在るを
  更看緑葉与青枝  更に看る 緑葉りょくようと青枝せいしとを
たっぷり眠っている内に 咲き遅れたのを恥じるのか
氷のような顔では 季節にそぐわぬとでも思ったのか
桃や杏の花のように ほんのり紅い花の色だが
雪や霜に耐えてきた 孤高の痩せ姿は残っている
寒さに耐えた心が 春に融け込むのを拒みながら
ほのかな酒の酔いが 玉のような肌を染めている
老いた詩人には 紅梅の持ち味がわからぬらしい
花のほかに緑の葉や 青い枝にも目をそそぐ

 その年の二月に、蘇軾は「紅梅三首」を作りましたが、其の一の詩はなかでも傑作とされているものです。
 紅梅を擬人化して詠っているところが、当時としては斬新な発想でした。
 この詩も中四句を前後の二句で囲む形式であり、首聯では紅梅の開花を人の目覚めのように描いています。中四句は紅梅の咲いている様子ですが、ここでは紅梅を自分に比しているのかも知れません。尾聯の「詩老」は石延年せきえんねんのことで、石延年の「紅梅」の詩に桃の緑葉や杏の青枝が詠ってあるのを批判して、紅梅にはその必要はないと言っています。


寒食雨二首 其二 寒食の雨 二首 其の二 蘇軾

春江欲入戸   春江しゅんこうに入らんと欲し
雨勢来不已   雨勢うせい 来たって已まず
小屋如漁舟   小屋しょうおくは漁舟ぎょしゅうの如く
濛濛水雲裏   濛濛もうもうたる水雲すいうんの裏うち
空庖煮寒菜   空庖くうほうに寒菜かんさいを煮
破竈焼湿葦   破竈はそうに湿葦しついを焼く
那知是寒食   那なんぞ知らん 是れ寒食かんしょくなるを
但感烏銜紙   但だ感ず 烏からすの紙を銜ふくむに
君門深九重   君門くんもん 深きこと九重きゅうちょう
墳墓在万里   墳墓ふんぼ 万里に在り
也擬哭途窮   也た 途みちの窮するに哭こくせんと擬
死灰吹不起   死灰しかい 吹けども起たず
長江の春の流れは 戸口から流れ込もうとしているのに
雨の勢いは強くて 止みそうにない
小さな家は 釣り船のように
もうもうと 水けむりに包まれている
何もない台所で 粗末な野菜を煮ようとし
壊れかけの竈に 湿った芦をくべる
これでは今日が 寒食の日と誰がわかろう
わかるのは 烏が紙銭を口に咥えているからだ
天子の宮門は 九重の奥にあり
墳墓の地は 万里の彼方にある
阮籍のように 道に窮して泣き出したいが
灰になった紙は 吹いても燃え上がることはない

 同じ二月に、蘇軾は東坡のかたわらに雪堂を建て、はじめて東坡居士と号しました。蘇軾が農地を「東坡」と名づけ、みずからの号としたのは、白居易の語を借りたことにとどまらず、その生き方をも踏襲しようとしたと解することができます。ここに蘇東坡が誕生するわけですが、一家の生活はかなり困窮していました。蘇軾は黄州にきてから三度目の寒食節を迎えています。寒食節は清明節陽暦四月五、六日ころの前三日間ですので、本来は気候のよい季節です。
 ところがこの年は、激しい雨が降りました。
 春の長江は雪解け水を集めて水かさが増していますので、それに豪雨が加わって臨皐亭は釣り舟のように水煙に包まれてしまいます。詩は四句ずつ三段に分かれますが、中四句では窮迫した生活のようすが描かれます。
 終わりの四句では、蘇軾は泣き出したいような気持を詠います。
 「也た 途の窮するに哭せんと擬す」は、魏末、正始時代の阮籍げんせきが気の向くままに馬車で出かけ、車が通らない道に迷い込んだために声を上げて泣きながら引き返してきたという故事を踏まえています。
 「途」は人生の行方を意味しており、生きるべき道に窮したのです。
 しかし、蘇軾はここで、燃え尽きた紙は再び燃え上がることはないと、泣くのを止めます。

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