黒雲は墨を流したように翻り 山はまだ見えている
真珠の玉をまき散らすように 雨は船中に乱れ飛ぶ
大地を巻き上げるような風が 雲を吹き払うと
望湖楼下の湖水は 天空のように青く広がる
杭州に来て、新しい土地の風物に触れると、詩はつぎつぎに生まれます。
六月二十七日には、西湖のほとりにあった昭慶寺の前の望湖楼ぼうころうで、才気に満ちた七言絶句五首を作っています。
詩題に「酔書」とありますので、湖上に船を浮かべて宴会をしているときに雨に逢い、望湖楼に雨を避け、楼上でさらに酒を飲んだのでしょう。
やがて雨も止み、楼上から西湖を一望して作った作品と思います。
詩は雨前雨後の湖上の変化を雲・雨・風・青天と順を追ってダイナミックに捉えており、躍動感に溢れています。
一句ごとに色の変化もあり、黒・白・灰・青が推定できます。
また雲が湧いて風雨になるというのは、困難な境遇、逆境の喩えでもあり、それが強風に吹き払われ、一転して晴れ渡るという展開に寓意を読み取ることもできる作品です。
放生の池の魚は 馴れて人を追い
野生の蓮の花は いたるところで咲いている
波を枕に浮き沈みして 堪能するまで山を見上げる
風にまかせてゆく船は 月といっしょに漂うのだ
「放生の魚鼈」というのは、天禧四年一〇二〇に太子太保判で杭州出身の王欽若おうきんじゃくが西湖を放生池とし、魚鳥の捕獲を禁止したからです。
蘇軾は雨が晴れて穏やかになった湖上に船を出し、船上に寝そべって山を見上げ、夜になるまで湖上の遊覧を楽しんだようです。
いまだ小隠にはなれず 中隠で我慢しているが
山林住まいの長い暇は 短い暇にまさるであろう
もともと家なしの私は これ以上どこへゆけよう
故郷には こんなに美しい湖も山も存在しない
其の五は感懐の詩で、「小隠は陵藪りょうそうに隠れ、大隱は朝市ちょうしに隠る」という晋代の詩句を踏まえています。「中隠」は白居易の詩前出参照にあり、小隠は零落に過ぎ、大隱は喧噪に過ぎる。
だから中隠、つまり中央の顕官から外れて洛陽の留司官るしかん:唐代の閑職に留まるのがよいと詠っています。蘇軾は白居易や元稹の詩を「元軽白俗」と批判したことで有名ですが、それは白居易や元稹の亜流である宋初の「白体」の詩を批判したのであって、蘇軾自身の詩は陶淵明から白居易をへて宋代につながる自然詩の側面を有しています。
魄が見えだすころ 新月は軌道も定まらず
五六日を過ぎると 空に浮かんで安定する
今夜の月は半月で 半璧のように艶がある
夜半の十二時まで 眺めることができるであろう
望湖楼に遊んだ翌七月、蘇軾は一日に杭州を発って、西に水路を伝って余杭よこう=浙江省余杭鎮へ行きました。余杭では法喜寺に宿し、八日未明に余杭を発って、正午には臨安浙江省臨安県に着きました。臨安では浄土寺に宿し、功臣寺などをめぐって径山余杭鎮の西北に遊び、杭州にもどっています。
このように書くと蘇軾は寺めぐりをして遊んでいるようですが、寺に泊まるのは宿泊施設がないからで、昼間は州吏としての仕事をしたのです。
杭州にもどってから、再び西湖に船を浮かべ望湖楼に泊まっていますが、これは休暇でしょう。望湖楼に泊まったのも七月ですが、この年は閏七月が置かれていますので閏七月でしょう。そのほうが月齢に合うようです。
其の一の詩によりますと、月齢は「纔に五六を破りて」とありますので、新月の五、六日過ぎです。
詩は閏七月の七日か八日ころに作られたものと思われます。「魄」は月の欠けた部分で、新月のころは月の光が弱いのではっきりしています。
今夜はすでに半月になっており、月齢は新月の五、六日過ぎでしょう。
そのころには月は半璧のように艶やかになります。
「三更」夜中の十二時まで見ることができると、蘇軾は細かく観察しています。
夜もたけなわになると 月はようやく傾き
落ちようとして落ちない光景は 特にみごとである
一夜明ければ 人の世は何が起こるかわからない
蒼龍の星宿が 西空に沈む時まで見ていよう
この五首の連作は、其の一が前半夜、其の二が夜半、其の三が仏暁、其の四が夜が明けてからの回想、其の五は前夜見た湖光についての感懐になっています。しかも、前首結句の語を次首の起句に置くというように、五首の連続性に独特の工夫がほどこされています。其の二の詩の冒頭の「三更」は、其の一の詩の結句の「三更」を受けていることに注意してください。
月は傾きはじめ、落ちようとしながら空にかかっています。
後半、作者の感懐がはいり、「明朝 人事 誰か料り得ん」と言っています。
「蒼龍」は蒼龍七星のことで、星座を四つに分けた場合の東の七宿をいいます。それらの星宿訳は「ほし」と読んでくださいが西空に沈むまで見ていようというのは、政事批判でしょう。
蒼龍はすでに沈み 牛斗の星宿が横たわり
東の空には 長庚の星が光芒を放って昇ってくる
漁夫たちは 夜明けにならぬうちに釣り具をまとめ
船は去って 蒲や菰の揺れる音だけが聞こえてくる
其の三の詩の冒頭に、前句の「蒼龍」が置かれます。
「牛斗」は牽牛と斗の星宿のことです。
「長庚」は金星で宵の明星ですが、彗星の一種をいう場合もあます。彗星であれば戦乱のきざしということになりますが、ここでは金星でしょう。
転句の「漁人 筒を収めて未だ暁ならざるに及び」には作者の後注があり、西湖は放生池で漁猟が禁止されていました。だから「漁人」は盗み釣りをしていることになり、夜が明けないうちに急いで釣り具を片づけて、蒲がまや菰まこもの茂る水面を隠れるようにして帰るのです。ここにも民の生活を圧迫している禁制への批判がひそませてあると見ていいでしょう。
蒲や菰は一面に茂り 広々と水はひろがり
蓮の花は夜に開いて 風も露もかぐわしい
遠くの寺から燈明の 洩れる光をようやく見たが
月の暗い晩を待って つぎは糊光を見るとしよう
其の四の詩も「菰蒲」で其の三に詩とつながっています。遠くの寺から燈明の光が洩れるのをみたのは、寺僧が起き出たからでしょう。
この夜は、糊光に出逢うことができなかったようです。
湖光は鬼火ではなく 仙人のしわざでもない
風は凪ぎ 波は静かで 湖面は光に満ちている
二つ並んでたちまちに 糊光は寺へと消えてゆく
視ようとするが見えず 虚の広大さに立ちすくむ
「湖光」が其の四の詩と其の五の詩をつないでいますが、前の詩とは別の夜の詩です。蘇軾は杭州への赴任の途中、潤州の金山寺で見た江中の怪火に関心を持っており、自然界の怪現象に好奇心を動かしています。
蘇軾はこの詩で、湖光が寺院の光と関係がありそうだと合理的な解釈をしようとしていますが、正体は不明です。
怪火は岸辺の明かりなどが、湖面と大気との温度差によって屈折して起こる不知火しらぬひのようなものかも知れないと、わたしは思っています。
よこ風が吹き荒れて 雨は斜めに楼に降りこむ
この壮大な眺めは 詩に詠って褒めねばならぬ
雨が去り波静まれば 碧みどり一色の江かわと海
稲妻がときどき走り 紫金の蛇かと思われる
仲秋八月のはじめ、蘇軾は杭州の名勝、望海楼別名、望潮楼に上りました。
杭州の南を画する鳳凰山の中腹に中和堂があり、望海楼は中和堂の東堂です。この詩からは、「望湖楼に酔うて書す」前出参照と同様の蘇軾の才能が窺われます。それは自然の変化、時間の経過を鋭敏に捉え、眼前の大景を大きく描く才能です。
蘇軾の詩才は、杭州に来てから大きく開花したようです。
山脈の途切れるあたり 塔は高くそびえている
向こう岸の人家は 呼べば応えてくれそうだ
江をわたる秋風は 日暮れどきから強くなり
時刻を告げる鐘鼓の音 西興の津まちまで届くようだ
望海楼の楼上に立って東南を望むと、銭塘江をへだてて対岸にある西興浙江省西興県の渡津としんを望むことができました。この詩も眼前の大景を大きく捉え、時間の経過を秋風に託し、鐘鼓に託して秀逸です。
今年の粳米は 熟するのがひどく遅れ
霜を降らす雨 吹くのが近いと心配だ
霜が来たかと思うと 土砂降りの雨
把の頭に茸が生え 鎌には苔が生える
目は乾き 涙も尽きたが 雨は尽きることなく
泥にまみれて熟した稲穂 それを見るのは忍びない
畦道に仮小屋を建て ひと月も泊まり込み
晴れ間に稲を刈って 車を押して帰る
八月になると、蘇軾は杭州の州試の監試州試の責任者として試院に籠もることになっていました。望海楼に上ってからほどなくして試院に入り、九月に採点を終えてから解放されます。
その間は試院から外に出ることは許されないのです。
監試の仕事を終えると孤山にゆき、僧恵勤えごんを訪ねますが、そこで蘇軾は去る七月二十三日に欧陽脩が頴州の自宅で亡くなったことを聞きます。
享年六十六歳でした。蘇軾は大切な師を失ってしまいました。
十二月になると、蘇軾は湖州浙江省呉興県に派遣され、松江の堤防の改築工事を監督しています。
このとき江南地方の農民がしばしば大雨に悩まされ、政事にも悩まされている実情を目にし、その苦しみを農婦の口を借りて詩に詠います。
この詩には「賈収の韻に和す」の題注がついていますので、湖州烏程の賈収こしゅうの詩に応えたものです。
四句ずつ四段に分けて解することができますが、はじめの二段八句は天候の不順と大雨の中での農作業の苦労が詠われています。
訳の四句目「把」さらいは農具の取っ手のことです。
汗は流れて肩は赤くなり 担いで市場に出すが
米の値段は暴落して 糠や屑米をくれてやるのと同じこと
牛を売って税を納め 屋根板をはがして炊事をする
私たちの浅知恵では 来年の飢えのことまで及ばない
お上では銭を求めて 米はいらないと仰せになる
西北万里の羌の輩を 宥めすかしておられるとか
朝廷には立派な臣下 だが民の苦しみはなくならない
いっそ黄河に投げ込まれ 河伯の嫁になるほうがよい
後半八句のはじめ四句は市場のようすと税金の重さが詠われ、結びの四句は政事への批判です。「河伯の婦と作るに如かず」と結ばれていますが、「河伯の婦」は戦国時代の伝承を踏まえており、黄河の洪水を鎮めるために、毎年生娘を黄河に沈めて「河伯」黄河の神を祀ったといいます。
だから「呉中ごちゅうの田婦でんぷ」は、こんな苦しみを受けるくらいなら黄河に投げ込まれた方がましだと嘆いているのです。
わたしとあなたは もう永いこと友だちと離れており
耳は冷え心は乾いて 聞こえてくるものは何もありません
緑の山に向き合って 世の中のことを論ずるなら
さっそく杯を挙げて 君に罰酒を飲ませますぞ
湖州の知州事は孫覚字は莘老といい、王安石と親しい仲でした。
しかし、政見を異にしたため、中央を離れていました。
蘇軾は知州事に七言絶句を贈ります。松江の堤防工事は孫覚が応急措置として行っているものですが、蘇軾は河口を浚渫して海への排水を良くするべきであると建議していました。それが取り上げられなかったので、蘇軾は詩中で暗にそのことに触れてたしなめています。結句の「白」は罰爵のことで、爵は酒器の一種ですので、罰酒を飲ませますぞと冗談を言っています。
朝日が美しく岡を染めて 春を楽しむ客を迎え
日暮れの雨が私を留めて 酔いの境地に連れ込んだ
何ともいえないいい気分 一緒に酔いを楽しみましょう
まずはこの一杯 湖上の水神に捧げるべきだ
蘇軾は通判としての仕事をこなしながら、杭州周辺の名勝や州府をめぐりました。在地の詩人や知識人と交わりながら、煕寧六年一〇七三の正月を迎えます。正月に軽い疾やまいを得ましたが、正月二十一日には回復しており、知州事の陳襄ちんじょうに招かれて、城外に春を訪ねています。
たまたま人から贈られた清酒がありましたので、蘇軾はそれを携えて西湖のほとりに出かけます。詩題に「湖上」とあるのは湖のほとりのことで、船を浮かべての宴会ではありません。
宴会の主人は知州事ですので、転句の「君」は上司の陳襄のことです。
この詩も晴れた日の朝から日暮れの雨まで、時間の経過が描かれ、病後のせいか、通判の蘇軾のほうが知州事よりも酔っぱらているようです。
結句の「水仙王」は銭塘江の龍神で、蘇軾の注によると西湖の湖中に祠廟があったようです。
水はきらきらと輝いて 晴れた日の湖はすばらしい
ぼんやりけむる山の色 雨の降る景色もなかなかだ
西湖の景色の美しさを 越の西施にたとえたい
薄化粧に厚化粧 なんであろうとよく似合う
晴れのち雨となったこの日、蘇軾は西湖の晴色と雨の景色を共に褒めます。転句の「西子」は春秋越の美女西施せいしのことで、この詩は西湖を西施に比した詩として有名です。
西湖と西子の発音の類似にたわむれ、晴れと雨を化粧の濃淡に喩えたところが面白く、蘇軾の気取りのない気質を示していると思います。
結句の「淡粧 濃抹 総て相宜し」が名句なのか駄句なのか判断に迷うところですが、蘇軾は相当に酔っていて気持ちよさそうな様子がうかがえます。
霧雨の煙る村から 鶏と犬の鳴き声がする
生きている者には 安心して生きる場所が必要だ
子牛を買って 百姓が剣を佩びることのないようにすれば
種を蒔けよと 郭公に鳴いてもらうこともなかろうに
蘇軾は正月の末から行部こうぶに出ることになりました。
行部というのは州に所属する地方の県の巡察のことです。
今回は富陽浙江省富陽県、新城浙江省新登県方面を視察しましたので、富春江を舟で西南へ遡ることになります。旅に出ると幾つもの詩が生まれます。
詩題の「山邨」さんそんは山村という意味で、新城の近くで作られました。
五絶は五首の絶句のことで、詩は七言絶句です。起句の「鶏犬の声」は『老子』からの引用で、平和な村里を意味しています。転句の「黄犢をして人の佩ぶる無から令めば」は『漢書』循吏伝に出てくる龔遂きょうすいの故事で、宣帝のころ渤海郡の太守になった龔遂は、民で刀剣を所持している者がいれば、剣を売って牛を買わせ、刀を売って犢こうしを買わせたといいます。
これは政府の塩法が厳し過ぎるため、私塩を売る者が刀や棒を佩びて横行し、民情を悪化させているのを諷しているのです。
結句の「布榖」は郭公かっこうのことで、鳥の鳴き声の擬音です。中国では郭公は「榖を布せ」種を蒔けと鳴くようです。
七十歳の老翁が 鎌を腰に春の山に出かけ
ため息まじりに 筍や蕨のうまさを褒める
だからといって 韶を聞いて肉の味を忘れたのではない
この三か月ほど 塩気のない食事がつづいている
其の三の詩は王安石の新法が塩の密売を厳しく取り締まったので、末端の貧しい者は、かえって塩が手に入らなくなったことを諷するものです。
転句の「豈に是れ 韶を聞いて解く味を忘るるならんや」は『論語』述而篇にある有名な説話で、孔子は舜の音楽「韶」を聞いて、三月の間、肉の味を忘れるほどに感動したといいます。
蔾の杖をつき 飯をつつんで慌ただしく街へ出る
ちらと見たお金は 他人の手に渡って何も残らない
おかげで子供らの 言葉づかいだけは上品になった
なにしろ銭は 一年の大半を街中で過ごすのだから
其の四の詩は王安石の青苗法を諷刺するものです。
末端の実情を見ると、蔾あかざの杖をついた貧農が街へ行って青苗法の銭を借りても、その銭は借金返済のために、その場で商人の手に渡ってしまい、農民の手には何も残らないと言っています。転句の「児童」は銭のことを戯れて言っているもので、銭を借りても手もとには残らず、一年の大半は城内の商人のもとにありますので、言葉づかいだけは上品になったと皮肉っています。