於潜女         於潜の女 蘇軾

  青裙縞袂於潜女  青裙せいくん 縞袂こうべい 於潜よせんの女じょ
  両足如霜不穿屨  両足りょうそく 霜の如くして屨くつを穿かず
  舵沙鬢髪糸穿杼  舵沙たさたる鬢髪びんぱつは 糸の杼ちょを穿うが
  蓬沓障前走風雨  蓬沓ほうとう 前を障さえぎりて 風雨に走る
  老濞宮粧伝父祖  老濞ろうひの宮粧きゅうしょう 父祖より伝え
  至今遺民悲故主  今に至るまで 遺民いみん 故主こしゅを悲しむ
  苕渓楊柳初飛絮  苕渓ちょうけいの楊柳ようりゅう 初めて絮じょを飛ばし
  照渓画眉渡谿去  渓たにを照らして 画眉がび 谿たにを渡って去る
  逢郎樵帰相媚嫵  (ろう)(たきぎ)とりて帰るに()いて 相媚嫵(あいびぶ)
  不信姫姜有斉魯  信ぜず 姫姜ききょうの斉魯せいろに有るを
青い裳裾に白い袂 於潜の娘は
屨こそ履かないが 足は霜のように白い
機織の糸のように ぴんと張り出した鬢髪
幅広の銀櫛を挿し 風雨の中を駆けてゆく
呉越の王の宮廷の 化粧の法を代々つたえ
今でも遺民たちは 昔の君主を慕っている
苕渓の岸の楊柳が 柳絮を飛ばし始めるころ
谷川の流れに映えて 美しい娘が渡っていく
薪を背負った若者に 娘はにっこり笑いかけ
斉魯の姫が勝るなど 信ずる気にはなれないのだ

 蘇軾は二月に行部からもどると、三月にはまた行部に出かけます。
 今度は於潜浙江省于潜県、昌化をへて杭州の西方一二五㌔㍍ほどのところにある渓源まで行っています。この地域は天目渓てんもくけいの上流に当たり、州の管轄区域の西端に近いところです。於潜の女性は呉越の国の古い風俗を残しており、美人が多かったといいます。
 呉越の国を「老濞」と漢初の呉越王劉濞を借りて表現していますが、実際は五代十国時代の呉越王銭氏のことで、五代の女性の風俗は髷を大きく横に張り出して、額の上に幅広の銀の飾り櫛を挿していました。
 それが「舵沙たる鬢髪は 糸の杼を穿ち 蓬沓 前を障りて」です。
 なお、「屨を穿かず」は上等の屨をはいていないということで、裸足で歩いていたのではないと思います。
 「苕渓」は於潜を流れる西苕せいちょうのことで、秋になると両岸の白い苕の花が散って流れに浮かび、雪のようであったといいます。
 いまは三月で、楊柳が白い柳絮りゅうじょを飛ばし始めているころです。
 娘が谷川を渡っていくと、薪を背負った若者が山から下りて来るのに出逢って、娘はにっこり笑いかけます。
 それを見た蘇軾は、昔から美人の国と称われてきた「姫姜の斉魯」姫姓や姜姓の魯や斉の姫君よりも於潜の田舎娘のほうが美しいと詠います。


   無錫道中賦水車    無錫道中 水車を賦す 蘇軾

  翻翻聯聯銜尾鴉  翻翻はんはん 聯聯れんれん 尾を銜ふくめる鴉からす
  犖犖确确蛻骨蛇  犖犖らくらく 确确かくかく 骨を蛻きし蛇へび
  分疇翠浪走雲陣  疇ちゅうに分かるる翠浪すいろうに雲陣うんじん走り
  刺水緑鍼抽稲牙  水を刺す緑鍼りょくしんは稲牙とうがの抽けるなり
  洞庭五月欲飛沙  洞庭どうてい 五月 沙すな飛ばんと欲す
  鼉鳴窟中如打衙  鼉は窟中くつちゅうに鳴いて打衙だがの如し
  天公不見老翁泣  天公てんこう 見ずや 老翁の泣けるを
  喚取阿香推雷車  阿香(あこう)喚取(かんしゅ)して雷車(らいしゃ)()さしめよ
ひらひらと連なり 尻尾をくわえて飛ぶ鴉
ごろごろと角ばり 引き抜いた蛇の骨のよう
畦ごとの水の面に 影を映して雲は流れ
緑の針のように 稲の新芽が顔を出す
洞庭山の麓では 五月に砂が飛ぶほど乾燥し
洞窟で鳴く鼉は 役所で鳴らす太鼓のようだ
天の神よ 泣いている老人の涙が見えないのか
はやく阿香を呼び出して 雷神の車を押させてくれ

 十一月になると、蘇軾は常州江蘇省常州市、潤州方面の飢饉を救うために出張しました。恵山で除夜を迎え、常州の城外で年を越しました。
 煕寧七年一〇七四正月には丹陽江蘇省丹陽県から潤州にゆき、宜興江蘇省宜興県をへて杭州にもどりました。
 太湖の西北方面をめぐる大旅行で、仕事熱心な蘇軾です。
 三月には再び常州、潤州方面の飢饉救済のために出張し、五月には常州から無錫むしゃく=江蘇省無錫市に至ります。灌漑のために水車を踏む老農夫はいたるところで目にしたと思われますが、無錫では、それを詩に詠いました。
 詩の首聯は水車の描写で、日本の水車とは異なる仕組みのものです。
 翻車とも龍骨車ともいわれ、数人が足で踏んで回転させるものを踏車といいます。羽根のついた水車と水を流す樋からなり、樋には水の逆流を防ぐ板が龍骨のように取り付けられていました。
 頚聯の「洞庭」は洞庭湖ではなく、太湖の岸にあった洞庭山のことです。
 太湖の岸の砂が乾いて風で飛ぶほどの旱魃で、「鼉」鰐の一種も水を求めて泣き叫ぶと詠います。尾聯の「天公」は天帝のことで、老翁が泣いているのが見えないのかと訴えます。「阿香」は雷神の車を押す役目の女神で、はやく雷神の車を動かして雨を降らせてくれと祈るのです。


   青牛嶺高絶処有小寺人跡罕到 蘇軾
              青牛嶺 高絶の処に小寺有り 人跡到ること罕なり

   暮帰走馬沙河塘   暮れに帰り 馬を走らす沙河さがの塘つつみ
   炉煙裊裊十里香   炉煙ろえん 裊裊じょうじょう 十里香かんば
   朝行曳杖青牛嶺   朝あしたに行き 杖を曳く青牛せいぎゅうの嶺みね
   崖泉咽咽千山静   崖泉がいせん 咽咽えつえつ 千山静かなり
   君勿笑老僧       君 老僧を笑うこと勿なか
   耳聾喚不聞       耳聾ろうして 喚べども聞こえず
   百年倶是可憐人   百年 倶ともに是れ憐れむべき人
   明朝且復城中去   明朝 且つ復た城中に去らば
   白雲却在題詩処   白雲は却かえって詩を題する処に在らん
日暮れに馬を走らせて 沙河の堤をゆき
香炉の煙が立ちのぼり 遠くまで香しい
朝 杖をついて 青牛嶺に登ると
崖に滴る泉の音 山々は静かである
君よ 老僧を笑ったりしないでくれ
耳が遠くて 呼んでも聞こえないのだ
百年たてば 人は誰しも憐れな老人になる
明朝 城にもどれば
白雲は詩を題したあたりにあるだろう

 蘇軾は六月には杭州にもどり、七月に西湖畔の霊雲山武林山に登り、霊雲寺に宿しました。
 早朝に霊雲寺の高峰塔に上って初秋の山谷の凉を味合います。
 三十九歳の蘇軾は活発に動きまわって詩を作り、僧侶と語り合います。
 ところが八月になると、今度は蝗の害が発生し、再び西方の臨安、於潜、新城方面へ出かけて対策を講じました。新城では近くの宝福山に多福寺を訪れ、青牛嶺せいぎゅうれいに登って小寺の壁に詩を書きつけました。
 宝福山と青牛嶺を描写するはじめの四句のあと、五言を含む三句は俗事に耳を穢さない老僧と人生の無常を詠うものです。
 それは同時に俗事にまみれている自分を省みることでもありました。
 結びは白雲を出すことによって隠者への思いを述べていますが、「白雲は却って詩を題する処に在らん」という言い方は面白い表現だと思います。


雪後書北台壁二首 其一 雪後 北台の壁に書す 二首 其の一 蘇軾

   黄昏猶作雨繊繊  黄昏こうこんお雨の繊繊せんせんたるを作
   夜静無風勢転厳  夜静かにして 風無きも勢い転うたた厳げんたり
   但覚衾裯如潑水  但だ覚ゆ 衾裯きんちゅう 水を潑はっするが如きを
   不知庭院已堆塩  知らず 庭院ていいんすでに塩を堆たいするを
   五更暁色来書幌  五更 暁色ぎょうしょく 書幌しょこうに来たり
   半月寒声落画簷  半月 寒声かんせい 画簷がえんに落つ
   試掃北台看馬耳  試みに北台を掃はらって 馬耳ばじを看れば
   未随埋没有双尖  未いまだ埋没に随わずして 双尖そうせん有り
たそがれ時には まだ糸のような雨が降っていた
夜静かになると 風も止み厳しい寒さが迫ってくる
覚えているのは 水を撒いたような夜具の冷たさ
気づかなかったが 庭にはすでに雪が積もっている
午前四時朝の光が 書斎の帳に射すかとみえたが
それは月明かりで 雁の声が寒々と軒端に落ちる
雪を払って北台に上り 馬耳山を望んでみると
山は雪に埋もれておらず 二つの岩が見えている

 この年、蘇軾は三年間の通判杭州の任期を終えます。しかし、都への帰任は願わずに、斉州山東省済南市に近い州の勤務を願い出ました。
 というのも、前年の四月に弟の蘇轍が陳州から斉州の掌書記に転任になっていたので、弟のいる斉州の近くへの転勤を望んだのです。
 九月になって、蘇軾は権知密州軍州事に任ずる辞令を受けました。
 知州事代理として密州山東省諸城県に行くことになったのですが、密州は斉州の東南二三〇㌔㍍も離れた僻遠の州です。
 斉州に行くには山地を避けて北へ大きく迂回しなければならず、蘇轍の近くに転勤したことにはなりませんでした。蘇軾は意地悪な中央人事に憤りを感じましたが、辞令が出たからには赴任しないわけにはいきません。
 蘇軾は杭州を去るに当たって、王朝雲おうちょううんという娘を侍妾に迎えています。王朝雲はまだ十二歳の少女でしたが、蘇軾は妻子とともに朝雲を密州に伴なっています。密州に着いたのは十一月三日でした。季節は真冬のころで、南国の杭州から来た一行にとっては思いがけない寒さでした。
 十二月の雪の朝、蘇軾は北台に上って台閣の壁に七言律詩二首を書きつけました。詩題にある「北台」というのは州庁の北側にある壁上の見張り台で、城壁の上に楼閣が建っていました。この詩は夜明け前の書斎の中と、書斎を出て北台に上り、馬耳山を望むところまでが描かれており、時間の経過を追う蘇軾詩の特色が見て取れます。
 馬耳山は州府の南にあり、山頂に二つの岩が突き出ていて、それが馬の耳のようであったことから名づけられました。


 雪後書北台壁二首 其二 雪後 北台の壁に書す 二首其の二 蘇軾

  城頭初日始翻鴉  城頭じょうとうの初日しょじつ 始めて鴉からすひるがえ
  陌上晴泥已没車  陌上はくじょうの晴泥せいでいすでに車を没す
  凍合玉楼寒起粟  凍こうりは玉楼ぎょくろうに合し 寒さは粟ぞくを起こし
  光揺銀海眩生花  光は銀海ぎんかいに揺らぎ 眩まばゆくして花を生ず
  遺蝗入地応千尺  遺蝗いこうは地に入る 応まさに千尺せんせきなるべし
  宿麦連雲有幾家  宿麦しゅくばくは雲に連なりて 幾家いくいえか有る
  老病自嗟詩力退  老病 自ら嗟す 詩力の退おとろうるを
  空吟冰柱憶劉叉  (むな)しく冰柱(ひょうちゅう)を吟じて 劉叉(りゅうさ)(おも)
城壁から朝日が昇ると 目覚めた鴉は舞い上がり
雪解けの道はぬかるみ 車輪は泥にまみれている
北台は凍って玉楼のよう 寒さで肌は鳥肌になる
光は銀の海に揺らぐよう 眩しくて目の中に花が咲く
この雪で蝗の子は 千尺も地下にもぐったであろう
麦畑は広々として雲に繋がり 数軒の農家が見える
老いと病で詩作の力も衰えた みずからそれを歎きつつ
空しく「冰柱」の詩を吟じて 劉叉のことを思いやる

 其の二の詩は北台からの眺めと感懐です。
 頚聯の「遺蝗は地に入る 応に千尺なるべし」は、雪が降れば蝗の子は地下深くにもぐると信じられており、雪は豊作の兆しです。華北では冬麦の畑が雲に繋がるほど遠くまで広がっており、農家も点々と見えます。
 蘇軾は麦秋の豊作によって農家が潤うことを期待します。
 結びの「劉叉」は韓愈の弟子で中唐の詩人です。「冰柱」「雪車」の二詩を残しましたが、不幸な人生を歩み、死処も不明です。
 だから、結びの「空しく冰柱を吟じて 劉叉を憶う」というのは、劉叉の恵まれない人生に思いを馳せ、同情しているのです。劉叉の「冰柱」の詩では、氷柱は溶けて泥水となり、江水に流れ込まないことを嘆いています。
 だから、首聯の二句目にある「陌上の晴泥 已に車を没す」というのは、蘇軾が時勢を憂え、王安石の新法を批判していることになります。


     江城子          江城子 蘇軾

   十年生死両茫茫  十年 生死 両ふたつながら茫茫ぼうぼうたり
   不思量 自難忘   思い量はからざれど 自おのずから忘れ難し
   千里孤墳       千里の孤墳こふん
   無処話淒涼      淒涼せいりょうを話するに処ところ無し
   縦使相逢応不識  縦使たとい相逢うとも 応まさに識らざるべし
   塵満面 鬢如霜   塵ちりは面おもに満ち 鬢びんは霜の如し

   夜来幽夢忽還郷  夜来やらいの幽夢ゆうむに 忽ちに郷きょうに還かえりぬ
   小軒窗 正梳妝   小軒しょうけんの窓 正まさに梳妝そしょうせり
   相顧無言       相あいかえりみて言ことば無く
   唯有涙千行     唯だ涙の千行せんこうなる有るのみ
   料得年年腸断処  料はかり得たり 年年 腸ちょうの断ゆる処ところ
   明月夜 短松岡   明月の夜 短松たんしょうの岡
幽明境を異にして はや十年の時空がながれ
忘れようとしても 忘れ切れるものではない
千里のかなたに 墓は残され
ともに淋しさを 語り合える者はいない
例え私に逢っても 見分けることは難しいだろう
顔は塵にまみれ 鬢の毛は霜のようだ

昨夜みた夢の中で 私は故郷に帰っていた
小さな家の窓辺で あなたは櫛けずっている
顔を見合わせても 言葉はなく
かぎりない涙が はらはらと落ちるだけ
これからはきっと 腸のちぎれる思いがするだろう
明るい月の夜に 低い松の生えた岡の上で

 蘇軾はさまざまな詩で王安石の新法を批判し、また暗喩を用いて政策の誤りを皮肉っていました。
 こうした蘇軾の態度は新法党の怒りを買わずにはいられません。
 蘇軾が杭州に在任していた三年間に、王安石は極めて精力的に新法を施行して政事の改革を推進していました。
 改革は国政全般に及ぶもので、時代が必要とする改革を勢力家たちの既得権益に切り込む形で大胆に実行に移すものでした。
 しかし、広範な改革をあまりにも急速に実施したため、改革の諏旨が末端の行政組織まで浸透せず、意図通りの成果を挙げられずにいました。
 もうひとつ王安石の評判を悪くしたのは、新法による改革を急ぐあまり、さまざまな口実を設けて反対派の官僚を中央政界から駆逐したことです。厳しい人事によって知識人の言論を封殺しましたので、良心的な官僚の反発をも惹き起こしました。煕寧六年一〇七三は前年から雨が少なく、作物の稔りが良くありませんでした。新法の反対派はそれを天の警告と称して王安石の辞任を求める声が高まります。雨乞いの儀式によって、このときは幸いに雨が降って祈祷の甲斐があったとされましたが、王安石に対する批判はやまず、煕寧七年一〇七四に王安石は宰相の職を辞します。
 しかし、翌煕寧八年には宰相に復帰します。こうした移り変わりの時期に、蘇軾は権知密州軍州事への異動命令を受け、密州に赴いたのです。
 「江城子」こうじょうしには「乙卯正月二十日 夜 夢を記す」との題注がありますので、煕寧八年一〇七五正月二十日の夜、密州で作った詞になります。
 詞は宋代に盛んになった歌謡調の韻文で、一句の自由度が高く、詞題の「江城子」は曲調を示すものです。詞の内容とは関係がありません。
 歌われているのは十年前に亡くなった妻の王弗おうふつを偲ぶもので、前後二段から成ります。王弗は故郷の眉県に葬られていますので、第一段では遠く離れた密州にあって墓参もできないと嘆いています。第二段では夢の中で故郷に帰り、窓辺で「梳妝」をしている妻の夢を見たということです。そのことが作詞の動機になっており、感傷的な気分が強い作品になっています。
 蘇軾は知事代理になって密州には来たものの弟蘇轍とも会えず、意欲の湧かない正月を過ごしています。


  和文与可洋川園池三十首 寒芦港 蘇軾
                 文与可の洋川園池三十首に和す 寒芦港

   溶溶晴港漾春暉   溶溶ようようたる晴港せいこう 春暉しゅんきただよ
   芦筍生峙柳絮飛   芦筍ろじゅん生ずる峙 柳絮りゅうじょ飛ぶ
   還有江南風物否   還た 江南の風物有りや否いな
   桃花流水鮆魚肥   桃花とうか 流水りゅうすい 鮆魚しぎょ肥えたり
流れゆく川の日だまりに 春の陽ざしは漂い
芦の新芽の萌え出る季節 柳絮も飛びかう
この江南の風物に 勝るものがあるだろうか
桃の花よ流れる水よ 鮆魚は肥えておいしそうだ

 四月になって、密州にも牡丹の季節が訪れました。
 蘇軾は城内の西にある古寺に牡丹の花を見に行きますが、思い出すのは杭州の吉祥寺で見た華やかな牡丹の花です。
 翌煕寧九年一〇七六に蘇軾は四十一歳になります。
 この年、弟蘇轍が斉州の掌書記の職を辞して都にもどりました。
 蘇轍も自分の処遇に不満だったのです。
 文同字は与可は蘇軾よりも十八歳の年長で、母方の従兄にあたります。
 詩文や書画に通じた文人であり、前年冬のはじめに洋州陝西省西郷の知州事になっていました。
 その文同ぶんどうから「洋川園池三十首」という作品が送ってきました。
 詩題の「洋川」は洋州の郡名で、洋州の園池の美しさを詠った詩です。
 蘇軾は親戚の先輩からの贈詩に感謝し、七言絶句三十首を返します。
 「寒芦港」かんろこうは三十首のうちの一首で、「港」は分流する川を意味します。寒芦港の春の景色を詠って、江南の風物の美で、ほかに挙げるものがあるだろうかと、江南を懐かしがっています。
 「桃花流水」は李白が使った有名な句です。


 除夜大雪留濰州元日早晴遂行中途雪復作 蘇軾
  除夜 大いに雪ふり濰州に留まる 元日 早に晴れ
                       遂に行く 中途にして雪復た作おこ

   除夜雪相留   除夜 雪ふりて相留あいとどまり
   元日晴相送   元日 晴れて相送あいおく
   東風吹宿酒   東風 宿酒しゅくしゅを吹き
   痩馬兀残夢   痩馬そうば 残夢ざんむごつたり
   葱曨暁光開   葱曨そうろうとして 暁光ぎょうこう開き
   旋転余花弄   旋転せんてんして 余花よかを弄ろう
   下馬成野酌   馬を下りて野酌やしゃくを成
   佳哉誰与共   佳なる哉かな 誰と与ともにか共にせん
   須臾晩雲合   須臾しゅゆにして 晩雲ばんうん合し
   乱灑無缺空   乱れ灑そそいで 缺空けつくう無し
   鵝毛垂馬騣   鵝毛がもう 馬騣ばそうに垂れ
   自怪騎白鳳   自ら怪しむ 白鳳はくほうに騎るを
大晦日は大雪で 濰州に留まったが
元日には晴れて 見送りを受ける
昨夜の酔いを 春風が吹き払ってくれるが
私は痩馬の背で 夢の名残りをみている風情だ
やがて暁の光が ほんのりと射してきて
なごりの雪が 舞い散る花のように降る
馬を下りて 野原で飲む酒は
結構なものだが 酒の相手がいない
するとたちまち 日暮れのような雲が湧き
雪は空に満ちて 乱れ降る
見ると馬の鬣は 白い羽毛が垂れたようになり
白鳳に乗った 気分である

 前年に宰相に復帰して新法の実施を推進してきた王安石は、再任後一年半ほどで再び宰相の職を辞しました。
 王安石に対する個人攻撃が止まなかったからですが、新法自体は王安石が抜擢した新法党の幹部によって推進されます。王安石は都にとどまって政策のゆくえを見守り、息子の官途を楽しみにしていました。
 十一月になると、蘇軾は祠部員外郎直史館の寄禄官で河中府山西省永済県に移知する旨の命令を受けました。
 密州から河中府へは、都を通り越して西への大移動になります。
 蘇軾は十二月に密州を発ち、北へ向かって九〇㌔㍍ほど行った濰州いしゅう=山東省濰県で除夜を迎えました。大雪に遭い、濰州で新年になります。
 この詩は煕寧十年一〇七七の元日に濰州を発つところから始まります。
 途中で「余花」残り雪が舞ったりしますが、野原で休憩したりしながら陸路を馬で西へ進んでゆきます。馬の鬣たてがみに雪が積もって、白鳳に乗ったような気分であると気持ち良さそうです。

三年東方旱   三年 東方旱ひでり
逃戸連敧棟   逃戸 敧棟きとうを連つら
老農釈耒歎   老農 耒すきを釈てて歎たん
涙入飢腸痛   涙は飢腸きちょうに入って痛む
春雪雖云晩   春雪 云ここに晩おそしと雖いえど
春麦猶可種   春麦 猶お種える可
敢怨行役労   敢あえて怨うらみんや 行役こうえきの労
助爾歌飯甕   爾なんじが飯甕はんおうを歌うを助けん
東方では 三年間も日照りがつづき
逃げ出した農家の軒が 傾いて連なっている
老いた農夫は 鋤から手を離して嘆き
すき腹に涙がしみて 痛みを起こす
春の雪は 遅れてしまったが
春の麦は まだ植えられるだろう
百姓の苦労に比べたら 旅の苦労などなんでもない
せめては詩を作って 豊作の祈りの助けとしよう

 このあたりの農家は逃亡して無人になった家が多く、軒が傾いた家がつづいていました。畑で働いていた老農夫に声をかけると、三年間も旱魃がつづいて食べる物も無くなったと嘆きます。
 蘇軾はせめて詩を作って豊作の祈りにしましょうと慰めるのでした。


  和孔密州五絶東欄梨花 孔密州の五絶に和す東欄の梨花 蘇軾

   梨花淡白柳深青   梨花りか 淡白たんぱくにして 柳深青しんせいなり
   柳絮飛時花満城   柳絮りゅうじょ 飛ぶ時 花はな城に満つ
   惆悵東欄二株雪   惆悵ちゅうちょうす 東欄とうらん二株にしゅの雪
   人生看得幾清明   人生 幾たびか清明せいめいを看るを得ん
梨の花はほんのりと白く 柳は深い緑色
柳絮が飛ぶようになれば 街は花で埋めつくされる
もの思いつつ 東の欄干に雪のような梨の花
一生のうちで 清明の佳節に会えるのは幾たびか

 蘇軾は斉州山東省章丘県、済州山東省済南市と陸路をたどって来ましたが、済州からは船を利用したかも知れません。このころの黄河は現在よりも北を流れており、船を利用するとすれば済水です。二月にはいり、鄆州うんしゅう:山東省鄆城県をへて澶州せんしゅう:河南省濮陽県まで来たとき、都から弟の蘇轍が迎えに来ていました。二人は六年ぶりの再会です。このとき蘇轍は官に就いておらず、積もる話をしながら汴京の門前まで来ました。すると蘇軾は、ここで入門を拒否されます。予想もしない険悪な雲ゆきです。
 理由も告げられないまま、蘇軾は城外にあった范景仁はんけいじんの別荘に滞在して入門の許可を待っていました。
 すると、三月三日の清明節を過ぎてから、蘇軾は河中府移知の内命を取り消され、知徐州軍州事とする命令を受けました。
 西ではなく東への異動です。四月になると、蘇軾は汴京の門前を発ち、南京なんけい:河南省商丘市をへて二十一日に徐州江蘇省徐州市に着きました。
 蘇轍は徐州まで兄と同行し、百余日間を共に過ごしました。
 徐州に着任してほどないころ、蘇軾の後任として知密州事になった孔宗翰こうそうかんから五首の七言絶句が送られてきました。
 孔宗翰は孔子の子孫といいます。「東欄とうらんの梨花りか」は「孔密州の五絶」に和した詩のひとつで、「東欄」は密州の官舎の東の欄干のことです。
 そこに二株の梨の木があって、春には雪のような白い花が咲きました。蘇軾は「人生 幾たびか清明を看るを得ん」と詠って、人生の無常を述べます。


   陽関詞三首 中秋月 陽関詞三首 中秋の月 蘇軾

   暮雲収尽溢清寒   暮雲ぼうん 収まり尽きて 清寒せいかん溢れ
   銀漢無声転玉盤   銀漢ぎんかん 声無く 玉盤ぎょくばんを転ず
   此生此夜不長好   此の生せい 此の夜 長とこしえには好からず
   明月明年何処看   明月 明年めいねんいずれの処にか看
暮れ方の雲は消えて 清涼の気があふれ
銀河の横たわるなか 音もなく明月はめぐる
この安らかな人生も 謐かな夜も 永くはつづくまい
明年この時この月を どこで眺めることだろう

 ところが八月になると、今度は蘇轍が南京留守簽判の辞令を受け南京なんけいに赴任してくることになりました。徐州と南京は東西に一四〇㌔㍍しか離れていませんし、道路も整備されています。往来は便利であり、兄弟はようやく近くに住むことができるようになりました。
 蘇轍は南京に着任する前に任地を通り過ぎて徐州に立ち寄り、仲秋の夜を兄といっしょに過ごしました。
 「陽関詞三首」はそのときの詞とされています。「陽関詞三首」は詞とあるように王維の「元二の西安に使いするを送る」前出参照の曲調で謡うものです。
 「中秋の月」は陽関詞三首のなかの一首で、蘇軾はこの詞を「明月 明年 何れの処にか看ん」と結んでいます。新法党との対立が深まっているいま、来年はどこに転勤させられているか分からないと詠っているのです。


仲秋月三首 其一 仲秋の月 三首 其の一 蘇軾

殷勤去年月   殷勤いんぎんなり 去年の月
瀲灩古城東   瀲灩れんえんたり 古城の東
憔悴去年人   憔悴しょうすいす 去年の人
臥病破窗中   病に臥す 破窗はそうの中うち
徘徊巧相覓   徘徊はいかいして巧みに相覓あいもと
窈窕穿房櫳   窈窕ようちょうとして房櫳ぼうろうを穿うが
月豈知我病   月 豈に我が病やまいを知らんや
但見歌楼空   但だ見ん 歌楼かろうの空むなしきを
仲秋の月が 去年と同じく静かに昇り
月の光は 古城の東に揺れてかがやく
だが今年の私は 痩せ衰えて
壊れた窓の下で 病に臥している
月は空を巡って 私の居所を捜しあて
連子の窓から たおやかな姿をみせる
私の病気を 月が知っているはずはなく
月見の高殿に 人影のないのを見たのであろう

 そのころ北の澶州せんしゅうでは黄河が南岸の部分で決壊し、水は鉅野山東省最西部地域の地に溢れ出しました。洪水は泗水・淮水の流域に注ぎ込み、八月二十一日には徐州に達しました。
 彭門城下の水は二丈二尺八㍍余に達し、蘇軾は対策に忙殺されます。
 水が退いたのは十月五日になってからでした。
 その間、澶州以北の黄河には水が流れなくなり、旱魃となりました。
 ところが、十月十三日に澶州付近で終日大風が吹き、それによって黄河の河道は旧に復し、再び北流するようになりました。洪水騒ぎも落ちついたので、蘇軾はこの年、十九歳になっていた長子邁まいのために嫁を迎えました。
 翌年は改元になって元豊元年一〇七八となり、二月に蘇軾は治水の功を賞されました。あわせて徐州の外小城を改築することになりましたが、これは洪水対策の一環でしょう。
 徐州の東門に黄楼が完成したのは八月十一日でした。
 その翌日、邁に長子簞たんが生まれます。初孫の誕生です。
 八月十五日に作った詩「仲秋の月 三首」をみると、蘇軾はそのころ疾に臥していたようです。恐らくは過労のためでしょう。

撫枕三嘆息   枕を撫して三たび嘆息し
扶杖起相従   杖を扶き 起ちて相従う
天風不相哀   天風てんぷう 相哀れまず
吹我落瓊宮   我を吹いて瓊宮けいきゅうに落とす
白露入肺肝   白露はくろ 肺肝はいかんに入り
夜吟如秋虫   夜吟やぎん 秋虫しゅうちゅうの如し
坐令太白豪   坐そぞろに 太白たいはくの豪ごうをして
化為東野窮   化して東野とうやの窮きゅうと為らしむ
余年知幾何   余年よねんんぬ幾何いくばく
佳月豈屢逢   佳月かげつに屢々しばしば逢わん
寒魚亦不睡   寒魚かんぎょた睡ねむらず
竟夕相噞喁   竟夕きようせきあい噞喁げんぎょう
私は枕を撫でて 幾度もため息をつき
杖をついて立ち 月に従って外に出る
空を吹く風は 容赦なく吹き
月の宮殿に 私を突き落とす
冷たい露が はらわたに凍みわたり
詩を吟じても 声は秋の虫のようにか細い
李白気どりの豪気は いつのまにか
孟郊の詩のように 困窮している
残る命が 幾年あるか知らないが
明月に会える月日も 多くはあるまい
冬の夜にも 魚は眼を開いているという
私も眠らずに 水面で喘ぎつづけているとしよう

 蘇軾はこの年、四十三歳になっていました。
 若い日に輝くほどの秀才として二十二歳で進士に及第し、希望に満ちた未来が約束されていたはずでした。それから二十年をへた現在、蘇軾には明るい展望の開ける見通しはありませんでした。

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